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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

私が医官様の花嫁に?…いや、そんなまさか。

作者: Ztarou

「十九にもなって光星術のひとつも使えないなんて、……我が家の恥ね」


 お義母さまがそう言うことに、慣れてしまったというのは簡単だった。感情を極力表には出さないようにして、ただ耐えればいい。


 けれど、本質的に「慣れた」というには、その言葉はあまりに毒を孕んでいて、私はそれにいちいち傷ついていた。


 お義母さまは続けてこう言った。


「本当は嫁に出すのも恥ずかしいけれど、家に居られる方が恥ですから」


 私は術が使えないことが理由で、家の外に出されることになった。


 十九年暮らした家を、生みの母親と幼少を過ごしたこの家を去るのは辛いものがあった。


 それでも、お義母さまの言うことにも理は在った。私は光星術が使えない。平成に入ってからは光星術を組み込んだ社会規範が出来ている。


 それを考えると、術の使えない私がなじられるのは、当然だった。料理のできない女、家事のできない女、術の使えない女はそういう扱いを受ける。


 昭和よりも差別は減ったけれど、男女平等というには遠く満たされていなかったし、私は恐れ多くてそんなもの望むことが出来なかった。


 光星術が使えないのは、人間として欠落があると言われているから──。


「──はい。わかりました」


 私はそれだけを言うと、リビングを後にした。テレビからはニュースが流れる。大日本帝国、帝都東京で、またしても「竜災」が起きたとのこと。


 光星術の源である「光」を取り込み過ぎた獣は竜になる。その竜が人を襲えば災害となる。


 そんなことも、結局、私には何の関係もないのだけれど。


 数日が経って、私が嫁に出される日になった。これからどこに住むのか、どころか相手がどのような人なのかも終ぞ教えられることはなかった。


 私は不安を表に出さないすべを持ち合わせてはいるけれど、不安を感じない方法は知らなかった。怖かった。嫁いだ先でも、術が使えない女など要らないと言われたら、私はこの先どう生きていけばいいのか。怖かった。


「もう二度と会うこともないでしょうけれど、本家の顔に泥を塗るような真似だけはしないように。いざとなったら、覚悟を決めなさい」


 血のつながらないお義母さまが、別れ際、バスに乗り込んだ私に渡したのは小瓶だった。中にはほんのり青い液体が入っていた。毒だと思った。


 恥を上塗りするくらいなら死ねという意味だ。それくらいは私にもわかる。その場で泣きだしそうになったけれど、そうなれば、きっと誰かに迷惑をかける。私はお義母さまに一礼して、バスの座席へと進んだ。


         ***


 バスは高円寺から千葉まで行く中距離のものだった。狭い座席に居心地の悪さを感じながら、窓の外を眺める。元号は昭和から平成へと変わったけれど、街並みはまだ、昭和を忘れられないでいる。


 中距離バスの中で、私は本を読んでいた。小難しい軍用書で、純愛小説が好きな私が読んだことのある分野ではなかった。お義母さまの詰めた荷物の中にあったので、恐らく必要なのだと思う。


 走る中距離バスの目的地は千葉だったが、平成期に入ってからは下総と呼ぶことが義務付けられていた。太平洋戦争では勝利したものの、唯一負け戦となったのが「千葉決戦」。最終的に千葉を手放したから大戦には勝てたものの、千葉という名前自体が軍にとってのタブーになっているのかもしれない。


 本を読んでそんなことを考えていると、私はバスの揺れと難しい文の羅列に、眠気を誘発させられる。船をこぎ始めると、もう意識をはっきりさせるのは難しくて、私は眠りの誘いに身を任せた。


 あの家には思い出も沢山あるはずで、追い出されたことだって辛いことのはずなのに、私は、こんなにも安心して眠れたのがいつ以来だろうなどと考えてしまった。


 恋人はおろか友人もいなかったこの短い人生で、このかび臭いバスの中が、久々の平穏をくれるゆりかごとなっていた。


 私は一体どんな人にもらわれ、どう死んでゆくのだろう。意識の最後に思ったのは、そんな考えても何の意味もない事だった。


「もしもし、もしもし、お嬢さん」


 肩をゆすられて目が覚めた。私の上体は隣の座席にまでもたれかかっており、私を起こしたその人は、途中で乗り込んできた様子だった。


 私が目を覚ますと、そっと微笑んで切符を見せ、私の隣の座席を指した。


 その人は細身の男性で、軍服を着ているのを理解した瞬間、さぁっと血の気が引いて、私は身を引いて謝った。


「も、申し訳ございません! 軍人様のお座席を私などが──」

「いえ、いいんです」


 それだけ告げた彼は座席に座ると、軍帽を脱いだ。そこで、その人の片目が眼帯であることに気が付く。


 酷く美しい顔に、眼帯がしてある。不釣り合いだと思った。


「僕の顔に何か?」

「あっ、その、いえ……」


 人様の顔をじろじろと見るなんて、私は恥知らずだ。けれど、どこか深く見てしまう。


「あなたも、国境基地に?」


 ふと軍人様が問うが、その意味がよくわからなかった。


「このバスはもう千葉にしか行きませんから」


 この人は下総と言わないんだ。そう思って、そうではないとはっとした。自分の乗っているバスはもう軍基地にしか行かないのか。


 けれどバスで終点まで乗れと言われていたので、私がこれから行くのは下総の国境軍基地なのだろう。


 どう答えたら良いものか悩んだが、私はそのままを答えることにした。


「嫁に行くんです」


 そのあとに何か続けようと思ったけれど、私はこれ以上、何も言うべきことを持ち合わせていなかった。私の人生には、それほど、何もない。


「そうなんですね」


 軍人様はそれ以上何も問うては来なかった。私はそれに酷くほっとして、今度は眠らないよう、窓の外の景色をずっと眺めていた。


         ***


 バスが下総に着くと、こけないように降りて、辺りを見回す。そこには荒涼とした景色が広がっていた。灰色の建物とカーキのテントが立ち並ぶ、軍基地としか形容のできない場所だった。


 お義母さまに渡されたメモを見ると、正面ゲートの守衛に手紙を見せれば事が運ぶと書いてあった。私は着物が全く風景に合わないと思いながら、下総国境軍基地の正面入り口へと足を踏み入れた。


 守衛小屋の窓を叩く。


「はい?」

「すみません、これを」


 私もその中は見ていないけれど、何が書かれているのだろう。守衛さんはその手紙を読んで、私の顔と身体をじろりと見ると、別の紙に何かを書いて私に手渡した。


「そこに行けばいい」


 守衛さんとの会話は最低限で終わった。渡された紙を見ると、目的地の住所とその部署の名前が書かれていた。接待室。名前だけでは判断できないけれど、秘書や庶務の仕事をするところだろうか。


 言われた場所に向かうと、男性軍人と女性看護師が居た。ふたりが私を足先から頭まで見ると、顔を見合わせた。


「これは上玉ですね」

「上級将校室でもいいんじゃないか」

「初物食いの? 使い物にならなくなりますよ」

「壊れたら下級兵でマワせばいい」


 ふたりの言っている言葉の意味がわからなかった。


「あの、嫁に来たんですけれど、私はどこに──」


 私が話し終わる前に、男性軍人様が私の着物を掴み、力任せに下に引き下ろした。声が出なかった。痛くて、理解が追い付かなくて、剥かれた私はただ恥部を隠すことしかできなくて。ただ涙がこぼれた。


