プロローグ
“それ”は唐突に始まった。
私の夫――エドワード王子殿下の全身から、暗い紫色の霧のような何かが溢れるように噴き出してくる。急速にその霧状のものは濃くなっていく。この部屋全体の空気が重く沈んでいくように感じられた。
「……っ」
殿下の美しい顔が歪んだ。殿下の銀色の髪が揺れ、その紫の目が苦悩の色を宿す。その瞬間、何かを思う間もなく、私の視界もぐらりと歪んだ。
地面が揺れ、波打っているかのように感じる。しかし家具類は元の場所から全然動いていない。地面ではなく、私の感覚の方がおかしくなっているのだ。
普通に立っていることができず、壁に手をついて体を支える。頭は割れるというか裂けるように痛い。
そうか、とここでようやく気がついた。これが、殿下の“呪い”なんだ。
近づく者に無差別に発動し、耐えがたい苦痛を浴びせる恐ろしい体質。妻になった私にずっと会おうとしなかった理由。それが、私に襲い掛かってくる。
体全体が鉛のように重くなり、身体中をバラバラになりそうな痛みが襲った。臓器が口から全部出てきそうな吐き気に襲われる。
屈強な騎士でさえも耐えきれない、という話は誇張でもなんでもないらしい。
自分の息がどんどん荒くなっているのを感じた。肩で息をするとはこういうことを言うのだろう。
気づいた時には、殿下が私のすぐ近くまで来ていた。
「とりあえず座って! 頭を打つと危ない! うまく動けるかい!?」
殿下は私の腕に手を添えて、腰を下ろさせようとする。すごく心配してくれているようだ。
必死そうな殿下を見て、私はひどく申し訳ない思いに駆られる。その心配は思い過ごしなのだ。だって私は、
「……ふふ」
私の口から、声が漏れる。
それは苦悶の声ではない。喜悦の声だ。
ぎょっとした殿下が私の顔を見た。
王子殿下と目が合ってしまう。鏡なんてなくてもわかる。私の顔は今、貴族の令嬢がしてはいけない感じの顔をしていると思う。
何とか、まともな表情を作ろうとする。無理だった。
硬直している殿下に、私は口を開いた。
「……あの、ですね。手紙には、書かなかったのですが。えーっと、実は、私――」
その先を言うのはちょっと躊躇われた。でも、まあ、今更だろう。
「――苦しいのが好きなんですよ」
「……は?」