氷の王子はこっそり童貞をもらってほしいのに、社交界で噂の悪女ビッチがどこにもいない
サイラス・ハイドジキルトは今年で24歳になる貴族である。ともすれば冷たく見えるほど美しく整った容姿から、社交界での通り名は『氷の王子』。決して王族ではないのに王子とかいうあだ名に内心ヒヤヒヤしているくらいには、普通の感性を持つ男だった。
そのサイラスに最近ちょっとした悩みがある。それは自分がいまだ大事に童貞を保っていることで、少しばかり焦りが出てきたのだ。
周囲の友人たちは半分くらいが結婚し、もう半分も独身の自由さを満喫している。そのせいかは分からないが、昔から飽きずに盛り上がる男たちの下世話歓談が、より具体的になってきた。
まさかこの中に童貞はいないよな? みたいな空気でハレンチな話があちこちから飛び出す。そうすると正しく童貞であるサイラスは非常に居心地が悪かった。話を振られても、さも経験が豊富かのように「そうだな」と意味深に相槌を打つことしかできない。実際に周りの友人たちはサイラスが童貞だなんて夢にも思っていなかった。その恵まれた見た目とクールな性格から女子が殺到している事は周知の事実で、むしろこの中の誰よりも早く脱童貞したに違いないと思われているほどだ。
いろいろ聞くなかで、将来妻になる女性に下手だと思われたくないと思った。それならば経験を積むに限るのだが、責任云々もあるし結婚するでもない女性とベッドを共にするのはなんだか気が引けた。サイラスは意外とマジメであった。
かと言って今さらその手のプロにお任せするのも抵抗があるし、わざわざ出向くのも手配を頼むのも気恥ずかしい。それに、肌を重ねるならば、その日初めて会うような人ではなく、さらに言えば好きな人とがいい。サイラスは意外とヘタレでロマンチストであった。
「サイラス様だったら女に不自由することもないでしょう。いやあ、実にうらやましいですな」
「千人斬りも間近と聞きましたが、実際はどうなのです?」
いまだ童貞だとは言えず、サイラスは「想像に任せる」と口元だけで笑って見せた。
脱童貞への焦りが募っていくなか、最近社交界で囁かれる噂に興味を引かれた。なんでも、どこぞのご令嬢は妹をいじめ、男を侍らせ、夜な夜な享楽にふけっているとかいないとか。なんとうらやましいことか。
「あの娘じゃないか?」
「いいじゃん。一夜だけならお相手してもらいたいよなあ」
「見ろよあのドレス。いかにもって感じだ」
知らない男たちの会話を耳で拾いつつ、サイラスは壁際でぽつんとたたずむ令嬢に視線をやった。噂のご令嬢らしい。
露出が多い真っ赤なドレスを恥じるよう、体を小さくしてうつむいている。ほっそりとした腕から見るに妖艶というより儚い印象を持った。背は少し高めだろうか。栗色の髪はシンプルにまとめてあり、態度とは裏腹の大ぶりなアクセサリーが耳や胸元を飾っている。チグハグな印象を受けた。それと同時にサイラスは、なぜだか彼女のことを可愛い思った。
「見て、おひとりよ。噂が広まって誰にも相手にされないのではなくて?」
「まあ。悪いことはできないわね」
これまた誰とも知らない女性たちの会話を聞き流していたところ、突如として脳内に雷が落ちたかのような閃きがあった。
彼女に童貞をもらってもらえればよいのでは……!