「あんた処女?」


 女性看護師に言われて、私はそっと頷いた。


「上でもいいかもしれませんね」

「俺に理性がなきゃ味見してる。特に顔が良いな。肉付きは少し足りないが」

「ではそちらの方向で。私は検査を進めます。避妊ミミズはいつ来ますか?」

「また駄々をこねなきゃ、もうすぐ来るだろ。西から帰ったばかりだ」


 そう言って男性軍人は何かにサインをすると、部屋を出て行った。私は女性看護師と二人部屋に残される。私は涙が流れるのを止められなかった。


「どう、いう、ことなんですか」

「あんたは軍に売られたのよ。新設される『接待部隊』ってのがあって、まああんたは顔がいいから上の連中に可愛がってもらえるだろうね」


 接待。その二文字が何を意味するのか、私はようやく気が付いた。勘の鈍い私は、そうして、ようやく気が付いた。


 私は嫁になど来ていない。お義母さまに厄介払いをされ、来た先は軍人様の性欲処理の部署。


 頭では理解しても、身体が凍てつくように痛み出し、震え、嗚咽した。


「このあと光星術をかけたミミズが届くから。それを子宮に入れて避妊処置をする。ミミズを出せばまた妊娠を出来るようになるから安心しな」


 女性看護師の言葉はなにも耳に入ってこなかった、聞こえるのは、私の泣き声だけ──その時。


 ぎぃ、と音がして、戸が開いた。


「遅いですよ、医尉」

「看護七尉。ミミズは作らないと改めて言いに来ただけ──」


 涙の先で、片眼と目が合った。反対の目は、眼帯だった。


 あのバスの中の軍人さんだ。


 自分がいまどんなはしたなく、穢れた姿なのかも忘れて、私はただ一言漏らすように言った。


「たす、けて」


         ***


 助けて。そんな単純な一言でも、私は人生で初めて言ったかもしれない。


 お義母さまに邪険にされるのも、光星術が使えなくて社会不適合者と言われるのも、我慢が出来た。


 でも、愛の先にある行為に少しばかりの夢を見ていた私にとって、それだけは、耐えられない事だった。


 そうなってしまうくらいなら死んでしまいたいと思った。あの小瓶が脳裏をかすめた。


 けれど、その軍人さんと目が合った瞬間、助けを求めてしまった。理由はわからない。ただ、その場で唯一顔を見知った人だったからなのかもしれない。


 売り飛ばされた身分で、私が何を言おうが分不相応で、無駄なのかもしれない。でも、私の中に零れ落ちた雫のような一言は、助けの請願だった。


 片目の軍人様は私の言葉を聞いて、すぐに軍服を脱いだ。それを私にかけてくれたのには驚いた。


 なぜなら、私とその人は、何のえにしで結ばれているわけでもない、ただバスの席が隣になっただけの数分の顔見知りだったのだから。


「お嬢さん。あのバスは熟睡できる環境では決してない」


 どういうことだろう。軍人さんはそう言って、看護師に向き直った。


「この人は軍にいくらで売られたんだ」

「医尉、ですがその娘は上層部に──」

「いくらだ」

「十二萬戦下円だったかと……」

「ならいい、その人は僕が買う」

「失礼ですがそのような資金が医尉にあるとは」

「『紅竜』を海軍に売ればいい」

「──ッ!」


 それ以上女性看護師は何も言わなかった。そして書類に何かを書き込むと、軍人さんに手渡した。


「……おとなしく避妊ミミズを作っていれば良いものを」

「日本は戦争で千葉と道徳を失ったみたいだな」

「獣医ごときが。臭いんだよ」

「今のは聞かなかったことにしておこう」


 私はそれから医尉と呼ばれた軍人さんに肩を抱えられ、立ち上がった。そしてその部屋を出る。


 数分歩いて、屋外の開けた場所に出た。周囲から私を隠すように立った医尉さんは、着崩れた服を直すようにそっと言って、辺りを見張ってくれた。幸い通るのは忙しくしている軍人様ばかりで、私達に目をやる人はいなかった。


「直りました?」

「あの」


 医尉さんは私が着物を最低限見苦しくないよう直したのを見ると、頷いて立ち上がった。それから私は彼について、十数分基地内を歩いた。


 すると段々獣や牧草の匂いがしてきて、さっきまでの殺伐とした空気が搔き消えた。決して懐かしい匂いではないけれど、不安のある臭いを消してくれたことが、私にとって大きかった。


「ここは……」

「ようこそ、大日本帝国軍、第一竜医管轄へ。ここ、臭くてごめんね」


 医尉さんはそう言って、困ったように微笑んだ。そしてその瞬間、私はもう生きたまま死ななくていいんだと安堵して、気が抜けた。


 最後に覚えているのは叫んだ医尉さんと、暗転してゆく世界だった。


         ***


「お、ジブン目ぇ覚めたんか?」


 西の方言が聞こえて、それからなにか小さくて温かい生き物に頬を舐められて、私は意識を取り戻した。


「覚えとるか? 貧血で気絶したんやと。ジブン、生理やってんやろ」


 重たいまぶたを持ち上げると、そこにはそばかすのある金髪の少女が居た。瞳は蒼く、一目で西欧人だとわかった。でもどうして関西弁を……。


 それに私をぺろぺろと舐めているこの生き物はなんだろう。ヒツジのような見た目をしているのに、子犬の様に小さく、子犬のように振る舞っている。


「あー、ごめんごめん。これメーちゃん言うねん。光を食い過ぎた羊の竜獣やねんけど、光抜いたらこうなってん」


 ブロンドの少女は歯が欠けていた。それも気にせずニッと笑う笑顔がとてもかわいらしかった。


 辺りを見回すと、自分がベッドの上に寝かされていることに気が付いた。この農場のような香りは変わらずなので、倒れた場所からそう遠くないのだろう。


 私が起き上がろうとすると、メーちゃんが鳴きながら私をベッドに押し戻す。


「あたしもメーちゃんに賛成やな。まだ寝とき。先生は急患でここ離れてるし」

「あ、あのっ」

「ん?」


 メーちゃんを残して部屋を出ようとしたブロンドの少女を呼び止める。彼女はこちらを向いて「どしたん?」と告げた。


「私はこれからどうなるのでしょうか」


 知りたいのはそれだけだった。生きたまま死ぬくらいなら──。私が再びあの小瓶を思い浮かべた時、ブロンドの少女は言った。


「ん? え、先生のお嫁ちゃんとちゃうん?」

「へ?」


 するとそこにやってくる、医尉さん。血まみれの手袋を取りながら笑っている。


「まいったまいった、牛竜が一度に三頭産気づくなんてね。メリッサ、お嬢さんの様子は──」


 私は医尉さんとまた目が合った。


 どうしてだろう。彼と目が合うと、こんなにも安心するのは。


「今起きたとこやで。というか、お嫁ちゃんじゃないん? どこから拉致って来たん? 返事によってはメーちゃんが火を吹くで!」

「めぇええ」

「物騒だな……。違うよ。軍の連中が彼女を手籠めにしようとしていたから買ったんだ」


 そこでメリッサと呼ばれた、歯欠けのブロンド少女が医尉こと先生を蹴り飛ばした。


「女の子はモノちゃうぞ、ぼけ! 男やったら連れ出して逃げてこんかい!」

「うっ……。僕だって権力があればそうしていたさ……。でもただの医尉だ」


 ぷりぷり起こるメリッサさん。でも私は今の言葉で、なお一層ほっとした。目を見るだけで安心できる、私に羽織をかけてくれる、そんな人に買ってもらえた。自分の扱いなどいい。本当に私は、生きたまま生きて良いんだ。


