第15話:遠くで傍観する、もう一人の王子
私立住菱初等部の特別サロン。
選ばれた特権階級の生徒だけが立ち入りを許されるその豪奢な部屋で、夏目瑞樹(七歳)は、最高級のダージリンティーの香りに包まれながら、完璧な「天使の微笑み」を振りまいていた。
「瑞樹様、こちらのマカロン、わたくしの家のパティシエが焼き上げたものですの。よろしければ……」
「ありがとう。君の髪飾りと同じ、とても綺麗な薄紅色だね。後でゆっくり頂くよ」
頬を染めて差し出される手作り菓子を、瑞樹は優雅に、そして一切の隙もなく受け取る。
同い年の「氷の王子」である住菱伊織が、令嬢たちを冷酷に切り捨てて恐怖のどん底に突き落とすのに対し、「微笑みの貴公子」である瑞樹は、甘い言葉で彼女たちを意のままに操っていた。
どちらにせよ、瑞樹の目には、彼女たちも大人たちも「予想通りの動きしかしない、退屈なからくり人形」にしか映っていないのだが。
「少し、風に当たってくるね」
令嬢たちが纏う甘ったるいハンドクリームの淀みに柔らかな笑みを残し、瑞樹は一人、サロンの広大なバルコニーへと歩み出た。
初夏の風が、彼の色素の薄いサラサラとした髪を揺らす。
瑞樹はバルコニーの手すりに寄りかかり、眼下に広がる緑豊かな中庭へと、面白そうに視線を落とした。
「……ふふっ、今日も見事な『防壁』だね」
瑞樹の視線の先。
中庭の中心にある白亜のガゼボでは、今日も奇妙な光景が繰り広げられていた。
ガゼボの周囲十メートルを、幾重にも重なる紺碧の制服の群れがぐるりと取り囲んでいる。しかし、誰一人としてその「見えない境界線」を踏み越えようとはしない。
その中心にいるのは、優雅に洋書を読む黒髪の王子と、スケッチブックに向かって足をパタパタと揺らしている、泥だらけの野生児だ。
瑞樹は、五歳の頃のパーティーで出会った「あの面白い泥だらけの女の子」が、まさか伊織の『特等席』に堂々と陣取るようになるとは、想像もしていなかった。
(伊織は、『虫除けの案山子として利用しているだけだ』なんて、誰に聞かれてもいないのに言い訳をしているらしいけれど)
瑞樹は、細められた瞳の奥に、嗜虐的でひどく冷たい光を宿した。
遠目から見てもわかる。
伊織は、その泥だらけの少女――雀が、時折奇妙な顔芸をして令嬢たちを威嚇したり、絶望的に音程の崩れた鼻歌を歌ったりするのを、ただ「黙認」している。
あの、他人の呼吸音すら不潔だと切り捨てる極度の潔癖症が。
少しでも土埃が舞えば、即座にその場を立ち去るはずの伊織が。
雀の泥だらけの靴が大理石の床を汚しても、眉をひそめるだけで、決して彼女を「追い出そう」とはしないのだ。
(……おかしいと思わないのかな、伊織は)
瑞樹は、クスクスと喉の奥で笑った。
本当にただの「虫除けの道具」なら、もっと離れた場所に立たせておけばいい。何も、自分の吐息が届くほどの至近距離に、向かい合わせで座らせる必要などどこにもないのだ。
(君の完璧な氷の城は、もうとっくに内側からドロドロに溶かされているのに。君自身だけが、その泥だらけの熱に依存し始めていることに気づいていない)
瑞樹は手すりに肘をつき、白く細い指先に顎を乗せた。
伊織の無自覚な溺愛と、破綻しきった論理。それは、退屈な日々を送る瑞樹にとって極上の喜劇だった。このまま高みの見物を決め込み、氷の王子が自らの矛盾に気づいて狂っていく様を観察するのも悪くない。
――けれど。
「……そろそろ、ただ見ているだけっていうのも、退屈してきたな」
瑞樹の端正な唇が、三日月のように吊り上がった。
伊織は今、あの泥だらけの特等席が「自分のためだけに存在する、永遠に変わらない聖域」だと錯覚している。
雀が明日も明後日も、当たり前のように自分の隣に座り、あの不格好な鼻歌を歌い続けてくれると、疑いもせずに。
「もし……その『当たり前』が、急に目の前から消えちゃったら、どうする?」
初夏の風に乗って、瑞樹の悪戯めいた囁きが空に溶ける。
平和すぎる箱庭には、少しばかりの劇薬が必要だ。
あの冷酷な氷の王子が、余裕をなくして感情を爆発させる貌を見てみたい。自分だけのものだと思い込んでいる至高の特等席を、他の誰かに奪われそうになった時、伊織は一体どんなみっともない姿を晒すのだろう。
「ふふっ……楽しみだね、伊織」
バルコニーから見下ろす腹黒い貴公子の瞳は、これからの波乱を予感して、甘く、酷薄に輝いていた。
氷の王子が「ただの案山子」だと自らを騙し、無自覚に依存しきっている仮初の平穏。
そのいびつで美しい箱庭に、間もなく、決定的な「亀裂」が走ろうとしていた。




