〔幕間〕フェンリルは夢を見られない
(クリストフのお話です)
温室の扉が開閉する音がして、エヴリーヌの気配が消えた。
『わふん』
つい、吐息が漏れる。
「いやあ、本当に彼女は可愛らしいですねえ」
にやけた顔でコンラートが私を見上げている。
「聖女に選ばれるのは純粋かつ度量のある女性だと聞いたことがありますけど、エヴリーヌ様はまさしくそんな感じですね」
「私もそう思うよ」
彼女がここに来て四日ほどが経つが、日々、その思いが強くなっている。
王太子に信じられないほどの非礼を働かれたというのに文句のひとつも言わずに、エヴリーヌは聖女の勤めを果たしている。
恐らくオーバンは、彼女がそうすることを予測して、追放したのだろう。
更にエヴリーヌは稀有な治癒魔法の持ち主だったのだが、それを惜しみなく屋敷の使用人たちに使っている。
治癒魔法には多大なる魔力が必要なはずだ。瘴気の浄化と合わせたら、彼女の負担は相当なものだろう。それでも『お世話になっている礼だから』と、がんばっているらしい。
人が良すぎて心配になる。
「クリストフ様もわふわふ言ってないで、頑張ってくださいよ」
「なにをだ?」
「プロポーズ以外なにがあるんですか」
「プ……!?」
コンラートは『当然でしょ?』と言いたげな表情だ。
「あんなに素晴らしい聖女様なのです。すぐに陛下からのお迎えがきます。のんびりしている場合じゃないですよ」
「だからって……」
「まさか、私が気づいていないと思っているんですか? あなた、彼女を好きでしょう?」
き、気づかれていたのか。
「エヴリーヌ様がそばにいると緊張しているし、なにかと『わふん』とため息をつくし」と、コンラート。
「そんなに態度に出ているか」
「出ていますよ。もちろん、ギルベルトさんも気づいてます」
エヴリーヌは、誰もが恐れる魔獣の私を怖がらない。『優しい顔をしている』と評してくれるが、それは嘘だ。鋭い目つきに、大きな口。簡単に人間を噛み殺せる尖った歯と、半月刀のような爪。毛並みは確かにもふもふだが、それだけでは私の凶悪さはカバーできない。
だというのに、エヴリーヌは私に平気で近づく。可愛いと褒め、嬉しそうな顔でもふもふを堪能する。
これで彼女を好きにならないほうが、おかしい。誰だって恋に落ちるはずだ。
「でも私はほとんど、フェンリルの姿だ。結婚なんてできるはずがない」
「大丈夫、彼女はもふもふのあなたが好きだから」とコンラートが良い笑顔になる。「むしろ人の姿のほうが、おまけでしょう」
「うっ……。否定できない気がする」
彼女にとって私は、ペットのポメラニアンの代わりのようだし。
「さ、状況を理解できたところで、さくさく口説いていきましょう。いつまでも気取っていないで、さっさと犬吸いをやらせてあげなさい。喜びますよ」
「イヤだ、絶対にケモノくさい」
「ケモノなんだから当然じゃないですか」
「ひどいぞ、コンラート! とにかく、私は求婚なんてしないからな」
彼女が落ち込んでいるときに、抱きしめて励ますこともできない。私に可能なのは、鼻先をこつんと当てることだけだ。そんな生き物を伴侶にして、エヴリーヌが幸せになれるはずがない。
「コンラート、無駄な夢を見るんじゃない」
幼馴染をたしなめたら、胸がずきんと痛んだ。