「お嬢さん、その、すまなかった。君を買うなんて、モノみたいに扱って」

「……いいんです。私は、井戸の底からすくい上げていただきました。もうそれだけで、一生分の幸福を使ってしまったほどです」


 私がそう言うと、メリッサさんと先生は酷くショックを受けたような顔をした。そして医尉の先生は静かに言った。


「あんな酷い環境で熟睡できてしまうほど、あなたの元居た場所は酷かったのかと、僕はバスの中で思ったんだ」


 さっきの場所での言葉はそういう事だったのか。


「そして『嫁に行く』と安らいだ顔をしたあなたが、あんな場所に居たのが、僕は辛かった。僕にできることはこれくらいしかないけれど」


 メーちゃんがまた私の頬を舐めた。くすぐったい。


「ここで暮らしませんか。登録は、僕の妻として」


 それは、私なんかが一生を代償にしても得られないものだと思っていた言葉だった。それが、憐れみでもいいと思った。


「は、はい。──よろこんで」


 胸に満つこれはなんだろう。悲しみ以外で初めて流れるこの涙はなんだろう。なんて温かいのだろう。メーちゃんが頬の雫を舐めとった。


 こうして私は、大日本帝国軍、第一竜医管轄主任、竜医の妻となった。


         ***


 焼けたパンのいい香りが家じゅうに満ちて、私は目を覚ました。


 あの後またぐったりと眠ってしまった私だけれど、メリッサさんと先生は放っておいてくれたようで、私は身体の緊張や疲れがすっかりとれるほど休息をとることが出来た。


 いつの間にネグリジェに着替えていたのだろうと思いを巡らせたあと、メリッサさんに女の子の日であると知られているのを思い出し、諸々をお世話されていたのだと思い到る。恥ずかしい気持ちと感謝の気持ちを行ったり来たり。


 ベッドから降りて見回す。私の唯一の荷物である鞄はサイドテーブルに置いてあった。部屋は二階なようで、窓がある。上開きの雨戸につっかえをしてあり空気が流れ込む。私はそれをとって、窓を広く開け放った。


「わぁ……」


 二階からは自然豊かな森林と、農地のような草原、牛舎や馬小屋が見えた。生んでくれたお母さんの実家が酪農をしていて、だからこんなにも懐かしいのだと私は思い出した。


 けれど、酪農をするにしてはひとつだけ風変わりな建物がある。全面鋼鉄で覆われており、工場のような雰囲気を放っていた。


「気になるん?」

「ひゃっ」


 すぐ背中にいたメリッサさん。相変わらずブロンドの髪と碧眼が美しい。


「おはようさん。よう寝とったからほっといてん」

「メリッサさん、おはようございます。おかげでもう元気です」

「さんは要らんで。あたしのほうが多分年下やもん。メリッサで」


 でも、というと、彼女は人差し指を振ってちっちっちと言うので、引き下がりそうにはない。


「わかりました、メリッサ」


 試しに呼んでみると彼女は満面の笑みを浮かべた。歯欠けがかわいい人だ。


「あの『鉄の家』は紅竜の厩舎。ほら、竜災てニュースとかで見たことあるやろ。ああいう自然竜災を鎮めるための対抗兵器がココで育てとる紅竜やねん」

「そういう場所だったんですね」

「先生はここで生まれ育って、紅竜と一緒にでかなったから、竜医としては天職なんや。妻……奥さん……。お嫁ちゃんやな。竜医のお嫁ちゃんになったんやし、朝メシのあと見にいくか?」

「是非見てみたいです」


 自然な笑みが久しぶりに零れた。そして思い出す。自分が、眠る前に先生の妻になったということに。


「……私は、人様のものになったんだ」

「ん?」


 その呟きを聞き逃さなかったメリッサは、私の脇腹をデュクシとつついた。


「ジブンはモノちゃう。対等な人間や。それを忘れたらアカン。自分を誰かに預けるな。自分は自分で持っとけ。そやないと、幸も不幸も人のせいにしてまうで。責任は自分で持て。その方が、気ぃが楽やろ」


 とても厳しい言だけれど、なんて優しい言葉なのだろうと思って、また泣きそうになった。けれど泣かない。彼女の言うことは正しい。


「私は、私ですね。……ありがとう」


 歯の欠けたメリッサはニカッと微笑んだ。


「んじゃ朝メシにしよか! 下で待っとるで~」


 そう言って彼女は階下に向かう。私はもう一度風を浴びるために窓際に寄った。なんて懐かしい香りなのだろう。


【後書き】

貴重なお時間を割いてお読みいただき誠にありがとうございます。


お気に召しましたらご評価いただけますととても嬉しいです。


ご意見・ご感想もいつでもお待ちしております。


         ***


 階下に降りて香りのする方へ向かうと、メリッサがダイニングにプレートを並べていた。私もすぐに手伝おうとすると、座ってなさいと言われ渋々そうする。


 並べ終わってメリッサも食卓に座ると、しばしぼうっとしてから、はぁとため息をつく。彼女はフライパンとおたまを持って一階の廊下の突き当りの部屋に突撃、カンカンカンカン! と大きな音と起きろという叫びが聞こえるので、何が起きたのかは察しが付く。


 戻ってきたメリッサと一緒に居たのはふあっとあくびをした、ぼさぼさ頭の先生だった。


「あ、お嬢さんおはよう」

「おはようございます先生」


 むすっとするメリッサ。


「なんで目覚まし四個かけといて全部寝ながら止めるねん!」

「そういう特殊能力があるのさ」

「アホなこと言うてんとはよ座り」

「はい……」


 昨日から気になっていたけれど、先生とメリッサはそもそもどういう関係なんだろう。


 けれど、そんな疑問を吹き飛ばすほどお腹が空いているし、目の前には朝ごはんというには少々豪華な料理が並んでいたので、私はそわそわした。


「ははは。そんな顔せんでも皿に足生えて逃げたりせぇへんて」

「で、ですね!」


 いただきますと三人で言って、私は焼きたてのパンを手に取った。試しに千切ってみると、もっちもちだ。


「もちもちやろ? 焼きたてやからな」

「わ、私スーパーの格安品しか食べたことなくって……こんなにもちもちだなんて」

「嬉しいわぁ。先生なんかいっつももっそもっそ食いよるからなぁ」

「美味しいけれど、毎日言ったらうざったいかなって」


 新聞を片手に先生は言い訳をする。


「毎日でも言うてもらいたいに決まっとるやろ」

「あのっ、とってもおいしいです」

「めっちゃええ子やなぁ。先生にはもったいないわ」


 歯の欠けたブロンド少女メリッサは楽しそうだった。先生は少々バツが悪そうにしている。


「ほいじゃバターもうまいかもな。光をたんと吸った牛竜の一番乳やし。それ食ったらいつもより光星術の出が良くなるって評判やねん」

「あっ──」

「ん? どしたん」


 つい反応してしまった。私は光星術が使えない。この世界で光星術が使えない人間なんて、一番の差別の対象なのに──。


 メリッサは私の目をじっと見つめた。それからふと口に出す。


「非術師?」


 私は総毛だった。バレた。光星術が使えない人間だとバレた。もう、私はここにはいられない。そんな人間を快く思う人間はいないし、追い出されても何の文句も言えない。


「その反応やと、ホンマっぽいな」


 見つけたと思った安住の地も、砂上の楼閣だった。私には幸せを求める権利んてなかっ──。


「なら、いままできっと辛かったはずだ……」


 ふと、先生が新聞から顔を上げてそう言った。


「君がバスで見せた顔の理由がわかった気がする」

「先生、ちょっとあたし、もっとバカ美味いモン探してくるわ」


 メリッサは走っていった。微笑んで見送る先生。


「メリッサの弟が非術師で、彼女は『差別』を知っている。彼女は放っておけないんだ。……もちろん僕だってそうだ。だから怯えなくていい。君が安心して眠れる場所を、誰にも侵させはしない」


