45✣Forster
「――二人はどこへ行くのかしらね?」
エレインが侍女のように紅茶を運んできた。ロトはそんな妻を眺める。
美しくて嫋やかで賢い、非の打ちどころのない妻である。
「少なくとも、あたしたちが来ないところね」
自嘲気味にレーンは言い、エレインが淹れた紅茶を受け取った。
あれから、見た目こそ奇抜ではなくなったが、相変わらず道化じみた物言いをする弟だ。表面上は普通に構えていても内心では堪えているのは知っている。
そして、そうなることも覚悟していたはずだった。
「当座困らないだけのお金は入れておいたけれど、多分あの子は意地で手をつけないでしょうね」
「ルーシャはやりくり上手だから、どうにかできそうよ」
家庭的な娘だと言っていた。それなら心配は要らないのかもしれない。
「本当にこれでよかったのか?」
思わずロトは妻に問いかけていた。
いつでも弟のブラッドを案じているのはわかっている。
その大事な弟が出て行ったのだから、平気なはずはない。それでも、エレインは微笑んでいた。
「心臓が一度止まったと聞いた時には後悔もしたけれど、結果としてはこれでよかったのだと思っているわ」
「ルーシャに白羽の矢を立てて、誰を護衛に送り込むかって話し合った時、ブラッドを推してくれたのは義姉さんだものね。もちろん、適任だと決めたのはあたしで、すべての責任はあたしにあるけど」
ため息交じりにレーンが言った。
「あなたが、誰よりもルーシャさんを優先し、愛することになる男性が望ましいと言ったから。私はブラッドにそうなってほしかったの」
「ミリアムよりも?」
ロトが唸るような声を上げると、エレインは苦笑した。
「ブラッドは昔から、目の前にあるもので満足してしまう子だったわ。新しいおもちゃは欲しがらなかったし、父が騎士だったから騎士になる、幼馴染だからミリアムを好きになるって。あのまま人生を終えるのでは勿体ないでしょう?」
そんなブラッドが次第にルーシャに惹かれていく過程は、ロトも意外に思うほどだった。それはレーンの筋書き通りに。
「ルーシャは気立てのいい優しい子で、あたしも大好きだったわ。そんな子をひどく傷つけて、それでもナタリーのことはどうしても隠さなくちゃいけなかった。あたしがこんなことを言えたものじゃないけど、ブラッドがいてくれて本当に救われたの。初めて二人が顔を合わせた時に確信したわ。ブラッドは絶対にルーシャを好きになるって」
レーンのナタリー――いや、アイザックへの思い入れはロトの比ではない。知っているからこそもどかしい時もある。
結局、リスター公爵の孫娘を狙っていたのは、フェネリー子爵ではなかった。公爵の政敵であるジェファーソン侯爵が情報を手に入れ、利用価値があるとして捕えようとしたらしい。
フェネリー子爵は先を越されただけかもしれないが。
あの刺客は最初、フェネリー子爵の名を騙って捜査を攪乱した。結局、精霊の力を借りて催眠術で自白させたのだが、散々に手間取らせてくれたから腹立たしい。
そこでエレインがそっと訊ねる。
「ナタリー様はどうなさっておいでなの?」
「公爵のそばで緊張した毎日ね。儀式も終えて、精霊と契約をしたの。花の精霊なんて、ナタリーらしくて。……そうね、以前よりもずっと強くなったわ。ルーシャを囮にしたことに対してあたしに声を荒らげて抗議した、あんなナタリーは初めてだったもの。あたし、あの子を護りたいってそればかりで、実際は見くびっていたのね」
初め、公爵はナタリーを受け入れることを渋った。あまりにも怯えて口も利けないような娘だったからだ。
それを情けないと厭ったわけではない。それほどに大人しい子ならば、貴族たちと腹の探り合いの社交は苦痛でしかなく、いつか食い殺されてしまうという懸念からだったように思う。
公爵は、出奔した息子が一度だけ自分に会いに来た時、話などないと言って突っぱねた。
そして、その日、息子のアイザック・リスターは落馬による不慮の事故によって命を落とすという悲劇に見舞われてしまったのだ。アイザックの亡骸は妻子のもとへは戻れず、公爵家へと運ばれ、埋葬された。
アイザックの妻子はそれでも名乗り出なかった。彼の妻は娘を取り上げられることを恐れたのだ。
「アイザックのためとはいえ、我々がしたことは人として許されるとは思わない」
アイザックはロトとレーンにとってかけがえのない友人であった。
公爵家と男爵家、身分は雲泥の差だというのに、アイザックはそんなことを一度も気にしたことがない人間だった。
