昔の呼び方が
「迷惑かけちゃってごめんね」
すこし落ち込んだ様子で、佐山は向かいの席でちびちびカフェラテを飲んでいる。
あれから保健教諭が帰ってきたので任せ、昼休みに覗きに行ってみると、すっかり顔色もましになっていた。だが、一応帰りまで休んでいるのが良いという保健教諭の言葉で放課後になってから佐山を連れ出したというわけだ。
「別に迷惑なんかじゃねーって」
斗真が若干ムスッとしながら答える。さっきから佐山は謝罪の言葉ばかりで、なんだか調子が狂う。斗真も最初こそはにこやかに答えていたが、いい加減苛立ってきたようだ。
「佐山。別に俺たちは迷惑だな、だなんて思って助けたわけじゃないぞ。謝られるよりも、感謝してくれたほうが嬉しい」
最初こそ俺はこのカップルに任せようと思っていたが、このままじゃ埒が明かないな、と、口を挟む。
それを聞いた佐山はすこし嬉しそうな顔をして、「ありがとう」と呟いた。
「そう。俺たちはその言葉が聞きたかったんだ!」
斗真はさっきまでのムスッとした表情をぱっと明るくして、ニコニコしながらそう言った。その表情の変化に佐山はすこしあっけにとられたような顔になった後、恥ずかしそうに、「ありがとう」と、もう一度言った。その態度は、すこし、「凜花ちゃん」と呼んでいた頃の面影を感じる。
「そうだ。凜花って、俺たちが運んでいたときのこと覚えてるか?」
「うん。一応覚えてるよ。二人が懐かしいなんていうから、私も懐かしくなっちゃった」
すこし懐かしむように佐山は目を細めた。
高校生になって、多少関係性は変わっている。……まあ、俺が一方的に、って感じだけれども。久しぶりにあの雰囲気の中で二人と話して、少し居心地がいいと思ったのも確か。
しかし、あの懐かしさはなんだか中学の頃どころか、もっと遠慮がなかった小学生のときのことを思い出すほどだった。
あの頃はなんのしがらみもなかったし……いや、今もないのだが。まあ、なんとなくというやつだ。皆が女子と距離を取っていたので、俺もほんの少し距離を取っただけ。
しかし、今日のあれは、その距離がまたなくなったような気がした。そして、その状態を俺が少し嬉しく感じたのだ。
「そういえばさ、あの頃は昼みたいに凜花ちゃんって呼んでただろ? 何で名字呼びになったんだ?」
「それ私も気になってたかも。いつの間にかそうなってたんだよね」
二人は気になるから早く言えというような表情でこっちを見てくる。ええ……コレ、言わないといけないのか?
俺は白状するように、自分でもうまくわかっていないのをなんとか口に出した。
「ふーん……それ、謎だね」
「ああ。謎だな」
それが何で名字呼びに繋がったのか意味不明と言わんばかりの目線で俺を見つめ続ける二人。
まあ、わかる。自分でも何であの時しょうもない距離のとり方をしたのだろう。思えば、遊ぶ頻度も、話す頻度も、全くと言っていいほど変わっていなかった。
本当に皆を追従するなら、遊ばないとか、話さないくらいしないといけなかったんじゃないか?と思いつつ。
「まあ、本当にひとつ理由があるとするなら、ひまり、かな?」
そう言葉を零すと、二人は驚いたような顔を見せた。
「え? そこでひまりちゃん?」
「なんか、意外な名前が出てきてびっくりしたんだが……」
うーん、と二人は心当たりを探しているようだが、それは思いつくはずがないと思う。あまりその頃のひまりにあったことがないはずだから。
「二人はあの頃のひまりにあったことあったっけ」
「多分ないね」
佐山の答えに同意するように斗真もうなずいている。それもそうか。俺たちは基本家じゃなくて外で遊んでいたし、中学からはそこそこ交流するようになったが、小学のときはあまり俺の教室にひまりが来たりとかもなかったしな。
「まあ……今よりもひまりがべったりだった時期でな……」
「今よりも!? ええ……」
斗真がドン引きするような声を上げる。「今ですら付き合っているはずの俺達よりいちゃついてやがるくせに、これよりやばかったのか……」と戦慄している。
「何でか他の女の子の話をしてると拗ねられたんだ。特に佐山の話をしているときは」
「へえ。私に嫉妬してたんだね」
「というわけで、それまでの『凜花ちゃん』から『佐山』になったってこともあるかも。そういうのもあって、周囲の男が女子と距離を取りなおす機会に絶好のチャンスだと思ったのかもな」
そこまで話すと、斗真が何かを思いついたように俺の方を見て口を開く。
「じゃあさ、今は別に佐山なんて他人行儀な言い方をする意味はないんだよな」
「あー……多分、流石に今は変な嫉妬とかはしないと思う」
「じゃあ、折角の機会だし、呼び方、戻しちまおうぜ」
「凜花もいいだろ?」と、斗真が確認をとる。もちろんそれに首肯で返した佐山は、「私もそっちのほうが嬉しいかも」と微笑んだ。
「あ、それなら、私も和人くんって言ったほうがいいかな?」
「それは良いだろ。くん付けは今の凜花に似合ってないぞ」
「そうだな。俺的にももう呼び捨てのほうが慣れたし」
「そう?」と言った佐山は一口カフェラテをくちに含んだあと、にやっとした顔で見つめてきた。
「じゃ、和人は私を呼んでみてよ」
「そうだな!」
二人してからかうような笑みでこっちをただ見てくる。
くそ、何でただ昔の呼び方に戻すだけなのにこんなに恥ずかしいんだ。……でも、このままだと埒が明かない。それに、こういう機会がなかったら、ずっとなんとなくで若干距離を感じる呼び方のままかもしれない。それはなんとなく嫌だ。
「凜花ちゃん。……これでいいか?」
「うん! よし! いやあ、やっぱこの呼び方されると懐かしいよね!」
「そうだなあ。小学以来か? こういったのは」
そこから、斗真は小学のときにやった遊びの話を始める。それに凜花ちゃんが反応し、俺もツッコんだり反応したり。ときには話題を出したり。
呼び方一つのはずなのに、本当に昔に戻ったような、不思議な感覚だった。