 私は自分の涙腺がこんなにも弱かったかなと、雫が垂れてから思った。


「幸せになるための方法を知ってる?」


 ふるふると私は首を横に振る。


「それはお腹一杯に、美味しいものを食べることだよ」


 ダダダッと戻ってきたメリッサは、大きな肉の塊を抱っこしていた。


「濃厚焦がし醤油ガーリック燻製バターネギ油うま味チャーハン作るわ」

「なんだいそのテロ的な名前の料理……」


 メリッサはキッチンに向かう。先生は彼女の背を指さしてクスクス笑う。私は笑ってもいいんだと許しを貰ったような気がして、頬がほころんだ。


 この場所に私はいてもいい。もう何も失わなくっていいんだ。


 それだけで胸がいっぱいになって、私は幸せな気持ちになった。これが、幸せっていう気持ちなんだ。


 そしてメリッサのご飯でお腹もいっぱいになって、動けなくなりました。


         ***


「ほんまにごめん」


 第一竜医管轄に来て数日が過ぎた。この頃には私はお手伝いをしてもダメと言われなくなっていた。メリッサはどうやら過保護な所があって、ひたすらお客さんとしてもてなしてくれていたけれど、それでは気まずかろうと先生が言って、彼女のお手伝いをすることを許してくれたのだ


 今は牛竜の乳搾り中。竜獣化しているとはいえ、翼や牙以外はただの牛なので、そんなに怖いこともない。光星術が使える人にとっては、術の源である光が満ちた濃厚な味になるそうで、軍の中でも人気の牛乳だ。


 そして、搾乳機を操作している時に、メリッサは私にぺこりと頭を下げてきた。どうしたのだろう。


「あたし、ジブンのこと『お嬢さん』と呼ぶばっかりで、本名知らんわ……」

「あ」


 確かに私も名乗ってない……。


 謝られることというよりは、お世話になっているのに名乗っていない私の方がダメでは? と思う私。


「そう言えば先生にも名乗ってなかったです……」

「あのアホンダラあとでシメとくわ」

「あわわわわ」


 先生は悪くないのだけど……。でも手続き上の配偶者の名前を知らないということは、そもそも手続きできていないのでは。早く名乗らないと……。


 あ、でもそれよりも前に、メリッサに伝えよう。


 そう思って私が口を開こうとすると、メリッサは私の唇に手をむっと当てた。


「アカン! そういう大事なんは、先に先生や!」

「えっと、なぜ……」

「わからん! なんとなくや! ほら、搾乳はやっとくから行ってき!」


 ぺしんとおしりを叩かれて、あうっと叫んだ私は駆けだした。けれど、先生はこの時間どこに居るのだろう。


「第三陸戦機動病院! 走れー!」


 メリッサの言葉を受けて、私はとったったと駆けた。軍施設内の看板を見つつ、病院を探し、十分そこら迷った挙句に辿り着く。


 あの横顔、眼帯。先生だ。


「あの、せんせ──」


 私はその場に凍った。先生の向こうにはあの日の女性看護師と軍人様が居て、軍人様は片手に女の子の首を掴んでいる。


「……避妊ミミズ処置は終わりました。この子の精神衛生を保つことだけは約束してください」

「そんな睨まなくても、プロとして道具の手入れを怠る様な真似はしませんよ」


 道具という言葉に先生が拳を握り、感情を殺そうとしているのが伝わった。


 それから女性看護師がこちらを一瞥した。


「はは、全部の女を嫁にするのかと思いましたけど、所詮は医尉ですものね」


 言い残した看護師と軍人様は女の子を引きずるようにして連れて行った。ぽたっと音がした。それは、目の前に力なく佇む男性の目から零れたものだ。


 私は自分なんかに何ができるかわからなかったけれど、歩いて行って、先生の背に手を添えた。そっと撫でて、そうするしかできなかった。


「……人を救うなんて、傲慢だった」


 絞り出すような声。


「全員を救うなんてできるはずもないのに、君を救って、善人ヅラをして。僕は傲慢なクズだ……。弱くて、矮小で──」


 私はわけもわからず先生の背におでこをつけた。腕を身体にまわした。今そうしてあげないと、この脆くて優しい人が、灰で作った彫刻の様に崩れてしまうような気がした。身体をくっつけ、熱を伝える。


「私はっ……私は、助けられました。先生が居なければ、私は自死を選んでいました。メリッサにも出会えず、幸せなど望むことが出来ぬまま、死んでいました。私を救ったのは、紛れもなくあなたです。私に居場所をくれたのはあなたです。私があなたにどれだけ感謝しているのか、してもしきれないと思っているのかを、どうか、どうか忘れないで──」


 崩れるように座り込み涙する先生の背を撫でる。彼が泣き止むまで、私はそうしていた。きっと私は、この時ここで、こうするために、生きてきたのだと、ふとそんなことを思って。


         ***


「──清香(きよか)さんだったよね」

「知っているんですか?」


 軍病院からの帰り道。私が名を名乗りに来たことを伝えると、ふむと彼は言って、私の名前を言って見せた。


「あまり良くないとは思ったんだけど、君が買われた時の契約書に名が乗っていたんだ。苗字はあの地域によくある物だったけれど、名前がとても君らしいなと思ったから、覚えていた」


 私はその契約書に他に何が書かれていたのだろうと少し恥ずかしくなり頬が熱くなる。


「綺麗な名前だ」


 私はそう言ってもらえたのが嬉しかった。


「産みの母がくれた名です。母さんがくれたもので、この世に残っているのは、もうこれくらいしか、ないんです」


 しまった、口がすべって辛気臭い話をしてしまった。ただでさえ今先生は気が落ちているのに。けれど先生はそれで嫌な顔をするような人ではなかった。


「名前は親が子にやれる、愛に次いで二番目に大事な贈り物だと思います。僕は清香さんのお母さんに感謝をしないといけないな」

「?」

「こんなにも清廉で優しいお嬢さんを妻にできるなんて。陛下や御仏に感謝するよりも、お母さんに感謝したい」

「な、なるほど。照れます」


 そう言葉にしないと恥ずかしくて動けなくなってしまいそうだった。


「そうだ、帰ったら改めて婚姻届を……」


 彼は裾を引かれ、立ち止まった。裾を引く私は、きっと耳まで真っ赤になっているのかもしれない。けれど、機を逃したくなかったのだ。


「私も、先生のお名前、知りたいです」


 おやと先生は驚いた顔をしていた。


「そう言えば名乗ってなかったね」


 うっかりと言いたそうに頭をかしかしと掻く先生。そして彼は私に向かい合うと、私の両手をとって、顔をまっすぐ、そして瞳をまっすぐに見つめた。


義治よしはると言います。い、以後よろしくお願いします」


 カチコチと改まって言う先生は、どこか緊張したような様子だった。見てみると、耳も真っ赤だ。本当はこんなこと駄目だと思うけれど、少しかわいらしいと思ってしまった。


「えっあっ笑ってる」

「すみません、その名の通りの素敵なお人だと思ってしまって」


 かわいらしいと思って微笑んでしまったのは隠した。先生の名誉のために。それと、私だけの秘密にするためだ。


 でも名前が素敵だと思ったのは本当。本当に、その名の通りの人だ。


「……じゃあ、親に感謝しないとな」


 彼の手が、私の手から私の頬にそっと移される。


「清香さんの笑顔を見れたんだ。この名でよかった」


 私は自分の顔が熱くなっているのを感じた。は、はずかしいっ!