無垢で公明正大そのままの、大事な友人。
特にレーンは、幼い頃は今よりももっと線が細く、貴族学校時代は典型的ないじめられっ子だった。貴族社会では男爵位など底辺で、身分などあってないようなもの。いじめは苛烈で、幼いレーンは食事も喉を通らないほど衰弱した。
ロトは体格がよく、剣術では負け知らずだったから標的にされにくかったのだ。
レーンの異変に気づいてくれたのがアイザックだった。あの心優しい友人がレーンを救い、護ってくれた。レーンは誰に劣ることもないと自信をつけさせてくれた。
そんなアイザックが庶民の娘と恋に落ちて出奔を決意したというのだから、ロトもレーンもとにかく戸惑いしかなかった。二人には行き先を教えてくれて、一度王都に戻ってきた時も公爵に会うよりも先に顔を見せてくれたのだ。
『娘が生まれたよ。ナタリーっていってね、どっちに似ているかな? とにかく可愛い子だよ。陳腐なことを言うけれど、本当に僕の宝物なんだ。ナタリーが生まれて、僕は自分の両親がどんな気持ちでいたのか考えるようになった。そうしたら……勝手かもしれないけど、無性に会いたくなってしまって』
公爵は追い返したというが、本当はそんな態度を取りたかったわけではないはずだ。いなくなって悲しかった分だけ感情の整理がつかなかったのだろう。
それなのに、アイザックは死んでしまった。現実はいつでもひどい、取り返しのつかない悪戯をする。
ロトとレーンはアイザックの妻子を訪うと、援助を申し出た。大人しい夫人はそれを受けつつも、自分も可能な限り働いた。その後も誰とも結婚はしなかった。もともと結婚の許しが得られず、ナタリーは婚外子であったが。
ナタリーのことは一年前にその母親が亡くなり、レーンが自分の店に引き込んだ。
恩人でもあり、憧れの象徴のようなアイザックの役に立てるのなら、レーンが失って困るものなどない。
それでも、ルーシャに対して罪悪感を覚えなかったわけではない。それを言うのは勝手だから、何があっても言わないだろうけれど。
「そうよ。あたしたちの事情にルーシャは関わりないもの。ルーシャが許してもブラッドが許してくれないわ。それから、アイザックも怒ったでしょうね」
自虐的な物言いをする。レーンもまた一生傷を負って生きるしかないらしい。
「ルーシャにあんな力が眠っていたなんて、まさに天罰だ」
「ジャックが言ったことが本当ならね……って、本当なんでしょうねぇ。あの子も優秀だし、魔術師団に推薦してもいいと思うんだけど、いい思い出がないから結構だって断るのよ。惜しい人材だから、もうちょっとしつこくしてみるけど」
レーンが館を去ると、エレインが自分の眉間をトントンと叩いた。
「怖いお顔」
「う……」
意識して表情を和らげたロトに、エレインはふわりと笑った。
「あなた方がくよくよしたところで、動き出したものは元に戻らないのよ」
「そう、だな」
最愛の妻を抱き寄せる。
ブラッドはいつでも、何故ロトが淑やかなエレインの一挙手一投足に過敏に反応するのか不思議そうだった。
けれど、今では同じ思いをしているのではないだろうか。
その人のことが好きすぎて、嫌われたくない、捨てられたくないと女々しいことを考えてしまうせいだと。
「ミリアムは、逃がした魚は大きいと思っているかな?」
すると、エレインは腕の中で首をかしげた。
「どうかしら? 仮に思ったとしても認めないでしょうし。でも彼女にも彼女に合った男性がいるはずよ」
「そうか。そうだといいな」
きっとブラッドは、昔を懐かしみはしないのだろう。
今が幸せすぎて。
【 The end 】
*おまけ〈逃避行中の二人〉
「こういうの、駆け落ちって言うのかな」
「……そうかも」
「駆け落ち」
「恥ずかしいから何回も言わないの」
「駆け落ちって?」
「だ、だからなんでそんなに言うの?」
「独り占めが嬉しいから」
「……っ」
ブラッドの中に女神が移ったのですが、ルーシャはそれを伝えていません。
ブラッドが幸せを感じ、女神を満足させるのは自分の役目だとルーシャは思っているので、伝えない方がいいと決めております。
誰しも自分の物差しで測って他人を判断しているものですが、そのミリアム大丈夫? っていうお話でした(え?)
ミリアムもまたブラッドを物差しにしてしまうので、他の男に対し、ブラッドならこんなことで怒らなかった――なんて具合だったりします。
最後までお付き合い頂き、ありがとうございました!
 