サイラスは氷の王子と呼ばれるくらいなので滅多なことでは表情が崩れず、涼やかな目元が感情的に歪められることはほとんどない。しかしこの時ばかりは衝撃に目を見開き、わずかに目尻を赤くさせた。
不特定多数と関係を持っているのなら、サイラスがそのうちの一人になったって悪目立ちしない。容姿はそこそこ良い方だから彼女が相手をしてくれる可能性は高い気がした。それにサイラスとしても彼女の容姿は好みだし、なんなら可愛いと思う。
そうだ。
どうにか彼女に童貞をもらってほしい。
決意をしたサイラスは壁の花となっている彼女を熱く見つめた。
しかし、こう見えてサイラスは奥手である。
恋愛ごとは百戦錬磨と誤解されることもあるが、男女交際の経験もなくれっきとした清い体であるがゆえの少しばかりの自信のなさ、そしてほんの少しの男のプライドが同居して、彼女に直接声をかけることができない。
よってまずは情報収集に力を入れることにした。
改めて彼女とその周囲を観察する。
夜な夜な侍らせている男たちはおろか、友人のような存在も彼女の周りにはいない。少し離れたところから視線を送るグループがいくつかありはするが、どれも好意的ではない。
彼女の人となりは全く知らないが、こうも好奇の目に囲まれてはさぞや居心地が悪かろう。義妹をいじめて男を侍らすのであれば、もっと苛烈で積極的な態度をとりそうだが、そんな気配はまったく見えない。サイラスは客観的な状況と自身の感じたことを頭の中に並べていく。
サイラスは会場にいる人物をざっと見回し、目当ての友人の元へと足を運んだ。
「ジェイク」
「やあサイラス、楽しんでいるかい」
昔からの友人であるジェイクは情報通だ。
「あそこに赤いドレスの令嬢がいるだろう。彼女が噂の悪女と聞いたが、どこの誰だか知っているか」
「ティルダ嬢だね。ウィークス子爵の長女で、下に異母妹がひとりいる。気になるかい?」
「まあ」
なんせ童貞をもらってほしい女性だ。ジェイクは「珍しいね」と面白がるように笑みを浮かべ、続きを話してくれた。
「最近の社交界ではもっぱら悪女でビッチと評判さ。家の金は使い込む。異母妹はいじめる。夜は男と享楽にふける」
「ふうん」
別に家の金を使い込むのも、気に食わない妹をいじめるのもさほど悪いことには思えなかったが、口を動かすのが面倒だったので黙っておいた。金は使って回すものだし、生意気な弟のデザートを横からかっさらうくらいサイラスだってやる。弟はその分やり返してくるが。
「その妹は? 今夜ここへ来てるのか?」
「うん。あっちの人だかりがそう」
あっち、と指された方向には確かに人だかりがあった。可憐なご令嬢のまわりを囲むよう、にこにこした男女が楽しそうに歓談している。
「いじめられてるわりには余裕で楽しそうだな」
「まわりが不憫がってよくしてやってるのさ。かわいそうなんだって、妹ちゃん」
そう言って愉快そうに目を細めるジェイク。彼がなにを考えているのかいつも謎だ。今だって言葉通りの表情をしておらず、かわいそうだと言った妹をさも一級の娯楽のように眺めている。
「あの姉妹には一目置いてるんだ」
「そうか」
ジェイクとはそのあと二、三言葉を交わして別れ、次に行ったのはこれまた昔からの友人であるニールの所だった。
「やあサイラス! 元気だったか」
「ああ。ニールも元気そうだな」
ニールは一緒にいた女性を紹介してくれた。今売り出し中の若い女優で、ニールもパトロンの一人だという。彼は特出した美形ではなく、むしろ人畜無害そうななりをしているが、その実とんでもないモテ男である。いわく、無害そうな雰囲気が女たちの警戒心を緩めるのに一役買っているらしい。女を食った数はサイラスと双璧を成すと言われていて、無論サイラスは童貞なので実質的な夜の帝王は彼のことを指すだろう。
連れの女性は空気を察して化粧なおしをしてくると離れていったので、これ幸いに本題に入った。
「ウィークス子爵のティルダ嬢は知っているか」
「うん、噂はかねがね」
「話したことは?」
「ないね。あんまり夜会では見かけないし、僕が大好きなイケナイ集まりでも見たことない」
夜の帝王でもティルダと接触していないと分かってサイラスは内心驚いた。しかも話したこともないという。脱童貞をするためにはなんらかの形で彼女と接触しなければいけない。すでに関係のある男を通して接触しようと思っていたのだが。
