11・優しいクリストフ様
「冷たくないですか!」
背後からコンラートの叫び声がする。
「大丈夫です!」
と、叫び返してクリストフ様の背中にいっそう、しがみつく。濡れた毛は、確かに冷たい。でもその下に、温かな体温が感じられた。それと、躍動する筋肉の力強さも。
都に帰るにあたって、国王ご夫妻は馬車に乗るよう勧めてくれた。たくさん魔力を使っただろうから、ゆっくり休みなさいと言って。
確かに疲れてはいたけど、私はクリストフ様がよかった。服が濡れてしまうと指摘されたけれど、それでも。
往きと違い、クリストフ様のスピードはそれほど早くない。国王一行のしんがりを進んでいる。
と、
「少し水を飲んでくる」
と近くの騎士に声をかけて、クリストフ様は列を離れた。そのまま右方に見える小川に向かう。
でも到着してもクリストフ様は水は飲まず、私とコンラートを降ろしただけだった。
「エヴリーヌ嬢」
彼は優しい声で私の名前を呼んだ。緑色の瞳がまっすぐに私を見ている。
「あのように惨い現場を見るのは、初めてだったのではないかな。大丈夫か」
「は……」
『はい』と答えようとしたけれど、途中で声が出なくなってしまった。
クリストフ様の言うとおりだった。予想以上の惨状が恐ろしかった。でもそんな状況だからこそ、治癒魔法が必要なのだ。心を奮い立たせてがんばりはしたけれど、平静な気持ちではいられなかった。
だから、クリストフ様と帰りたかったのだ。
「濡れてさえいなければ」とクリストフ様が沈んだ声を出す。「『好きなだけモフモフしてくれ』と言えるのだが。コンラート。彼女を落ち着かせてあげてくれ」
「いえ、クリストフ様がいいです。少しだけ、ぎゅうをさせてください」
『どうぞ』との返事をもらえたので、クリストフ様の肩の辺りに抱きついた。
ほのかに汗のような匂いがする。
冷たいけれど、ほっとする。
どうしてクリストフ様は、私がショックを受けていると気づいたのだろう。
私は聖女だから、人前で不安を顔に出さないよう普段から気をつけている。今だって、しっかり隠していたつもりなんだけどな。
◇◇
王宮に帰り着き、エントランス前で国王夫妻が馬車から降りるのを待っていると、突然
「ひいぃぃ――――っ!! 魔獣! 魔獣よっ! 早く退治してよ!」
という金切り声がした。
振り返ると今、外に出てきたばかりらしいオーバンとイザベルがいた。仲良く腕を絡めあっているけれど、イザベルは蒼白で地面に座り込んでいる。つられて前かがみになったオーバンも、顔を引きつらせて
「どうして退治しないんだ!」と叫んだ。
誰かが、
「あちらのフェンリルは、殿下の叔父上であらせられるセヴィニェ公爵閣下です」と進言する。
「でも魔獣じゃないっ!」と叫ぶイザベル。
私はクリストフ様を見上げ、
「あの令嬢が義妹のイザベルです。失礼な態度で申し訳ございません」と謝った。
そこに、
「あ! エヴリーヌ! なんで喰われてないのよ!」
とイザベルがまたも叫んだ。
……どうやら私をクリストフ様の元へ行かせたのは、食べさせるつもりだったからみたいだ。
「愚かな子で、本当にごめんなさい」とクリストフ様にもう一度謝る。
「そのようだな。だが、エヴリーヌ嬢が謝罪する必要はない。君も被害者だ」
「ひいぃぃ――――っ!! 喋った!!」
イザベルの金切声が響き渡る。
「あそこの見慣れぬ者は誰だ」
国王陛下の鋭い声がした。イザベルに気を取られていたすきに、夫妻は下車していた。ふたりとも不愉快そうな表情で、イザベルを睨みつけている。
「父上、母上!」オーバンがイザベルを立たせ、彼女をエスコートしながら陛下たちに歩み寄る。「魔獣の大群が現れたとか。ご無事でなによりです」
うむ、と頷く国王陛下。
「こちらの令嬢はルヴィエ伯爵の妹君、イザベル嬢です」オーバンは曇りない笑顔でイザベルを紹介する。「今の失言はお許しください。初めて見る魔獣に気が動転してしまったのです。彼女こそが本物の聖女。我が国を守る希望です」
イザベルが膝を折って頭を下げる。タイミングも所作も、良くない。
夫妻はますます顔をしかめた。
「冷静でないときこそ、本音が出るもの。あの無礼で見下げた発言の数々が、そこの者がどのような性質かを現している。とうてい許せはしない。不敬罪に値する」
陛下の最後の言葉が終わるやいなや、騎士たちが前に進み出て、とたんにオーバンは蒼白になった。
「ま、待ってください! 彼女は聖女ですよ!」
「ならば、その証拠をみせなさい」
「証拠……?」
オーバンは当惑したようにイザベルと陛下の顔を見比べる。
「女神の神託は本人にしかされないし、浄化の力は目に見えないし、証拠なんてものは……」
「お前は本当にそれだけで聖女が決まると思っていたのか」
陛下が大きなため息をついた。
「あげくに本物の聖女であるエヴリーヌ嬢を追放などして」
「彼女は偽物です」
オーバンは反論したけれど、声は少しだけ弱くなっていた。
「私と神官長が本物の証拠を確認している」
そう言うと陛下はクリストフ様を見た。ふたりは無言でみつめあっている。
かと思うと陛下はふたたび、オーバンを見た。
「お前は本当にエヴリーヌ嬢を偽物だと思っているのか」
「はい!」
「で、そこの者が本物だと」
「もちろんです!」
陛下がまた、クリストフ様を見た。クリストフ様は首を小さく横に振る。
「残念だ、オーバン。お前からは王太子位をはく奪することになるだろう」
「どうしてですか、父上!!」
オーバンが悲鳴のような声をあげる。
「そこの愚者は投獄を。オーバンは自室へ。私の許可なしに外へ出してはならぬ」
「ま、待ってください、父上! 私の従者は? 父上をお迎えに上がったはずですが、どこにいますか?」
近衛兵に周囲を囲まれながらオーバンが叫ぶと、陛下の代わりに騎士団長が答えた。
「彼は魔獣が出現したとき、すぐそばにいたようです。一瞬にして喰い殺されたと聞いています」
「くそっ、あの無能め!!」
悔しがるオーバンと罵詈雑言をがなり立てるイザベルが、近衛兵に連れられて行く。
あまりに情けない姿だった。
クリストフ様を見上げる。
以前彼は、『フェンリルの姿の時は嘘がわかる』と話していた。きっと陛下もご存じで、オーバンの判定を彼に任せたのだろう。それが陛下が借りたいと言った、『力』のことだったのかもしれない。
私はオーバンを好きではなかったけれど、それなりの期間を婚約者として過ごしたのだ。完全に私を嵌めるつもりだったというのは、さすがに悲しい。
「毛が乾いたら、もふもふさせてくださいな」
「好きなだけしていいぞ」
「犬吸いは?」
「そ、それは……」
クリストフ様は目をつむり天を仰ぐ。
「構いませんよ、私が許可します。この人は恥ずかしがっているだけですからね」
横からコンラートが素晴らしい笑顔で言った。
「コンラート!」
「ありがとうございます!」
クリストフ様と私の声が重なった。




