35◇Lucia
「ブラッド!」
ブラッドはひどい脂汗を浮かべて膝を突いた。いつの間に来たのか、レーンが駆け寄ってくる。
「て、店長?」
どうして今、レーンがここに現れたのだろう。ジャックが呼んでくれたのかとルーシャは考えた。
なんにせよ、レーンの顔を見たらほっとして涙が溢れた。
「ブラッドは丈夫だから心配要らないわ」
そんなことを言ってくれたけれど、ブラッドが大丈夫そうには見えなかった。きっと気休めだ。
一体、何がどうなっているのだろう。
アビーは誰に頼まれてルーシャを狙ったのか、少しもわからなかった。
そういえば、アビーが〈アイザック・リスター〉という人がフォースターの友人だったから、フォースターが隠していたと言った。レーンは事情を知っているのか。
この時、レーンは厳しい目をしてジャックを見遣った。そこにいつものおどけた雰囲気はない。
「あなたは味方だと思っていいのね?」
「僕はルーシャさんの味方です」
「そう。それならいいわ。ブラッドを運ぶのを手伝って頂戴」
一瞬嫌そうに見えたけれど、ジャックは断らなかった。ルーシャは震える手でなんとか家の鍵を開け、皆を中に通す。男二人がかりでブラッドをベッドに寝かせてくれた。
「ブラッドは何をされたんでしょう?」
「痺れ薬か毒か、どちらにせよ死ぬことはないでしょう」
死ぬことはないとレーンは言うが、不安だった。
「明日になったらさらに援軍が来るけれど、今晩は心配ね。ジャック、あなたここにいてくれる?」
これを聞き、ルーシャは罪悪感のようなものを覚えた。
ルーシャはブラッドのことが好きだと自覚した。無償でジャックを頼るのはいけないような気がする。
とても気まずくて、お願いしますとは言えない。
とはいえ、不安は強くある。
ジャックはうなずいた。
「いいですけど、一体どういう事情があるんでしょう?」
今回のことはルーシャにも説明できない。説明できるのはレーンだけなのだろう。
それとも、ブラッドも何か知っているのか。ちらりとブラッドを見遣ったけれど、呼吸が浅く、とても長話ができる状態ではない。
「そこがね、複雑なのよ。また明日にでも話すわ。あたしはちょっと表の刺客たちをどうにかしてくるから」
少なくとも、服飾デザイナーに相応しい発言ではない。レーンはただの服屋ではないのだろうか。
ルーシャに護衛をつけたのは、ストーカー対策だけではなかったのかもしれない。今更ながらにそれを思った。
誰かに狙われる覚えは、もちろんルーシャにはない。
「店長、あの……」
去りかけたレーンに声をかけると、レーンは苦笑した。
「また明日ね。他にも見張りに人を寄こしておくから、そこは安心して」
ルーシャにはわからないことばかりだったけれど、一番重要なのはブラッドの容態だ。
この状態でまた敵が来なければいい。ジャックがいてくれると言うけれど。
レーンが去り、まぶたを閉じたままのブラッドを見遣ると、視線を感じた。壁際のジャックがルーシャを見ている。
「ジャックさん、さっきはありがとうございました。本当になんてお礼を言っていいやら」
すると、ジャックは前のようには照れなかった。幾分落ち着いている。
「ルーシャさんが無事でよかったですけど、気をつけないと。あなたは〈特別〉ですから」
「えっ?」
祖母と同じことを言う。祖母がジャックにそう言ったのだろうか。
「あの、ジャックさん……」
ルーシャが声をかけると、ジャックは嘆息した。
「はい」
「私、好きな人がいて……」
「そこで寝ている男でしょうか」
「……はい」
助けなければよかったな、と思われただろうか。
けれど、ジャックは正直には言わなかった。
「ええ、わかっていました。でも、僕にはウェズリーさんに対する恩もあるんですよ。だから、ここであなたを見捨てて帰ったりはしません」
落ち着いて言ってくれたけれど、ブラッドを見るジャックの目つきが薄暗かった。それは仕方のないことだろうか。
「ありがとうございます……」
ジャックが以前よりも冷静になったのは、ルーシャへの気持ちが冷めたからかもしれない。
「でも、ルーシャさんの周りで何が起こっているのか、僕はまだ知りません。何事もないといいのですが」
「私も知らないんです。本当になんでしょうね」
レーンが事情を知っているようだから、明日になれば教えてくれる。
ただ、今晩は長い夜になりそうだった。
◆
翌朝、ルーシャたちのもとにやってきた人物を見て、ルーシャは呆然としてしまった。
ほとんど眠っていないせいでおかしく見えるのかと思って目を擦ってみる。
その人は、レーンかと思ったら違ったのだ。
鳶色の一般的な髪色をしていたし、着ている服は灰色で、制服のようだった。その上、剣まで帯びている。
分厚い胸板に太い腕。レーンとそっくりなのに、体格が違う。
この人は――。
「あなたがルーシャ嬢でしょうか? 私はロト・フォースター、レーンの兄です」
この顔を見ては血の繋がりを疑うわけにはいかない。ルーシャは思わず口元を押さえた。ロトは微笑みつつもルーシャを観察しているような気がした。
「店長の……。どうぞお入りください」
とは言ったものの、この大きな男性にルーシャの古い家は手狭だった。まるでサイズが合っていない。ロトは窮屈そうに体を斜めにして扉を潜った。
何故彼がここへ来たのかというと、昨日の襲撃のせいだ。確かレーンの兄は騎士で、そういうことは専門だったはずだ。
「ところで、ブラッドはどこに?」
「えっ? ああ、こっちの部屋に」
そうだ、ブラッドはレーンの兄の伝手でやってきたのだった。二人は知り合いなのだ。
ブラッドは昨日のうちに目覚め、近くにジャックがいることに気づくととても嫌な顔をした。
どちらがより嫌な顔をしていたのか、ルーシャには判断できないほどだったが、ジャックに助けられた以上はブラッドも礼を言っていた。
扉をノックする。
「ブラッド、お客さ――」
言い終わらないうちにロトが扉を開けて中に入っていた。ブラッドはベッドの上で食べかけだったオートミールを避難させた。
「ロ、ロト兄……」
ジャックは椅子に座ってただ眺めていた。
大股でロトが部屋に入ると三歩ほどでブラッドに手が届いた。岩のような両の拳でギリギリとブラッドの頭を締め上げる。
「油断したな?」
「す、すいませ――」
「何かあったらどうするつもりだ?」
ブラッドはしょんぼりとして抵抗をやめた。ルーシャはロトの腕をトントン、と叩いて抗議する。
「あの、怪我人ですから」
ルーシャに庇われて、ブラッドは嬉しくなかったかもしれない。目を逸らした。
ロトはブラッドに見せていた形相から笑顔に早変わりする。
「解毒剤も持ってきましたから、もう怪我人でも病人でもありませんよ。義弟が不甲斐なくて申し訳ない」
「義弟?」
「ええ、私の妻の実弟なんです」
そういう繋がりだったのか。ブラッドもレーンもそのところを何故か言わなかった。
そこでロトはブラッドを解放すると、懐から出した小瓶をブラッドの方に投げた。解毒剤だろう。
それからルーシャに向き直りかけたが、ジャックのことが気になったらしい。
「昨晩は君に助けられたと聞く。私からも礼を言おう」
「いえ」
ジャックは非常に素っ気なかった。事情を説明してもらっていないので、気を許していないからだろう。
ロトもまた、ジャックを交えて話をするべきか迷っているように見えた。そこにレーンが到着する。
――家がとても狭く感じられた。




