8◆Bradley
しっかりしていると思っていたルーシャは、その実よくわからない娘だった。
生まれてからずっとこの古い家に馴染んでいて、年頃になってもなんの危機感も持たないままになっていたらしい。
この付近は人が通りかからないといって安心しているのだろうが、逆に言うと簡単に助けを呼びに行けないということだ。
ブラッドはその晩、ルーシャが風呂に入っている間、神経を研ぎ澄ませてルーシャが立てる音以外の物音はないか窓辺で警戒していた。鳥が鳴く声や羽音が少ししただけで、人間の立てる音はしなかった。
なんとなく、若い娘の入浴の番をしているというシチュエーションに対する気まずさはある。ミリアムが知ったら何を言われるだろうか。考えたくはない。
――その前に、今度ミリアムに会えるのはいつのことだろう。
ルーシャは早寝早起きだった。
階段をそっと降りてくる微かな足音でブラッドは目覚めた。まだ薄暗い早朝、ルーシャが朝の支度を整える物音をベッドの上で聞いていた。
ミリアムは朝がとても弱く、いつまでも寝ぼけていて、起きていると見せかけつつも昼を回るまではぼんやりとしていることが多い。そういう時に段を踏み外したりしないように気をつけるのもブラッドの役目だった。
トトトト、と小気味良い音が聞こえる。何かを刻んでいる音だ。朝から何を作っているのだろう。
ルーシャは祖母に育てられたせいか、年頃の娘とは思えないところがある。
昨日、ブラッドも問題の風呂に入ってみたら、石鹸が――小さくなった石鹸をいくつかくっつけて塊にしてあった。
小さくなって使いにくいからといって捨てないらしい。確かにいくつかくっつければ大きくはなるが、すごい形だった。
年寄りは物を粗末にするなとよく言う。その精神にルーシャはどっぷり浸かっている。
悪いことではないはずだが、色々と突っ込みたくもなるのだった。
こんな庶民的な感覚で公爵の孫とか、大丈夫だろうかと。
ブラッドも服を着替えて廊下に出た。バターの匂いがすると腹が減ってくる。昨日は大して体を動かしていないのに。
そうっとキッチンを覗くと、朝陽が差し始めた中でルーシャが振り返った。
「おはよう」
今日はほんの少し柔らかくなった。風呂を覗かなかったので信用してもらえたのだろうか。
「おはよう」
ブラッドもなんとなく笑って返すと、ルーシャはまたテーブルいっぱいに並べた朝食を振舞ってくれた。
「朝はしっかり食べないとね」
チーズリゾット、ポーチドエッグの載ったサラダとベイクドポテト。デザートにオレンジを切り分けてある。オレンジは冷やしてあった。
氷の精霊の力が籠った氷は基本的に溶けない。氷冷箱に入れて家庭で保管しておけば夏でも食材は冷たいままだ。
それにしても、ルーシャは石鹸をケチるのに食事は削りたくないらしい。
「食べたら仕事に行くのか?」
「そうよ。帰りは夕方五つの鐘が鳴ったら。昼食はそこの棚に用意してあるから食べてね」
「俺の?」
「だって、どうせ私のお昼も作って持っていくんだから、手間はそんなに変わらないし」
朝食を作っているのだと思ったら、昼食まで同時に出来上がっている。やっぱり素晴らしく手際がいい。
昼食のことなんて何も考えていなかったブラッドだったが、ルーシャはそこまで気を遣ってくれたらしい。
「ありがとう」
素直に礼を言うと、ルーシャは少し照れたようだった。
なるほど、ルーシャにはこういう反応がいいらしい。ブラッドはひとつ学んだ。
「送っていく」
護衛に雇われたのだから当然だと、ブラッドもルーシャの後に続いた。
そのはずが、ルーシャは玄関先で難しい顔をした。
「明るいからいい。帰りだけ迎えに来てくれたら十分」
「……いや、明るくても変質者は幽霊じゃないんだから出るだろ」
「人通りがあるもの。いざとなったら叫ぶし」
「叫ばなくていいようについていくって言ってるんだ。でも、家の鍵を持ってるのはあんたなんだから、あんたがいないと俺も出入りできないんだよな」
すると、ルーシャは急にしゃがみ、玄関の横にあった小さな植木鉢をひとつ持ち上げた。
「この下に予備の鍵があるから」
「…………」
防犯意識が低いと昨日指摘したばかりなのに。
「じゃあ、予備の鍵は俺が預かる」
「えっ? いいけど……。あ、でも、私が鍵を落としたら困るか」
「落とすな。絶対に、落とすな」
ルーシャに言い聞かせるように低く言うと、ルーシャはうろたえた。
「お、落としたくて落とさないし」
「今までに鍵をなくしたことは?」
「ないわよ?」
それを聞いてほっとした。合鍵を持っている人間はいないと思いたい。
「と、とにかく。朝は送らなくていいから! いってきます!」
グリーンのスカートを翻し、ルーシャはブラッドから逃れるようにして木々に囲まれた道を小走りに行く。ブラッドは、この予備の鍵を使って施錠するとこっそりルーシャの後をつけたのだった。
ルーシャは何度か振り返った。しかし、ブラッドは木の陰に隠れてやり過ごした。
この場合、どちらがストーカーだろうか。通報されたくはない。
ルーシャはブラッドがついてきていないと確信したのか、歩調を通常に戻した。ルーシャも何人かの知り合いにすれ違い、そのつど挨拶を交わしていた。
「ルーシャ――!」
甲高い子供の声がルーシャを呼ぶ。見れば六歳くらいの男の子が二人、前からルーシャに駆け寄ってきた。子供だから害はないだろうと思ったが、その子供が手にしているものにブラッドは顔をひきつらせた。
でかいカエルだった。眠たそうな顔をした黄緑色のカエルを、男の子は両手で捕まえて持っているのだ。
ルーシャの悲鳴が朝から響き渡ると思ったのだが、そんなこともなかった。
「あら、おはよう。セス、テディ、おっきなカエルねぇ」
そう言ってしゃがみ、カエルに目線を合わせた。カエルと目を合わせてやる義理はないと思うのだが――大体、顔面に飛びつかれたらどうするのだ。
変なところにハラハラしていたのはブラッドだけだったのかもしれない。
「さっきそこの小川で捕まえたんだ!」
「そうなの? すごいわねぇ。でも、子供だけで川遊びは駄目よ。気をつけてね」
「大丈夫だよ、兄ちゃんもいたし!」
「そっか。でも、もうちょっとしたら川に帰してあげようね」
「うん。ルーシャに見せたかっただけ。おれたち、いじめたりしないよ」
「えらいえらい。見せてくれてありがとう」
子供たちは褒められて嬉しそうにまた走っていった。
ルーシャは平然とまた歩き出す。
「…………」
ミリアムだったら、あんなでかいカエルを突きつけられたらまず悲鳴を上げる。そして、泣きながら抱きついてきて助けを求める。
これはミリアムが変わっているのか。変わっているのはルーシャの方なのか。
どちらが一般的な女性の反応なのだろう。
ブラッドにはよくわからなくなったのだった。