「じゃあ、ニールの知り合いで彼女と仲良くしてる男とかは」
「うーん……聞いたことないんだよねえ」
これは困った。サイラスはあまり人付き合いが良い方ではないので、ニールの交友関係でカバーできなければサイラスに打つ手はない。
その一方で彼女に誰も触れていないという事をほんの少し嬉しく思った。大勢のなかのひとりなら目立たないからいいなと思ったが、サイラス的にはやっぱり一対一の方が好ましい。
「なーんかねえ、あの子って僕のレーダーに引っかからないんだよねえ。どちらかって言うと……」
ニールがちらりと目をやるのは先ほども見た人だかり。中心で花のように笑うのは例の妹だった。
それからサイラスの日々はもっぱらティルダに関するあれこれで埋まった。それとなく男たちの寄り合いで探っても、ティルダが誰それと寝たというのは聞かない。散財しているという点についても同じもので、実際にティルダがなにかを求めたりする姿を見た者がいない。妹いじめも同様だ。
サイラスがティルダを気にしている空気は何となく友人たちにも伝わって、それならばと各々が知り合いにティルダのことを聞いてみる。やはり噂のもととなる実態が出てこず、みんなで首を傾げることになった。
有益な情報がなにも出てこない。なのでサイラスは今度会ったらティルダに話しかけることにした。おりよく友人の家族が主催する大規模なパーティーがあったので、そこで初めてティルダに近づく。
脱童貞を思うと胸がドキドキした。完全なる下心を持って女性に話しかけるのは人生において初めて。こんなに緊張するのはいつぶりだろうと考えるほどだ。そうすると急に自分の身なりが気になったが、彼女はもう目の前で時すでに遅し。
「……ごきげんよう、レディ」
サイラスの姿を見とめるとティルダは驚き、何度か瞬きをしたあと静かに淑女の礼をとった。
栗色の髪は前回と同じようにシンプルにまとめられていて、これまた前回と同じようなドレスとアクセサリーを身につけている。散財している噂はなんだったのか、直接聞いてみたいほどだ。
互いに自己紹介をしたあとはどちらが話すわけでもなく、少しの時間見つめあった。髪と同じ栗色の瞳がサイラスを写している。それがとても心地よい。
「では、よい夜を」
くるりと踵を返し、彼女から離れた。
サイラスは充足感で胸がいっぱいだった。死ぬほど緊張したけれど彼女に声をかけることができた。細くとも接点を持てた。達成感はひとしおで、口元を緩めてそそくさと会場を後にした。
道中繰り返し思いだすのはティルダの姿だ。
華奢な肢体を包む真っ赤なドレスもいいけれど、他のドレス姿も見てみたいと思わせる。意志の強そうな美しい顔つきとは反対の、ただよう儚げな雰囲気。何よりあの瞬間だけはティルダが自分を見つめていたと考えれば言いようのない感情が込み上げた。この時サイラスは脱童貞のことなどすっかり頭から消えていた。
そしてサイラスは思いきって次の行動に移ることにした。なんと、ティルダへ直筆の手紙を送ったのだ。普段で考えられない自分の行動力に驚くばかりである。
丸っこい字と角ばった字と二種類書いて見せて、どっちが見た目カッコいいか侍従からアドバイスをもらい、弟にバカにされながら何度も書き直した手紙はたった三行の短いものだった。
初めて返事が手元に届いた時の喜びたるや。それから何度もティルダと手紙のやりとりをし、サイラスはそのどれをも大事に大事にしまった。彼女の手紙からは教養深い淑女の一面が見えた。
やはり童貞を捧げるにしても、きちんと知り合って、段階を踏み、自分が好ましいと思う人物とがいいに決まっている。だって人生の上で重要なイベントのひとつだ。そんな簡単に放り出していいものじゃない。
つまるところ童貞と愛はイコールなのでは、というのがサイラスの発見だ。童貞を捧げるというのはその女性へ深い愛を捧げると同意義だと思うと、やはり頭に浮かぶのはティルダの姿。
彼女が貞淑なレディだとしても、彼女がいやでなければ、やはり童貞をもらってほしいとサイラスは思った。だってサイラスはティルダのことがすっかり好きになってしまったから。
愛し合うもの同士の営みは、これ以上ない幸せだと思うから。
