第10話:氷の王子の絶対ルール(※なお、全く通じていない模様)
翌日の昼休み。
私立住菱初等部の中庭にある白亜のガゼボには、昨日と同じように、明確な「二つの世界」が形成されていた。
ガゼボの外周十メートルを取り囲む、幾重にも重なる紺碧の制服と、むせ返るようなハンドクリームの甘い淀み。
そして、ガゼボの内側に陣取る、ただ一つの泥だらけの異物。
「伊織ちゃん! かかしのすずめ、今日も任務に来たよ!」
ドンッ、と無遠慮な足音を立てて、雀が向かいの席に座った。
麦わら帽子の下から覗く貌は相変わらず泥で汚れ、今日はどこで転んだのか、頬だけでなく肘にも新しい絆創膏が追加されている。
お日様の熱と湿った土の匂いが、初夏の風に乗って伊織の鼻腔をくすぐった。
(……来たか)
伊織は洋書のページからゆっくりと視線を上げ、冷酷なまでに美しい瞳で雀を見据えた。
内心では、あの息の詰まる油脂の匂いが遠ざかったことに微かな安堵を覚えつつも、態度はあくまで「氷の王子」としての峻厳さを保っている。
「……よく聞け、雀。貴様をここに置くのは、あくまで僕の読書環境を維持するための合理的な処置だ。貴様が僕の『特等席』に座る以上、厳守すべき絶対のルールがある」
「おっ! なになに? 暗号? それとも秘密の合図?」
瞳を輝かせて身を乗り出してくる雀に対し、伊織は白く細い指を一本立てた。
「第一に、僕に話しかけるな。貴様の外れた鼻歌も、中身のない世間話も、すべてが僕の思考を妨げる耳障りな雑音だ」
伊織は冷たく言い放ち、続いて二本目の指を立てる。
「第二に、その泥だらけの手で僕の私物に一切触れるな。本も、テーブルも、僕の衣類もだ。一ミリでも僕の領域を汚せば、即座にこの場から追放する」
最後に、三本目の指。
「第三に。貴様はただの『虫除けの案山子』だ。そこで黙って座り、外にいる有象無象の害虫どもを遠ざけることだけを考えろ。……以上だ。理解したか」
七歳児とは思えぬ、完璧なまでの論理武装と傲慢な制約。
伊織としては、これだけ厳しく縛り付けておけば、この野生児も少しはおとなしく「置物」として機能するだろうという計算があった。
だが、伊織はまだ理解していなかったのだ。
目の前の少女が、論理という概念が一切通用しない別次元の生き物であることを。
「……うん! わかった!」
「……ほう。珍しく物分かりがいいな」
「要するに、『声を出さずに、悪い子たちから伊織ちゃんを守る忍者ゲーム』だね!」
「(……なぜ遊戯に変換されるんだ)……まあいい。結果として貴様が口を閉じていれば、それで……」
「まかせて! 私、御庭番衆になる!」
雀は泥だらけの手でビシッと敬礼のようなポーズをとると、自分の口元で指をクロスさせ、深く頷いた。
そして、本当にピタリと口を閉じ、椅子の背もたれに深く寄りかかって腕を組んだのだ。
(……よし。ようやく、完璧な秩序が手に入った)
伊織はふう、と静かに息を吐き、再び洋書に視線を落とした。
外周の紺碧の群れは、雀の泥を恐れて近づけない。そして目の前の防波堤は、口を閉じて沈黙の案山子と化している。完璧だ。何もかもが、伊織の計算通りである。
――計算通りのはず、だった。
五分後。
洋書の活字を追っていた伊織の視界の端で、何かが「うねうね」と動いた。
伊織が貌を上げずに視線だけを向けると、向かいの席の雀が、口をへの字に曲げ、眉間にありったけの皺を寄せ、目をカッ!と見開いて、十メートル先の令嬢たちを「顔芸」で威嚇していたのだ。
「ひぃっ!? な、なんなのあの平民……っ! 貌が怖いですわ!」
「わたくしたちを睨みつけているのね! なんて野蛮な……!」
令嬢たちが悲鳴を上げてさらに後退していく。
雀は「声を出さずに敵を威嚇しろ」という伊織の第三のルールを、彼女なりの全力の顔面筋を使って遂行していた。
(……っ、馬鹿かあいつは!!)
伊織は、本を持つ手をワナワナと震わせた。
確かに静かだ。確かに他の連中は遠ざかった。
しかし、視界の真正面で、泥だらけの野生児が歌舞伎役者のような見得を切ったり、獣のような威嚇の表情を作ったりしているのだ。こんなものが視界に入って、読書に没頭できるわけがない。
「……おい。やめろ」
伊織が低く唸るように言うと、雀はハッとして貌を戻し、今度はスケッチブックの切れ端にクレヨンで何かを殴り書きし、無言のままバンッ!と伊織の前に突き出した。
そこには、泥のついた指跡とともに、ひらがなでこう書かれていた。
『てきは、すずめがおいはらった! あんしんして、ごほんよんで!』
そして、太陽のような満面の笑みと、バチン!という不器用なウインク。
「…………」
伊織は、限界を迎えて脈打つこめかみを強く押さえた。
完璧なルールの檻を作ったはずが、なぜか自分がその檻の中で、この珍妙な生き物の独壇場を見せられている。
「……もういい。威嚇はしなくていいから、大人しく外の景色でも見ていろ」
伊織が深い疲労とともにそう告げると、雀は「御意!」と言わんばかりに無言で頷き、今度はガゼボの柱の陰から、密偵さながらに周囲をギロギロと見回し始めた。
(……本当に、鬱陶しい。なぜ僕の思い通りにならないんだ)
口ではそう毒づきながらも。
先ほどまで息が詰まるほど充満していたハンドクリームの匂いが、いつの間にか完全に消え去り、代わりに初夏の青草と土の匂いだけがガゼボを満たしていることに、伊織は気づいていた。
思い通りにならない苛立ちと、抗いようのない居心地の良さ。
氷の王子の「絶対のルール」は、泥だらけの防波堤によって、初日からいとも容易く骨抜きにされてしまったのであった。




