第一話
「お前はエドワード殿下に嫁げ」
ある日の夜。私はお父さまの部屋に呼び出されて早々、冷たい口調でそう告げられた。
「私が、ですか?」
急な話に驚いた私が尋ねると、お父さまの隣に立っている私の継母――お母さまが、嫌味っぽい笑みを、その美しい顔に浮かべて言う。
「そうよ。光栄なことじゃない。ねえ、マーガレット?」
確かに、普通に考えれば光栄なはずだった。エドワード殿下は国王陛下の長男であり、本来であれば王家を継ぐ立場にあるはずの方だ。
しかし、エドワード殿下は大変な事情を抱えていた。
それは、殿下が幼い頃に発現させてしまった特異な体質だ。近くにいる者に対し、本人の意思とは無関係に凄まじい苦痛を与えるという恐ろしいものである。その苦痛たるや屈強な騎士でさえ一瞬で根を上げるほどのものらしい。
王宮の魔術師たちがなんとか治そうとしたが、王国で最も優秀な彼らですら治療する方法を見つけられなかったそうだ。
そんな体では、とても王家を継ぐことなどできない。それで、殿下は離宮に篭って暮らしていると聞いている。
口さがない人たちの間では、呪われた王子などと呼ばれているとか。
「どうして私に決まったのですか?」
「王子が独身のままでいることは王家の外聞に関わる。国王陛下も殿下の妻となる者を探していたのだ。とはいえ、仮にも王子である以上、嫁ぐには相応の家柄が必要だ」
「しかしそれだけの家格がありながら、あの王子殿下に娘を嫁がせたい親はそういない。そこで私が手を挙げたと言うわけだ。このムーンヒル公爵家なら、身分に不足はない」
「私が、エドワード殿下の妻に……」
私はつぶやいた。唐突な話で、正直あまり実感がわかない。
「あら、どうしたのマーガレット。もしかして嫌だとでも言いたいのかしら? なんて不敬で、親不孝な――」
しかし正直お母さまの言葉はあまり耳に入っていなかった。私はこの突然の結婚話を理解しようとしていた。近づくだけで凄まじい苦痛を受ける王子さま。私。結婚……。
あれ? これってもしかして、私……………………超幸運なのでは!!??
ようやく現実感が持ててきた時、私の心にやって来たのは強い喜びの感情だった。
私は、ひどい目に合うのが好きだ。
痛いとか苦しいとか恥ずかしいとか、そういうのでなぜか興奮してしまう。ほんの小さいころからそうなので、生まれつきそうなんじゃないかと思う。
実は、前にエドワード王子殿下の話を聞いた時から、そのすごい苦痛というもの、私も一回でいいから味わってみたいな……と思っていた。
でも、そんな機会は来るはずないだろうとも思っていた。
それが向こうからやってきてくれたのだ。それに、エドワード殿下は表舞台に出ることができない。ということは、その妻になる私もまた、表舞台に立って社交なんかをやることはあまりないだろう。
腐っても貴族令嬢の端くれ、私だってそういうことは一通り身に着けてはいる。いるが、私がそういうことに向いているかと言われれば、向いていないと思う。
お飾りの妻として表舞台から逃れつつ、王子殿下から苦しめられていればいいだけの、ほのぼの生活……。なんと素晴らしいのでしょう。私の表情は緩んでいった。
「いえ、お母さま。全く嫌だとは思っていません! 私は、喜んでエドワード殿下にお嫁ぎするつもりです」
私が元気よくそういうと、お母さまは嫌そうな顔で舌打ちをした。
「可愛くない子。少しでも嫌そうな顔を見せればまだ可愛げもあるのに、いい子ぶって」
それは誤解です。誤解なのですが、信じてはもらえないだろうなあ。
「別にいい子ぶっているわけではないですよ。実は私、前からエドワード殿下にお嫁ぎしたいと思っていたところなんです」
「そんなわけないでしょう。だいたいあなたってどんな時でもニヤニヤしてて、気持ち悪いったらありはしないわ」
「そうですか? ごめんなさい。でも、私お母さまと話していると楽しくてつい笑顔になってしまうので」
お母さまがいつも私に向ける、侮蔑と悪意に満ち溢れた美しい表情はいつだって素晴らしい。
それを一身に浴びていれば自然と嬉しくなり、笑顔になるのが人情というものではないでしょうか。
「それは嫌味のつもり? 本当に、嫌らしい子」
だから嫌味じゃないですよ。お母さま大好きです! ほんと!