近くサイラスの家が主催で夜会を開くことになったので、ウィークス子爵家にも招待状を送ってもらう。こっそりドレスも送ったし、それを着たティルダに会いたかった。
この頃になると、ティルダに関する噂はデタラメだという認識が男性陣の間で広がっていた。変わらず楽しそうにティルダを貶める女性陣を見ては内心「怖いなあ」と引いているのは内緒だ。
噂の出どころやウィークス家の内情もだいたい分かって、いつ対処しようかと手回しを始めた頃でもあった。
前日はなんの香水をつけるか悩み、当日には鏡の前で長らく髪型を気にした。直前で侍従に不備がないかしっかり確認してもらい、弟に呆れられながら夜会を迎えると、予想外のことが起きていた。
当のティルダが来ていないのだ。
両親と妹はいるのに。
挨拶の際に事情を聞くと、調子を悪くしているのだとか。なおも会話を試みようとする異母妹を振り切り、サイラスは夜会をさっさと抜けてウィークス子爵の持つ都のタウンハウスへと馬を走らせた。ポケットに熱冷ましやら痛み止めやらの薬をめいっぱい詰め込んで。
やつらの話は一切信用できない。でも、もし彼女が本当に苦しい思いをしていたら。そう考えると夜会どころではなかった。
屋敷に到着し、いろいろ言ってくる使用人を無視して屋敷内を探すと、どう考えても令嬢にはふさわしくない部屋でティルダを見つけた。
ティルダは破られた手紙の破片を抱き、左頬を腫らして泣いていた。そこらにいる使用人よりも質素な服が痛々しさを押し上げ、サイラスは思わず彼女にかけよった。
「大丈夫かティルダ」
「サイラスさま……」
彼女の声はか細く、悲しみに濡れていた。
「すまない」
サイラスが特定の誰かを気にかけることは、その人を周りを多少騒がせてしまうことに繋がる。ましてこの家のことだ。手紙だ贈り物だとティルダに構えば、こうしてひどいやっかみを受けることは充分に予測できたはずだった。なのに恋に浮かれてこの体たらく。
「俺の落ち度だ」
「いいえ、いいえ、そんなこと……わたしこそ、申し訳ありません。せっかくいただいた手紙も、ドレスも……ダメにしてしまって」
震える指先でティルダの涙をぬぐう。
「ここから出よう。きみが笑って過ごせるようにするにはそれしかない」
これ以上こんな所には置いておけないと、サイラスはティルダを抱いてウィークスの屋敷を出た。もともと予定していたものが早まっただけで問題はない。目を白黒させているティルダには説明が必要だろうが、まずは安全な場所へ連れてやりたかった。誰も彼女を傷つけない場所へ。
一方、サイラスが抜けたパーティー会場ではちょっとした騒ぎが起きていた。ティルダの異母妹が涙ながらにみなに訴えているのだ。悪辣な姉がサイラスを毒牙にかけようとしていると。
しかしそれは最後まで語る前に止められた。
「だまれ、貴様に兄上の恋を引っかきまわす資格などない!」
ホールに響く高らかな声。
周囲の人々はいっせいに口を閉じた。貴人の悲しき習性なのか、若くとも圧倒的上位の人間から発せられる言葉には従わずにはいられない力があった。先ほどまで親身に話を聞いていた人たちも異変を察知して、異母妹から一歩距離をとる。
「それは僕だけに許されてるんだ。真に弟であるこの僕だけが。……ましてこの期に及んで妄言を吐くなど気色が悪いにもほどがある。そんな暇があるのなら家族もろともとっとと去れ!」
まさか叱責されるとは思わず、焦りと恐怖で膝を震わせた異母妹はその場から動くことができなかった。そんな彼女のそばへ現れたのはサイラスの友人ジェイクとニールだった。
彼らは異母妹の腕をそれぞれ拘束し、出口へ向かってずりずりと引きずった。そして彼女を見下ろしながら「残念だったね」と薄く笑う。彼らは事前にサイラスから彼女たちが騒ぐようだったら対処してほしいと頼まれていたのだ。
異母妹は恐怖に駆られ、可憐さを投げ捨てて吠えた。どうしてサイラス様が姉なんかを構うのかと。可愛いのも可憐なのも全部わたしなのに、こんなのおかしいと泣き叫ぶ。
「そう、それなんだけどさ。君のお姉さんはとんでもない悪女でビッチでっていう話。発端はきみだろう? それなりにみんなも面白おかしく話してさ、それがサイラスの耳にも入ったんだよ」
だったらどうして!