 目が合うと、それをして見せた義治さんも少し目を逸らし、照れていた。私はそれを見て、またかわいらしいと思ってしまい、微笑んでしまった。


 それからふたりの目が合って、ずっと笑ってしまった。傍から見たら変な人たちに見られたかもしれない。けれど、その時間は私にとって、とても幸せなもので、かけがえのないものだった。


 ああ、そうか。幸せになるために大切なもの。ふたつ目を見つけた。それは笑顔でいることだ。私の人生には、ずっとそれが欠けていた。メリッサや義治先生のおかげで取り戻せたこれを、私は生涯、大切にしたい。


 義治先生の温かい手を握りながら。私はそう思った。


         ***


 最近の私は朝四時に起きる。竜畜の世話があると、どうしてもこの時間になるのだ。正直に言えば、早起きは得意ではないのだけれど、それでも、竜獣たちとも仲良くなってきて──あくまで私視点──お世話自体は楽しいので頑張って起きている。


 高円寺に居た頃は、歯磨き粉なんて上等なものは使わせてもらえなかった。今になって思えば、平成になっても歯磨き粉を使っていなかったなんて虐待だったのかもしれないけれど、歯だけは綺麗にしておきたいと変な意地で、歯磨きだけは欠かさなかったので、そこだけは感謝できるのかもしれない。


 ともかく、歯磨き洗顔を終えると、次はメリッサの作ってくれた「前ごはん」を食べる。小さなサイズのおにぎりで、それは朝ごはんの前に働くための元気をくれるご飯なので「前ごはん」だ。


 メリッサは私より朝起きるのが早い。というのも、竜獣のなかの純血の龍種である紅竜だけは、人間と生活サイクルが違うからだ。例の鉄の家に住んでいる紅竜はオスのリアとメスのコレット、娘のライラの三体。皆穏やかな性格だけれど、ご飯が遅くなると暴れたり健康被害が出るので、注意が必要。


 竜獣化した竜豚を餌用に育てていて、定期的に義治先生が屠殺(とさつ)する。一度、見ないほうがいいと言われたのに、ちゃんと見ておきたいと無理を言った私は気分が悪くなって倒れたことがある。


 以来、紅竜の餌に関するお世話はしていない。でも代わりに、一緒に遊んでストレスを無くす担当は私がしている。


 ご飯はメリッサで、暇つぶしは私。そして、義治先生は紅竜の訓練を担当している。それが軍で飼育されている竜と竜医だ。真夜中まで仕事をしているので、先生は朝が弱い。


 けれどその日は珍しく、私がライラの鱗磨きをしていると、先生がやって来た。まだ五時なのに。気まぐれだよと笑った先生はライラを撫でていた。


「この子たちは、いつか戦争に出るのでしょうか」

「出ない──とは言えない。紅竜はそもそも人を殺めるために家畜化された稀有な竜だからね。今は竜災を収める要だけど、所属はあくまで帝国軍だから」


 そういいながらライラの逆鱗をそっと撫でる義治先生。竜獣たちに必ずある逆鱗に触れても暴れないのは、それは義治先生だからだ。むしろ義治先生が逆鱗に触れると彼女たちは喜ぶ。


「私のせいでライラも……」


 先生は自分よりも紅竜を大事にしている。そんな先生が私を救うためにライラを海軍に売った。その引き渡しの日が近いのだ。


「それは違うよ、清香さん」


 義治先生は、今度は私のあごの下にそっと手をやった。まるで竜獣の逆鱗に触れる時のような優しい手つきで。不思議と、落ち着く。


「この子たちに思い入れはある。けれど、本来彼らは戦闘竜種だ。こんな檻に閉じ込めておくべきじゃない。それにリアとコレットは昔海軍に居たんだ。身ごもってここにきて、ライラを産んだ。だからライラは外の世界を知らない。それを見せてやりたいという打算も、少しあったんだ」


 君を利用したみたいでごめん、とそう言われ私はううんと首を横に振った。


「その場の勢いだけじゃなくて、頭でも考えて結果私を助けてくれたのだと思うと、それは嬉しいです。打算でもなんでも、嬉しいです」


 それに、ライラが外の世界を知れる機会なら、それも嬉しかった。ヒトの子が勝手に思う押し付けかもしれないけれど、希望があるほうがいい。


 私みたいに、飛び立った先で、新しい居場所を見つけられるかもしれないから──。


 クルルルルル……。気持ちよさそうに喉を鳴らすライラに向けて、祈る。


「おーい。あっさごっはんやで~」


 ご機嫌なメリッサがやって来た。さあ、朝ごはんの時間だ。


「いこうか」

「はい、先生」


 今日の朝ごはんはなんだろう。昨日のシチューの残りかもしれないな。だったら嬉しい。だって、とても美味しいんだもの!


         ***


「なぁ、ジブンらってどこまでやったん?」


 ぱさっ。


 メリッサが唐突にそう言うので、私は持っていた洗濯物を落としてしまい、慌てて拾う。大丈夫、そんなに土はついていない。


「なぁなぁ。だってこの前ジブン、先生の部屋から出てきたやん」

「ちっ、違います! あの、それはほんとに違うんです!」


 ブロンドで雪のように白い肌の彼女は、欠けた歯を二ッと出して笑う。


「ホンマかぁ~? 別に夫婦なんやし何やっててもええやん」

「違います! お、おこしますよ!」

「何を起こすねん」

「噛んだだけです……怒りますよ」


 まだメリッサはにやにやしている。本当に違うのに!


「ほいじゃ昨日の夜何してたか言うてみいや」

「それはその……言えません」

「ははーん。隠さんでもええのに。あたしは子ども好きやし」

「気が早いです!!!」


 ケタケタ笑いながら彼女は去ってゆく。お夕飯の準備だ。私も洗濯ものを干し終わり次第お手伝いに行こう。


 私が先生のシャツのしわをパンパンと叩いてからハンガーにかけると、それをひょいと取って物干しにかけてくれる人がいた。


「君も大変だね」

「先生……」


 そこには眼帯をした、酷く美しい顔の男性が立っていた。義治先生は、一見近寄りがたいほど高貴な顔立ちをしているが、一度話せば、ただ動物や竜獣が好きなお医者さんだとわかる。


「僕としては、弟子と妻が仲良くしてくれているのはとても嬉しいよ」

「でも変な勘違いをされてしまっています……」

「ふむ。しかし夜な夜な僕の部屋に通っているのも事実」

「語弊を招きます! だってだってあれは──」


 私があたふたと言うと、背面から先生の片腕が私のお腹にまわされ、もう片方の腕で私の腕は封じられる。先生の淡い息が耳にかかって、動けない。


「それとも、本当に誤解をされるような事がしたいんですか?」

「……!」


 先生の腕は軍人様にしては細く、綺麗だ。けれど、使い方を心得ているのか、その力強さに勝てる気はしない。それに包まれてそんなことを言われたらなんて言えばいいかわからなくなる、それはとても、ずるい。


「したく、なくは、ないです」

「へぇ」


 その反応は、私の返事を面白がっているのに他ならない。


「じゃあ、する?」


 きゅうっと胸が反応し、膝から崩れそうになる。けれど、それよりも今は大事なことがある。


「だ、駄目です。私早く竜獣学を修めて、メリッサさんや先生のお役に立ちたいんです。ですからそれまでは……」

「はぁ……。君は本当にメリッサが大好きだね。でも、僕は嬉しいよ。覚えがいいから、今日で応用まで進めようか」

「はい!」


 そう、私は先生に夜な夜な竜獣学を教えてもらっていた。もちろん臨床での学びも大切だけれど、それ以上に基礎理論を学んでおくことは重要だ。先生は睡眠時間を削って教えてくれている、きっと国家資格も取って、二人の役に立ちたい。


 そう意気込んでいると、後ろからすっと抱きしめた先生がそのまま頭を撫でてくれた。


「……君を救ったのは確かに助けるべきだと思ったからだ。でもね、僕は君を可愛く、美しく、気高い女性だと思っている。魅力的で、素敵な人だと思っているんだ。憐みなんかじゃない。妻として、愛しているんだよ。それを忘れないでね」