「立派な心がけだ。公爵令嬢としての務めを果たせ」
イライラしているお母さまを尻目に、お父さまは何の気持ちもこもっていない声で言う。私を見るその眼差しには、私自身に対する興味なんてかけらもない。ただ、道具を見る目だった。
その冷たい目にはお母さまの眼差しとはまた違った、ゾクッとする魅力がある。
積極的に嫌味を言ってくるお母さま、私に興味がなくて冷たいお父さま。動と静の見事な布陣だ。
私が嫁いだら二人にはもうあまり会えないだろう。それは残念なことだ。
でも、そうしなければ殿下に嫁ぐことはできない。人生は、望みすべてが叶うほど甘くはないのだった。
「承知しております、お父さま」
私はうやうやしく、頭を下げた。
お父さまの部屋を出ると、そこには妹のメアリが待ち構えていた。
メアリは実の母親――私のお継母さまにとても良く似た顔をしている。私とは父は一緒でも母は違う。つまり異母妹というわけだ。
その誰もが目を奪われるような可憐な顔立ちに、何を考えているのかよくわからない笑みを浮かべている。
「エドワード殿下に嫁がれるそうですわね、お姉さま。おめでとうございます」
着ている服の裾を両手で持ち上げて、メアリは恭しくお辞儀をする。
「知ってたの?」
「ええ、もちろん。それにしてもお似合いですわね。お姉さまのようなどうしようもない方と、呪われた王子さまなんて」
まだ幼さを残しながらも美しい顔で、私の妹はくすくすと嫌味っぽく笑った。
「こう言ってはなんですが、お姉さまが他所に嫁いでいかれると知って私もいい気分ですわ。お姉さまのようなつまらない方を、もう視界に入れなくて済みますもの」
そう言うと、メアリは私に背を向けた。
やたら機嫌がよさそうなメアリに、私の乏しい危機察知能力が警告を発する。経験上、メアリがこういう感じの時は、絶対何かろくでもないことを考えているのだ。
「では準備がありますので、今のところはこれで」
「準備?」
「あなたの愛すべき妹からお姉さまに、ささやかな結婚祝いをさせて頂こうと思いまして。楽しみにしていてくださいね、お姉さま?」
メアリは虫をいたぶって喜ぶ子供のような顔でそう言うと、優雅な動きで私に背を向けた。
「あ、ちょっと……」
私の声掛けを無視して、メアリは軽い足取りで廊下の曲がり角の先へと消えていった。
結婚祝いって何だろう。絶対ろくなものじゃないことだけはわかるんだけど……。まあ、今から心配しても仕方ないか。
私は自分の部屋の前まで戻ってくると、ドアを開けて中に入った。
(これから忙しくなるんだろうな……)。
お父様の話では、私は王子様の妻になるべく、すぐに――具体的には数日のうちにここを出て、王都に行くことが決まっているそうだ。
私は生まれた時からずっと、この屋敷で生まれ育った。17年の歳月を過ごしたこの地を離れることには寂しさがまったくないわけではない。
でも私は、自分で言うのもなんだけれども、かなり図太い性質なので、たぶん王都に行ったら言ったでやっていけると思う。別に、二度と故郷の地を踏まないというわけでもないだろうし……。
とりとめのないことを考えながら部屋の中を歩いていると、突然、部屋の中が真っ暗になった。
「……え? 何? 何!?」
部屋の明かりが急に消えたみたいだ。一気に暗くなった室内に私の目は慣れておらず、何も見えない。今夜はあいにく月が出ていないので、窓から明かりは入ってこない。
振り返ってドアのあたりを見ても、廊下から漏れてくるはずの光がない。
「まさか……」
幽霊!!!!????