異母妹はどうしても納得がいかない。女にとって貞操観念を指摘されるのは一番不名誉なことであり、嘲りの対象になる。そういう女は男にだって受け入れられないハズだ。
「いやいや何言ってんの。男女で価値観違うって知らない? 僕は絶賛仲良くしたいけど」
「ニールは黙ってよっか」
夜の帝王はやれやれと肩をすくめた。実際に彼は王都の裏社会を取りまとめる組織の若旦那だ。アバズレだろうが悪女だろうが総じて可愛いもんである。むしろ苦労知らずの無垢な女子よりよっぽど好きだ。
話を引き継ぐジェイクはとってもいい笑顔で異母妹に優しく説明をする。
「いいかい、サイラスは噂をきっかけにきみのビッチなお姉さんのこと気になっちゃったんだよ。あの夢見がちなピュアピュア奥手サイラスでさえね。ニールじゃないけど、男ってスケベなとこあるからさ。でも、サイラスってば知っていくうちにお姉さんのこと大好きになっちゃったんだ。だって彼女、悪女でもビッチでもない普通のいい子だもん」
社交界で噂の悪女ビッチなどどこにもいなかった。
いたのは噂に傷つけられた少女だけ。
ジェイクは軍部の情報取締機関の若きホープで、なんなら拷問・尋問の類いを専門としている。そんな彼の最高に愉快な瞬間は標的をこれ以上なく追い詰めた時だ。
「そう。発端はきみなの」
異母妹は顔面をどんどん蒼白に染めていく。
耳元で囁かれる甘い甘い毒は、もう許容量を遥かに超えていた。
「きみがそんなウソの噂を流したから、ティルダ嬢とサイラスが仲良くなったんだよ。ぜんぶぜんぶ、身から出た錆。あははっ、よかったね! ふたりの結婚式にはおめでとうって言ってあげなよ!」
次の瞬間、ぎぃえええッという叫びと共に白目を剥き口から泡をふいて異母妹が倒れた。両親にかつがれ逃げるように屋敷を去ったが、これが公で見る彼らの最後の姿だった。
こうしていくつかの紆余曲折を経て、ティルダはウィークス子爵家と縁を切ってサイラスの住む屋敷でともに暮らすことになった。別に結婚だとかいう話ではなく、ただ健やかに暮らしてほしいというサイラスの願いによってだ。
そこで共に過ごすティルダの姿は、やっぱり教養も慎み深さもあるきちんとした貴族令嬢だった。
つつがなく暮していたある日の夜、サイラスは夢を見た。ティルダに童貞はいらないと拒否されるつらい夢だ。
『童貞を捨てることだけが目的ならば、他を当たってください』
捨てる、という言葉に違和感を覚える。サイラスにとって童貞は愛であり、捨てるものではなく受け取って欲しいものだ。
『ちがう。俺は、きみにもらって欲しいんだ。これからもずっと、きみだけに』
可能なら結婚してずっと一緒にいたい。
仮になんらかの事情で童貞が捧げられなくとも、ティルダと日々を過ごしてみたい。どんなものが好きなのか、どんなことを思っているのか、共有して笑いあいたいのだ。
それはきっと人生をより豊かに彩るだろうと確信した瞬間だった。
◇
王国のなかでも特に存在感が大きいハイドジキルト公爵家の若君が婚約をされた。そんな衝撃ニュースは一日にして王都を駆けめぐった。要所にパイプを持ち彼が動けば国が動くと噂され、その美貌から氷の王子と言わしめどんな美女にも傅くことがなかったサイラスが、とうとう婚約者を決めたというのだ。
しかし伝え聞くプロポーズの言葉がなんとも妙。
「俺の童貞をもらってほしい」
こんなふざけたプロポーズ、誰かがサイラス様を貶めようとしているに違いないと、誰もまともに取り合わない。各々が自分の考えた最高のプロポーズをサイラスのセリフとして伝えた結果、その日はさまざまな愛の言葉が国にあふれることになったそうだ。
こんな主人公で誠にごめん。