「せ、先生もそういうことを思われるんですね」

「男だからね」


 そう言うと先生は私の首元に顔を埋めすっとかいだ。びっくりした。お仕事中だから汗臭いのに……。


「今はこれで我慢しておきます」


 去る先生。義治先生は意外とマニアックなのかしらと思い、私は仕事に戻る。竜獣学を修めて、ふたりに恩返しがちゃんと出来たら、その時はきっと。


 火照る身体は、きっと夏のせいだ。私は物干しを終えて、おうちに戻る。


         ***


 先生は紅竜の訓練をする時、目つきが変わる。形容しがたいけれど、どこか修羅を望むような厳しい目。眼帯をしているからそう見えるのだろうか。


 サンドイッチを持ってきたけれど、訓練を中断すると紅竜たちが調子を崩す恐れがあるので、私はサンドイッチを入れたカゴを持ったまま訓練場を見守っていた。


「昔は『灰被り』と呼ばれていた」


 その声は私を硬直させるのに十分で、私は身動き一つとれなくなった。その人は唐突に現れ、私の隣に立った。


 接待部隊に行かされそうになった時、そこに居た軍人様だった。


「そう身を固くするな。連行したりはしない。今日の目的は竜獣医尉だ」

「先生は……協力するのを嫌がっておられます……」

「それは立派な人道精神だな。だがこれは仕事だ。軍に入った以上、そこに暴力と狂気以外の何かがあるとは思わないほうがいい」

「でも先生はお医者様で──」

「妻なのに聞いていないのか?」

「え?」


 上背があるひげの軍人様は、少々驚いたような顔をした。


「まあ、無理もない。あれを自分の経歴と言うにはあまりに凄惨だ」

「なんの、お話ですか」

「十五年前。ベトナムを焦土にした紅竜使いがいる。その男は命令されてやったとはいえ、心に深い傷を負った。今では後衛で医者をやっている」

「まさか──」

「まさかも何もない。あいつだ。灰被りはな、俺らの世代じゃ英雄扱いだった。膠着した泥沼の戦争を、鬼神の如き殲滅で終戦に導いたんだからな」

「けれどそんな話一度も」

「百万の人間の遺灰を浴びたから灰被りなんて名がついた。言えるかよ」


 軍人様の言うことは正しい。そんな事、言えるはずがない。

 けれど私はそれが苦しかった。妻として、それを打ち明けてもらえれば、何か役に──立てたのだろうか。私なんかが、頼りない私なんかが何をできると言うの。


 自分だって、過去を晒しているわけじゃない。それなのに、身勝手なことを考えてしまう、こんな自分が嫌だ。


「おい、何してる」


 紅竜の首輪に鎖を結んだ先生が、軍人様に気付いて血相を変えて走ってきた。


「彼女に触れてみろ。どうなるか」

「いきなりご挨拶だな。別に人の女をどうこうしようなぞ思わん。俺が非人道をやるのは、それが仕事だからだ。俺を殺してもまた別のウジが湧くぞ」

「それでもお前は許さない」

「はは、情で仕事をやるなよポンコツ。まあいいや、これ。渡しておく」


 軍人様は義治先生に紙を手渡した。赤い色。令状──。


「コレットとお前の出撃命令だ。ドイツを焼けと上は言ってる」


 私はぞっとした。軍人様が言った命令についてではない。その命令を聞いた義治先生から放たれた、異様な光星術。発動したわけじゃない、光が漏出しているのだ。


 その光に反応して、第一竜医管轄の全竜獣が雄たけびを上げた。紅竜が咆哮している。鎖が千切れる程暴れ、軍人様と私は狼狽えた。


「……僕がやると思うのか」


 肌をチリチリと焼くような感覚が走る。


「俺は伝えに来ただけだ……。やらないならここも取り上げられて終いだぞ」


 命令を遂行するか、第一竜医管轄を奪われるかその二択くらい私にもわかる。


 私に何ができる、私には──。


「──っ」


 言葉は出なかった。だから、私は彼の手を握った。義治先生は驚いた。私だって驚いた。非術師が光星術に触れれば、そのエネルギー差で火傷する。今まさに私の皮膚表面に光が流れ込もうとして、私を焼いた。


 それでも、この手を離してはなるまいと思った。


 彼が灰被りと呼ばれていても、それでそれだけの傷を負っていたとしても、今私がそれを支えるべきパートナーであることは変わりない。


 私には何もない。何もないから、きっと受け入れる分の余裕くらいあるでしょう? そう自分に問うて、彼を抱きしめた。


「清香さん──」


 次第に、光星術は収まってゆく。焼けた皮膚が風に晒され酷く傷む。


「灰被り。俺は合理主義者だ。軍にいる限り心身を守るにはそれが得策だと思っている。お前も何が一番大事なのかをよく見極められるようにしておけよ」


 軍人様はそう言って、第一竜医管轄を去っていった。私はぼうっとその背を見ていたけれど、服や皮膚が焼けてしまい、意識が遠のいてゆく。


 最後に見たのは、義治先生の痛切な涙だった。


         ***


「え、あたしの手伝いの為に勉強しとってくれたん? むっちゃ嬉しい」


 お夕飯のカレーライスを食べながらメリッサはそう言った。けれど私が本題として話したのは、昼間の令状の事だった。


「まあそんな顔せんでも。辛気臭い話でカレーが不味くなるで」

「でも、なにかお役に立てないかと……」

「全身にガーゼして軟膏塗りたくってる奴がなに言うとんねん。アロエの植竜生えとってよかったわホンマ」


 あの後、またも倒れた私は、皮膚の回復を促進する光星術や、竜化した植物のアロエの力を借りて、なんとか大事を免れた。腕に火傷痕が残りそうと言われたけれど、私はそんな事今はどうだってよかった。


「清香ちゃんに傷残ったら、先生立ち直られへんで」

「今はそんな事どうだって──!」

「どうだってええわけあらへんやろがボケ。女の子が傷ついて、どうでもええわけ、ねえやろがッ!」


 酷く厳しい言葉だった。でも、大粒の涙を流してそう言うメリッサを見て、私は何も言えなくなった。メリッサはぼたぼたと落ちる涙をそのままに、カレーをかきこむ。彼女から、悔しさのような気持ちが伝わってきた。


「傷残ったらあたしが先生を許さん」

「……でも、あれは本当に私のせいなんです」

「ちゃう。力を制御できひん方が悪い」


 先生は今部屋に籠っていた。メリッサは泣く、食べる、怒ると忙しくしていて、とても本題に入れそうにはなかった。けれど、最後には彼女の方からぽつりぽつりと言葉を紡いでくれた。


「……戦争に関してはな、あたしらにはなんも出来ん。あたしらは軍人じゃない。人の命を背負う責任を持たへん。だから口出しなんか出来へん。したらあかん。でもな、だからこそジブンは正しいことをした。ただ傍にいてやる、それがお嫁ちゃんにできる、一番大事なことや」


 私はカレーライスを口に運ぶ、美味しい。それはそうだ、メリッサが丹精込めて作ってくれたんだもの。美味しいに決まってる。


 だから彼女の想いの籠った言葉を聞いて、想いの籠ったものを食べ、涙が出た。そう、私にできることは、きっとそばに居るだけだ。そしてそれが最も大事なことなんだ。


 ぱくぱくもぐもぐとカレーライスを食べると、洗い物はやっとくとメリッサが言ってくれた。私はこくり頷いて、廊下の突き当り、先生の部屋に向かう。


 扉を開けると暗い。ベッドに横になる先生の顔は見えない。一瞬迷ったけれど、そんな迷いは振り切って、私はそっと、彼の隣に腰掛けた。


「先生」


 彼は私を泥沼の中から救ってくれた。


 ──だから、今度は私の番だ。


         ***


 およそ一時間、どちらも言葉を交わすことはなかった。眠っていたわけではない。彼が震える様子を、背中で感じていたから。話し出すのを待とうと思っていた。彼はきっと、今心の整理をしているのだ。