昔、教師から古典の授業の時に読まされた民話集を思い出した。部屋の明かりが消え、いきなり真っ暗になり、怨霊となった白い影があらわれて、人の魂を奪う……。
(そそそそそんな話信じるのは子供だけよ。落ち着きなさいマーガレット。これには何か原因が……)
その時、背後でかすかに何かがこすれるような物音がした。思わず飛び上がりそうになるのを必死で抑える。
私は振り返ろうとする。私の首はさび付いた歯車のようにギギギギ……とのろのろ動いた。そして後ろを見る。
そこには、人のような形をした、ぼんやりと光る白い人影のような何かが浮かんでいて……。
「ぎゃーーーー!!!!!!!!」
貴族の令嬢が出してはいけない感じの声を出して、私は腰を抜かした。
白い人影はゆらゆらと揺れながら、少しずつ私に近づいてくる。
「あばばばば……」
どどどどどうしよう。私は抜けたままの重い腰を手で何とか動かして、しりもちをついたまま後ずさりする。
しかしそんなノロノロとした動きでは逃げられるはずもなく、白い影はだんだんと近づいて……。
不意に、パチンと指を鳴らしたような音が鳴り響いた。
その音とともに、辺りは突然いつもと同じ明るさを取り戻す。
「うふ、うふふふふ! ずいぶんお楽しみいただけたようですわね、お姉さま?」
目の前の白い人影はいつの間にか、私の妹に姿を変えていた。
「メ、メアリ!? ……いったいどういうこと――」
その時、私はふとさっきメアリが言っていたことを思い出す。
「……もしかして結婚祝いってこれのこと!!??」
「そうですが?」
何当たり前のこと言っていますの? とでも言いたげにメアリは返事をした。私は立ち上がって言い返す。
「『そうですが?』 じゃないでしょう! 心臓止まるかと思ったわ!」
「この程度で止まる心臓なら止まればいいのではありませんこと?」
「よくなーい! だいたいこれ前もやったことあるわよね! もうやらないって言ったじゃない!」
たしか、何年か前にこんな感じのことをやられ腰を抜かしたことがあったのだった。その時はもうやりませんわって言ってたのに!
「そんなこと言った覚えはありませんが? お姉さまの勘違いでしょう」
「あなたねえ……」
メアリはひどく満足しているらしかった。いつもと表面的にはあまり変わらない笑みを浮かべているが、あれはかなり機嫌のいい時の顔であると姉としての経験が告げている。
「……というか、あんなに叫んでたら誰か聞いてたんじゃないかしら?」
あれでだれか駆けつけてきたらどうしよう。なんて説明するの?
「ご心配なく。この部屋に音を遮断する魔法をかけておきましたから、誰も聞いていませんわ」
「その才能を何かもっと別のことに活かせないの?」
「暇がありましたらそうしますわ。それにしても、お姉さまは本当に幽霊が怖いのですわね」
「ここここ怖くないわよ! だいたいあんな急に明かりが消えたら誰だって驚くでしょ! だいたい幽霊なんて信じてるのは小さい子供だけ……」
私の言葉は、ドンドンドンと窓を叩く大きな音に中断させられた。
ぎょっとしてそちらの方を見ると、窓の外側には真っ白く顔のない人影が……。
「ぎゃーーーー!!!!」
私が思わずメアリに抱き着くと、メアリは迷惑そうな声色で言った。
「離してください」
「で、で、で、でも、あれ!」
「あれも私の魔法ですわ」
メアリがそう言った途端、人影は消滅した。
私はメアリに抱き着くのをやめ、メアリの両肩を掴んだ。
「ま、また騙したわね!?」
「普通なら、こんな短い間隔でまた騙されませんわ。幽霊が怖いあまりに、頭が働かないのでしょう?」
「そそそそんなことないし!」
「でも、実際はそうですわよね?」
「ちち違うわよ! もうメアリなんか嫌い!」
「私もお姉さまのことなんて嫌いですけれど」
不思議なことに、お母さまの嫌味っぽさやお父さまの冷たさには興奮するこの私が、メアリに嫌いとか言われても全然興奮しない。普通に、ひどーい! と思うだけだ。
と、いうことは、たぶんメアリは悪意があって言っているのではないんだと思う。きっと軽口の一種だ。本気で私のことを嫌って言っているなら、その言葉で私が興奮しないのはおかしいので。
「何でそんなことひどいこと言うのー!」
「お姉さまが先に言ったのでは?」
私が肩を掴んだままメアリを揺さぶっても、メアリはめんどくさそうにそう答える。
そしてメアリは私の手をほどくと、ドアの方へ向かって行った。そして、ドアを目の前にして振り返る。
「それでは、せいぜいお幸せに。お姉さまの醜態をこの目で見られないことだけが残念ですわ」
……かなり困った妹ではあるけど、これが彼女なりの祝い方というものなんでしょう。私は彼女に感謝を伝えることにした。
「……ええ、ありがとう! メアリ。愛してるわよ! さっきの嫌いっていうのは嘘!」
「そうですか。私は別に愛していませんわ」
「だからそんなこと言わなくていいじゃない!」
「それでは失礼しますわね」
一方的に会話を打ち切ると、メアリはドアの向こうに消えていった。
これ、ほんとに嫌われてないわよね? 大丈夫かしら?
……ま、まあ、大丈夫でしょう。メアリも(たぶん)祝ってくれたことだし、せいぜい幸せになるとしましょうか!