8・クリストフ様の水浴び
バシャン、バシャンと水しぶきをあげながら、クリストフ様が水浴びを楽しんでいる。屋敷の裏手に流れる堀で。
天気の良い日に、入浴がわりに水浴びをするそうだ。
「楽しそうですね」と、となりに立つギルベルトに声をかける。
「ええ。フェンリルの血が騒ぐというか。童心に返るというか」
「だから、ひとに見られたくないんですよ」と、反対側のとなりに立つコンラート。「たいていの人間は『やっぱりケモノなのか』と恐れますから」
「あんなに可愛らしいのに」
「全然可愛らしいサイズじゃありませんけどね」とコンラートが苦笑した。
セヴィニェ邸に来て、一週間ほどが過ぎた。ここでの生活はとても楽しい。クリストフ様はフェンリルでも人でも素晴らしく、話も弾む。コンラートやギルベルトともすっかり仲良しだ。
できることなら、ずっとここで暮らしたい。都には友人も親しい人もいるけれど、これほど素敵なもふもふはいないもの。
「爪のひとえぐりで私たちは腹を裂かれるだろうし、前足の軽い殴打で骨折する」とコンラート様は言うと、私を見て微笑んだ。「クリストフ様は細心の注意を払ってくれていますが、体がフェンリルなのは紛うことない事実です」
「そのようなことをなさるとは、思えません」
「でも心に留めておいてください。なにか起きたときに、あなたが急にクリストフ様にも怯えるようになったら、あの方は傷つきます」
確かにそうだ。自分がそんな態度をとるとは思いたくないけど、『絶対にない』と言い切る自信はない。
「わかりました。痛いのは怖いですけど、なるべく笑顔で死ぬようにがんばります」
「んん? 勝手に死なないでくれますか。あくまで想定の話ですしね」
「コンラートが妙な話をするのがいけません」と、ギルベルトがたしなめた。「それよりもエヴリーヌ様、本当にお疲れではありませんか」
「ええ。問題ありません」
クリストフ様が堀に入る前に、ギルベルトとふたりで毛づくろいをした。一抱えもある鋤のような道具を使って。
なかなかに重労働だったけど、ふわふわの毛がたくさん取れたし、なによりクリストフ様が気持ち良さそうなお顔をしていたから楽しかった。
それに私は少しだけ治癒魔法が使える。それで腕の疲れは取ったから、大丈夫なのだ。
「みな、安全だとわかっていても本能的に恐れてしまいます。クリストフ様もそれを感じ取ってしまうから」とコンラート。「エヴリーヌ様は貴重な存在なんですよ」
「魔獣なんて実物を見ることはほとんどありませんし、普通は凶暴なものだとの認識ですものね」
私だってクリストフ様に会うまでは、そう思っていた。
でも実際に会ってみたら、可愛いもふもふだった。
クリストフ様が堀からあがる。ぶるんと体をふるわせると、大量のしずくが飛んだ。だいぶ離れているのに、かかる。
「すごいわ!」
ぶるんぶるんとするたびに、しずくが飛んでいく。
「今日は普段より激しいですね。もっと下がりましょう」とギルベルト。
「エヴリーヌ様がいるから、はしゃいでいるのかも」とコンラートが笑う。
しばらくするとクリストフ様は芝生の上に伏せをした。
私たちは大きなブラシを持って、そばへ行く。地面にすわるとクリストフ様の右前足を膝に乗せた。ブラシで指の間の汚れを落としていく。ギルベルトは後ろ足担当で、コンラートは応援係だ。
『わふん』
「ごめんなさい。痛かったですか』
「くすぐったいだけだ」
「痛い、イヤだと感じたら、教えてくださいね」
「わかった」
と言っても、クリストフ様はお優しいから、たいていのことはガマンしてしましそうな気がする。細心の注意を払って、丁寧にやらないといけない。
汚れ落としのあとは、肉球にクリームを塗りこむ。クリストフ様はときどき『わふん』と声をあげるけれど、気持ちよさそうな顔をしているから大丈夫そうだ。
「いやあ、エヴリーヌ様はお上手ですね」とコンラートが褒めてくれる。「ずっとクリストフ様のお世話をお願いしたいなあ」
「毛づくろい係に採用決定ですか?」
「いや――」
「コンラート! 余計だぞ!」
クリストフ様の鋭い声が飛んできて、コンラートは肩をすくめた。
悲しいことに、私は不採用らしい。
◇◇
温室に戻り、クリストフ様をタオルドライしていたら、突然、ビィ――――ッという聞いたことのない恐ろしい音が鳴り響いた。
「なんですか、これ」
「緊急通信だ」
伏せておとなしくしていたクリストフ様が立ち上がり、チェストに近寄る。その上に置かれた鏡を、鼻先でこつんと叩いた。
「王宮と繋がっている、非常時用の通信手段なんです」とコンラートが強張った顔で説明してくれる。「でもあれが使われるのは、この十年で初めてです」
「それって、相当よくない連絡ということですよね」
私も不安になって、クリストフ様を見る。
魔法を使って離れた場所とやり取りができる道具があるのは知っているけれど、見るのは初めてだ。高価で、魔力使用量も多いはず。それを十年間で初使用。
どう考えても、ただごとではない。
クリストフ様はしばらく鏡の中とやりとりをしていた。
それが終わると私たちを見て、
「王都付近に魔獣の大群が現れた。国王夫妻の視察団が襲われて、多数の死傷者が出ているらしい。私も討伐に向かう」
と告げたのだった。