 そして、彼が口を開いたのが直感でわかった。


「僕の昔の行いを、きっと知っている」


 それは、自罰的な言い方で、私に糾弾されると思っている彼が絞り出した切ない言葉だった。


「はい、聞きました。あの軍人様から、ベトナムでのことを」


 国の名前を聞いた時、彼が一層小さくなったような気がした。

 けれど、ここで甘やかすのが私の役目じゃない。ただ隣で話を聞くだけだ。そして彼の中に滞留する泥と毒を吐き出させ、泥濘からこちら側へ来てもらう。今できるのはそれだけだ。


「僕は大量殺人者だ」


 その事実を否定しない。彼が罪と向き合うのを否定しない。


「僕なんか、幸せを目指してはいけなかった」


 違う、そう言いかけた。でも、今は口をつぐむ。


「……僕なんか生きていていいはずがない。死に──」


 私は横になる彼に覆いかぶさって、唇を塞いだ。腕も手も軟膏だらけだ。だから唇しかなかった。

 私の初めての接吻は、口止めに使ってしまったけど、あまり後悔はない。死にたいなんてことだけは、言わせちゃ駄目だと知っているから。


 死にたいという言葉だけは、音にしてはいけないと、知っているから。


 ふはっ。唇を離すと、驚いた顔の彼が居た。


「言ってもいいことと、悪いことがあります。それだけです」

「君は僕を責めないのか」

「罪を責める立場にはありませんし、妻ですから。私が敵でどうするんですか」

「でも正義を考えれば──」


 そう言う、心根の優しい彼に、私は謝らねばならない


「ごめんなさい。私はそこまで善良ではありません。私にとっては、人から聞いた罪よりも、私を救ってくれた事実の方が大切なのです。それが倫理的でないとわかってはいても、私は、私を助けてくれたあなたの方が大事です」


 その言葉が、また彼に自分を責めさせてしまうかもしれないと思った。だけれど、言葉にするならば、ここしかないと私は思ったのだ。


 それが私の決意であり、覚悟だ。


「君は、強いんだな」


 そう言った彼の言葉には、もう裏腹のニュアンスは込められていなかった。

 彼は上体を起こして私のおでこにおでこをつけた。


「僕も覚悟を決める。軍人として、人間として。答えを出すよ」


 その強さを、私は真摯で、正しいと思った。


「一番に君の心配をしなくて、ごめん」

「良いんです。処置が早くて、もう痛みもないですし」

「……君に傷が残ったらどうしよう」

「じゃあ、責任を取ってください」


 そう呟いてみると、顔が間近にある彼は、目を開いて驚いていた。けれど、私の言葉は別に冗談なんかではないのだ。本気だ。


「大体、私は妻です。責任の所在はあなたに──」


 その言葉は、唇で止められた。身体の火傷はもうほとんど痛くない。彼の口から伝わる熱の方が、よほど熱い。


「責任、とるよ」


 最後の言葉のあと、私はそっとベッドに横たえられた。間近にある顔は優しくて、どこか決断したような顔で、私は安心して目を閉じた。優しく唇を唇が食む。唾液と熱が交換されて、腕と衣服は混ざり合った。今この瞬間だけはずっと続いてほしくて、そんなわがままな自分が恥ずかしくて。耳が赤くなったのは彼の吐息のせいだと、私は自分に言い聞かせた。彼が囁く声はいつもと変わらないのに、いつもより温かいのは、やっぱり、夏のせいなのだと思った。


         ***


 義治さんは戦争に行くことを決め、やるなら早いほうがいいと翌朝には出て行った。初めてですっかり疲れてしまった私は、生まれたままの姿で義治さんのベッドで寝ていたので、起こしに来たメリッサにさんざんいじられた。とっても恥ずかしかったけれど、それより身体に傷がほとんどないことをメリッサは喜んでくれた。


 彼がドイツに行くという決断をしたのを、私はあまり否定的にはとらえていなかった。きっと、彼なら壊すでも逃げるでもない、別な道を見つけると思っていたから。私の時のように、救う道を見つけるだろうと思ったから。


 あの日から数か月が経った。私は彼の子を身ごもった。メリッサは我がことのように喜んでくれて、私は彼女に、子どもの名付け親になって欲しいなと思った。けれどまだその報告を義治さんには送っていない。彼は今も戦っている。


 数週後、第一竜医管轄に上背のあるひげの軍人様がやって来た。その人のことは変わらず苦手だったけれど、義治さんの情報を持ってきてくれた。


「俺はあいつのことをもう灰被りとは呼ばないことにした」

「気分の変化ですか?」

「違う。アレはやっぱりバケモノだ。たった一人で、いや、ひとりと一体でドイツの独裁政権、軍部を無力化した。しかも無血で……」

「そんなのどうやって──」

「紅竜技術の一般公開を約束したらしい」

「はぁ!? 大日本帝国の最終兵器やぞ!!」

「軍人としてはため息が出る。だが市民としては、喜ぶしかない。もうじき戦争のない世の中が来る」

「ふふ、あの人らしいですね」

「ま、全世界が紅竜を持てば、今度は別な形の戦争があるかもしれんが……。それを無くすのは、俺の仕事だ」

「……あら、大変ですね。あっ、そういえば、接待部隊の解散作業、お疲れ様です。陸将様」


 上背のあるひげの軍人様はいつの間にか陸軍大将になっていた。この人のことが苦手なのは相変わらずだけれど、接待部隊を解散させ、その後の女性たちの職探しもしていたという所は、この人を大きく見直すきっかけになった。


「殲滅しか知らなかった紅竜使いが宥和を模索し始めたんだ。もう我々も変わる時期だろうと思ってな」


 私に毛布を掛けてくれたメリッサはからっと笑った。


「先生をそうさせたんはこの子や。むっちゃすごいやろ」


 自慢げなのがおかしくて私は微笑んだ。

 陸将様はあまり笑わないけど、頬の端が上がった。


「生まれたら呼べ。祝いを持ってくる」


 そう言って陸将様は去っていった。無愛想なやっちゃなーとメリッサは言っていたが、あの人も変わろうとしているのだろう。そして時代も変わりつつある。季節も、もうすぐ冬になる。


「……」


 次の夏が来るまでに、義治さんにまた触れたいな。


 ふとそんなことを考えてから、ライラの夕方の世話をするため、私はメリッサと一緒にお家へと戻っていった。


         ***


 お墓の前にはいつも栗饅頭を置いておく。


 これが、墓泥棒さんに盗られてしまうのは知っているけれど、饅頭の魂のようなものがあちらの国へ届けばいいなと、お供えしている。


 もうすぐ春になりますよ。


 狂い咲きの桜が綺麗に舞っている。ちょっと気が早いなとは思いつつ、一緒に桜を見られることを嬉しく思う。


 死というものに向き合うことは、自分にとってそう辛い事ではない。いずれ自分に訪れるものだと割り切っているわけではなく、もう既に、覚悟をしたことがあったからだ。


 けれど、その時選んだのは生きる道だった。だからこそ、死と向き合い続けることが、戒めになると思った。


 手を合わせ、無事に子が産まれたことを報告し、きっと見守ってくれたであろうことにお礼する。


 息子はよく乳を吸い、良く泣く、元気を表したような子だった。名前は、親の名からそれぞれ持ってきて、「遥香」と名付けた。これは、名付け親のメリッサが「絶対これだ」と言って決めたもので、私も好きな名前だ。


「さんざ聞くようで悪いねんけどさ、親が子にやれる贈り物って先生はよく言ってたやん。ホンマにあたしでよかったん?」

「うん。メリッサも、お母さんみたいなものだし。それに、ちゃんと理由があるよ。私は覚悟を決めたの」

「覚悟?」

「この子に、名前よりも多くの幸せを授けてあげるって覚悟」


 メリッサは「ほぉ」と言った。


「なるほどな。ジブン病弱やけど、ぽっくりは逝かれへんな」


 お墓参りをする前、メリッサはそう言って笑い、欠けた歯を見せて笑った。


 桜舞う中で、お墓と静かな時間を過ごしていると、遥香がぐずり出す。この時間、彼は暴れたい時間なのだ。お腹に抱いた温かくて小さな猛獣をあやしながら、またお墓に一礼する。


