第二十九話『アリシア、ご奉仕する』
「……これでいいでしょう。傷が塞がるまで、少なくとも一週間は動かさないように」
「先生、ありがとうございました」
呼び寄せた先生はウィルさんの右手の治療を済ませると、足早に工房をあとにしていった。
ちなみに、騒ぎを大きくしたくないというウィルさんの意向で、右手の怪我は加工作業中の不注意ということにしておいた。
「本当にすみません。なんとお詫びをすればいいか」
「はは、アリシアさんが気にすることではありませんよ」
ウィルさんはそう言ってくれたものの、私は申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
精神的に追い詰められていたとはいえ、まさか妹があんな行動を取るなんて。
「それにしても、ここまで念入りに包帯を巻く必要もないと思うのですが。これでは、スプーンすら持てません」
彼のために、何かできないか……そう考えていた時、ウィルさんがため息まじりに言った。
「それでしたら、包帯が取れるまでの間、私がウィルさんの右手になります」
「は、はい?」
反射的にそう口にすると、ウィルさんは唖然とした表情を見せた。私は続ける。
「食事のお世話も、着替えも、全て手伝います。いえ、手伝わせてください」
「そ、そこまでしてもらわなくとも……食事は左手でもなんとかなりますし、着替えも……」
「駄目です。無理をして、もし傷が開いたらどうするんですか。職人さんの手は何より大事ですよ。しばらくお店もお休みです」
「いや、さすがにそれは……」
「お願いします。このままでは、私の気が済みません」
困惑する彼の顔をじっと見つめ、凛とした声で言う。
「……わかりました。本当に、必要最低限でいいですからね。よろしくお願いします」
やがて根負けしたのか、ウィルさんは大きく息を吐きながらそう言ってくれた。
妹のせいでウィルさんに迷惑をかけてしまったのだし、こうでもしないと罪悪感に押しつぶされてしまいそうだった。
◇
その日から、私は献身的にウィルさんのお世話をした。
「はい。どうぞ」
食事の際は常に彼の隣につき、スープをスプーンですくっては、その口元へと持っていく。
「これは……なんとも恥ずかしいものですね」
……言わないでください。私もものすごく恥ずかしいんです。
喉まで出かかった言葉を、必死に飲み込む。
今更あとには引けませんし、回数をこなせばきっと慣れてしまうはずです。
「はい、あーん」
「あつっ……」
「あ、すみません。まだ熱かったですか」
びくり、と反応したウィルさんに謝ってから、私はスープにふーふーと息を吹きかける。
「……まるで子どもに戻ったようだ」
その様子を見ながら、ウィルさんは赤面していた。
小さい頃、お母様に同じようにしてもらったのかしら……なんて考えるも、彼は母親との思い出がないと言っていたことを思い出し、口には出さないでおいた。
……私は食事だけでなく、彼の着替えや入浴も手伝った。
ライゼンバッハ家のお屋敷には湯船があったけど、下町に湯船のある家は少ない。
浴室はあるので、そこに大きな桶を置き、その中にお湯を張って湯浴みをするのだ。
「さ、さすがに入浴は一人でできますよ」
「だ、駄目です。片手だけでは洗えない部分もありますし」
言いながら、私は彼の手が届かない場所を洗ってあげる。
ウィルさんの背中はたくましく、予想以上に筋肉がついていた。
指先の繊細さを必要としつつも、宝石の加工作業はなんだかんだで力仕事だし。彼も鍛えているのだろう。
「……どうしました?」
「あ、いえ」
つい、その背中をしげしげと眺めていると、ウィルさんが不思議そうな声で訊いてくる。
さすがに下半身は湯浴み着を着てもらっているのだけど、裸の男性と二人きりというのは……その、変な気分になりそうだった。
場違いな感情を打ち消すように、私は彼の背を無心で洗った。
……そんな日々が続いた、ある日。
夕食の片付けを済ませた私は、作業場にいるウィルさんを見つけた。
「あ、何やってるんですか」
「見つかってしまいましたか」
こそこそと何やら作業をするその背中に声を掛けると、彼はイタズラがバレた子どものような顔で振り返った。
「この頃、右手の調子もいいですし、せめて道具の手入れくらいしようかと思いまして」
「まだ駄目ですよ。ほら、替えたばかりの包帯が真っ黒じゃないですか」
そう口にしながらウィルさんの横に座り、包帯を解く。その傷はほとんど塞がっていた。
「ほら、ご覧の通り、かなり良くなったんです」
「見た目はそうですが……本当に痛くないですか?」
私はおそるおそる、彼の手に触れる。その大きくゴツゴツした手は、思った以上に皮が厚い。まさに職人の手だった。
「ええ。もう大丈夫だと思います。この数日間、本当にありがとうございました」
そう言って、ウィルさんは頭を下げる。
「……こちらこそ、妹がご迷惑をおかけしました」
「アリシアさん、それはもういいですよ」
私も同じように頭を下げるも、ウィルさんは笑顔でそう言ってくれた。
「……私、ガーベラの気持ちもわかるんですよ」
その笑みを見ていると、つい、そんな言葉が口から出る。
「もちろん、ウィルさんにケガをさせたことは許せませんけど、あの子は、私以上に双子というものを……私との関係が発覚することを恐れていたんだと思います。それこそ、精神的に追い詰められて、自暴自棄になってしまうほどに」
感情を抑えながら話す私を、ウィルさんは静かに見守ってくれていた。
「私だって、それこそウィルさんに出会わなければ……全てを受け入れてくれる人が現れなければ、どうなっていたかわかりません。あなたには、本当に感謝しています」
私は矢継ぎ早に言葉を紡ぐ。抑えていた感情が溢れてきて、止められなかった。
「……だからこれは、これまでのお礼です」
そう言ってすぐ、私はその身を寄せ、彼の頬にキスをした。
……その直後、彼が息を呑む音が聞こえた。
記憶にある限り、初めて家族以外にしたキスだ。だけど、後悔はなかった。
「こんばんはー! 兄さん、怪我の具合はわぁああーーー!?」
その時、元気のいい声とともに、エレナさんが作業場に入ってきた。
私は慌ててウィルさんから離れるも、確実に見られていた。
「お、おお、お二人はいつからそんな関係に!?」
「いえその、こ、これはお礼なんです!」
「なんの!?」
「い、色々です。と、ともかく、他意はないですからっ」
叫ぶように言いながら、固まったままのウィルさんからさらに距離を置く。
私の顔は真っ赤になっているだろう。
「と、とりあえず、お邪魔のようなので帰ります! 失礼しました! 続きをごゆっくり!」
ドタバタと足音を響かせながら、エレナさんは工房から飛び出していく。
そんな彼女を、私たちは呆然と見送ることしかできなかった。