 ──また来ます。


 少し名残惜しく去ろうとすると、その道行きを誰かが塞いだ。ぶつかると思った瞬間、私はふわりと抱きしめられる。


 細い身体、けれどしなやかで、少し猫背。眼帯をした──。


「清香。ただいま」

「義治、さん」


 私は驚いた。お母さんのお墓参りに行くことはメリッサにしか……。そうか、メリッサに聞いたんだ。


「ドイツで民間への研修が終わって、国連発足会議もあって、君から離されてばかりで。気がおかしくなる前に、無理を言って会いに来た」


 久しぶりの彼は違う香りがした。けれど、紅竜とずっと一緒に居る匂いだけは奥底にある。それが鼻腔をくすぐった。安心する香りだ。


「遥香。やっと会えた。ふふ、写真よりもハンサムだな」

「義治さんに似ましたね」

「目元は君のように優しいな」


 我が子をふたりで包むと、笑みがこぼれた。あのやんちゃな遥香も、不思議とぐずらない。と思いきや、義治さんは頬をつんと触ると、やんやと泣いた。


「……この子にもっと時間を割いてやりたいのにな」

「遥香のことを誰より想っているのはあなたでしょう? 妬けるほどです」

「参ったな、二人のことを同じだけ無限に愛しているというのに!」


 そう言って、またきゅっと抱きしめて、遥香の額と私の唇にそれぞれキスをした義治さんだった。


「もう少しゆっくりしていこう。これまでに、君がどれだけ幸せになったのかを、天国のお母さまに報告しなければいけない」

「あなたを見て、私もまだまだ足りないと思っていたところです」


 ふふっと笑うと、呼応するように遥香も笑った。笑顔はどっちに似てるかな。あとでメリッサに聞いてみよう。もう少ししたらライラも帰ってくるから、紅竜にも触らせてあげよう。きっと義治さんに似て、竜獣大好きになるだろうな。義治さんに、報告したいことも沢山あるし、ただお話したいことも沢山ある。でも、それよりも、今はただ触れていたい。


 そっと彼に手を伸ばし、手をつなぐ。


 熱を交換して、幸せを交換する。遥香も「んにっ」と笑った気がした。


 この時間が無限に続いてほしいとまでは望みません。けれど、きっとこの子が次の幸せを見つけるまで、どうかそれが続きますようにと、私は他の誰でもない自分に向けて、そう静かに祈ってみるのだった。


         ***


「んで、三つめは結局なんなの?」


 母さんはいつも父さんとの馴れ初めの話をするくせに、「幸せになるための方法」の三つ目を教えてくれない。


「遥香。それはね、きっと自分で見つけられるよ」


 少しシワが出てきたけど、健康で朗らかな顔をして微笑む母さん。


 十五にもなって、そんな小さなことを気にするのは変な気もするけど、幼いころから、それだけがずっと気がかりだった。


 俺はつまらなく思い、家を出て竜獣小屋へと向かう。そこに紅竜のライラはいた。


 日本が帝国主義を廃止して数年、竜獣はただの保護動物となった。上野の動物園に送られた親竜たちは幸せそうに暮らしているらしい。テレビでよく様子が映される。


 でも残されたライラは、新しく発足した「自衛隊」が管理しており、寂しそうにしている。親がいない子がどんな気持ちなのかは痛いほどわかる。


 旧日本軍の第一竜医管轄は解散となったものの、竜災課として竜獣が原因となる災害を防ぐための別な組織になった。その敷地で俺たちは暮らしている。


 俺はライラの逆鱗に触り、汚れを拭いてやった。逆鱗は危ないから絶対に触るなと教えられて育ったが、別に触れるし、汚れているのが可哀想だ。


 逆鱗は、本当は親竜が舐めて汚れを取ってやるのが自然だ。でもこの子には親竜がもう居ない。掃除してやれるのは俺だけだ。


「ひとりは……寂しいよな」


 親父は俺が五才の時からずっとベトナムに居る。貧しい村の技術支援で駐在しているらしい。手紙は寄越すが、帰っては来ない。それを「償い」だと言いながら、頭を撫でられたのが、親父の最後の記憶だった。


 母さんが風邪をこじらせた時だって帰っては来なかった。メリッサおばさんは訳知り顔でごまかすし。


「馬鹿親父」


 だから、帰ってこない親父を待ち続ける母さんが、それでもいつも幸せそうにしているのが不思議だった。


 本当は幸せなんかじゃないから、「幸せなるための方法」の三つ目を答えられないんだろと思うときもある。でも、その予想が当たっているようには思えなかった。


 母さんは寂しそうにすることはあるが、不幸面は決してしない。


「わけわかんねぇよ……」


 ルルルルルル……。


「うわっ、ごめんライラ、考え事してた。悪かったよ」


 喉を鳴らして怒った様子を見せるライラ。紅竜の世話をしてる時に考え事なんてよくなかった。


「あー、またライラの機嫌損ねてるやん!」


 かちん。


 後ろから声をかけてきたのは明日菜(あすな)。関西生まれでもないくせに関西弁で話す変なやつ。


「ここには入るなって言われただろ」

「ええやん別に。遥香がおるから怖くなんかないで」


 母親譲りの美しいブロンドと鼻のあたりに散らしたそばかす。歯抜けの顔で二ッと笑って見せる。ったく……。


「別にいいけど、暴れんなよ」

「暴れへんもん。あほ」


 けっ。かわいくない奴。


「──なんでこんなやつ好きになっちゃったのか」

「今なんかゆーた??」

「なんも言ってない」

「ゆった! 絶対ゆーたもん! なんなん、教えてや!」

「こら暴れるなってば!」


 ケタケタと笑う向日葵のような彼女。それを優しい瞳で見守る紅い竜。


 幸せの形が、一体どんなものなのかは、まだ俺にはわからない。


 でも、それが決して遠くない所にある。それだけは何となくわかった。


「あ、まーた考え事しとる」

「はいはい。俺が悪いですよ」

「いま適当にあしらったな? ふん。もうお嫁に行ってやらん」

「来るつもりだったのかよ」

「嫌なん?」

「嫌じゃ、なくは、ないけど」


 俺はそっぽを向いてライラの大きな翼を磨き始める。そう、俺にはそういうことに現を抜かしている暇なんてない。


 年明け、竜医の国試がある。竜医は人気の仕事で倍率も高く、試験は簡単じゃない。でも必ず取る。


 帰ってこない馬鹿親父の代わりに、竜獣たちやライラを寂しくさせない為に、そして母さんを幸せにするために──。


「あれ?」


 ふと何かが腑に落ちた気がした。


「どうしたん?」


 そうか。


「幸せっていうのは──」


 なるものじゃない。誰かから受け取るものなのかもしれない。


「ん? どうしたん?」


 顔を覗き込んでくるブロンドの少女の鼻に触れて、泡をつける。


「んもー! なにすんねん!」


 そして、自分が彼女を見て、心の底から笑っていることに気付く


 ああ、そっか。三つめはそういうことだったんだな。


 小さな反抗期の果てに見つけたのは、この先ずっと大切にしてゆく「答え」だった。


 それを抱えて歩いてゆこう。大切な人に触れて、幸せを渡しながら。


 一歩ずつ、この世界を、歩いてゆこう──。


 美しい翼の紅い竜が、ゆっくりとまぶたを閉じて、眠った。

貴重なお時間を割いてお読みいただき誠にありがとうございます。


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