29◇Lucia
ルーシャはベッドの上で伸びをして、それから起床した。
今日は久々の休みだ。ブラッドの好きなパンケーキを焼こう。
朝から卵をふんわりとかき混ぜて、大変ではあるけれど、喜んで食べてくれる人がいると思うと苦にならなかった。
むしろ、作っている間は幸せな気分になる。
パンケーキが焼き上がり、たっぷりのバターと蜂蜜をかけてからルーシャは声を上げた。
「ブラッド、朝だよ!」
ブラッドはこの日、いつもよりも少し寝坊したらしく、寝間着のまま寝ぼけ眼で出てきた。
「眠たそうね?」
ルーシャが苦笑すると、ブラッドは気まずげにぼやいた。
「ちょっと寝つけなくて」
「そうなの? 大丈夫?」
「ん……」
そう答えながらも、朝食にパンケーキが待っているのを見るなり元気が出たようだった。
「すぐ顔洗ってくる」
「うん」
せっかくのパンケーキが冷めるから、と着替えを後回しにして嬉しそうに食べているブラッドを見たら、ルーシャの苦労も報われた。
「やっぱり美味い」
それほど意思表示をする人ではないのに、パンケーキに関しては賛辞をくれる。それがくすぐったかった。
「よかった。いっぱいあるから」
幸せというのは、本当にささやかなものだ。それに気づくか気づかないか、それだけだと祖母が言っていた。
今のルーシャはそれをしみじみと感じた。
「後で買い物に行ってもいい? いつもとは違うところ。石鹸とか雑貨を色々と買いたくて」
「遠いのか?」
「そんなこともないけど」
「じゃあ行こう」
ブラッドはストーカーがジャックだったと判明していても、未だに警戒している節がある。まだ他にストーカーがいると思っているのだろうか。
自慢ではないけれど、ルーシャにそこまでの人気はない。
苦笑してしまうが、それでブラッドが一緒にいてくれるのならいいかなとも思う。
ただし、この日は外出しない方がよかった。
出先で台風に遭遇したような気分を味わうはめになったのだから。
◆
ルーシャはブラッドに道を案内しながら雑貨屋に向かった。
いつもとは違う道をブラッドと歩くだけで新鮮な気分になった。日差しがジリジリと暑くて、出てくる時間帯を間違えたという気もしたけれど、氷菓子でも食べて帰るのもいいかもしれない。
「あそこのミルクジェラート美味しいんだよ。ソースの種類も豊富だし、後で食べて帰ろうか?」
笑いかけると、ブラッドも笑ってうなずいた。
「そうだな、暑いし」
いつも食べ物で餌づけしている気もするが、まあいい。
この時、ジェラートショップのテントの下で口論している男女がいた。
「いい加減にしろ! もうお前にはうんざりだ!」
「あらそう? じゃあ、さよならね」
「好きにしろよ! お前みたいな女に我慢できる男なんているもんか!」
「多分ね、それはあなたの器の問題よ?」
「なんだと、この――」
「はいはい、さようなら。わたしだって、あなたとは二度と会えなくったって困らないのよ」
どちらもまだ若く、痴話喧嘩らしいのだが、どうやら破局へと向かっている。
男の方が激昂していて、彼女は落ち着いたものだった。彼女の方が先に見切りをつけていたのだろうか。傷ついた様子もない。
いくら腹が立っても、公衆の面前で彼女にあんなことを言う男はやめた方がいいとルーシャも思う。――彼女の方が負けていないとしても。
女は砂色の長い癖毛をふわりと揺らして男に背を向け、決別した。小柄だけれど、とても堂々としている。
ルーシャと同じ年頃だろうか。白い可憐なワンピースを着こなしている。ナタリーほどの美少女とは言わないが、十分可愛らしく、不思議な雰囲気を持っていた。
彼女の緑がかったグレーの瞳がこちらに向く。
見世物ではないと気を悪くしたのかと思ったけれど、彼女は怒ったわけではなく、驚いたように目を瞬いていた。
ふと、ブラッドの足が止まった。だから、ルーシャも足を止めた。
ブラッドを見上げると、表情が消えていた。それに反し、行きずりの彼女は本当に嬉しそうにパッと顔を輝かせる。
「ブラッド!」
ルーシャが驚いている間に、彼女はタタタタ、と可愛らしい足音を立てて駆け寄り、ブラッドの首に腕を絡めて飛びついた。
「やだ、もう迎えに来てくれたのっ?」
「ミ、ミリアム……」
ブラッドのかすれた声がルーシャの耳に届いた。
ミリアム。
それはブラッドの大事な女性の名前だった。
もしかして、これはミリアムの浮気現場なのか。
それにしてはミリアムは少しも悪びれていない。そして、さっきまで彼氏だったはずの男が口をあんぐりと開けて見ていても、すでに赤の他人のように関心を向けなかった。
本当に興味を失ったかのように。
ミリアムはブラッドに抱きついたまま、可愛らしい甘い声で言う。
「ごめんね、ブラッド。わたしが馬鹿だったみたい。でも、しばらく離れてみると無性にブラッドに会いたくなるのは嘘じゃないわ」
それに対し、ブラッドは深々と嘆息したのだった。
「……ミリアム、お前、自力で家まで帰れるんだろうな?」
「自力って?」
きょとんとした顔は本当に可愛かった。男の人なら誰でも好きになってしまうような愛らしさだ。
――ただ、ルーシャは今すぐ消えてしまいたいほど居心地が悪かった。
二人が抱き合っていて、その隣に呆然と立っている。この状況にあとどれくらい耐えなくてはならないのだろう。
「ブラッドは送ってくれないの?」
とても甘えた様子で言う。
ブラッドはこの時、ちらりとルーシャを見遣った。
「無理だ。今、忙しいから。帰れないっていうなら、家に連絡しておいてやる。迎えが来るまで宿にでもいろよ」
ブラッドの声はどこか冷めていた。それはミリアムが男といたからだろう。ブラッドが可哀想だと思ったけれど、それならどうして怒らないのかもわからない。
「なんで? やだ、ブラッドが送って。お願い!」
駄々っ子のようにミリアムはブラッドにきつく抱きつく。ルーシャはいつまでもそんなところを見ていられなかった。
「あ、あの、私なら平気だから、送ってあげたら?」
思わずそう言ってしまったのは、ここにいたくなかったからだ。
ブラッドとミリアムから離れたい。二人が一緒にいるところを見ていたくない。
――もっとブラッドを大切に思っている人が相手なら、ルーシャも諦めがついた。それなのに、ミリアムは別の男といた。意味がわからない。
ここにいると、ミリアムに対して暴言を吐きたくなってしまう。だから、いたくない。
ルーシャが口を開いて初めて、ミリアムはルーシャの存在に気づいたようだった。じぃっとルーシャの顔を眺め、そしてにこりと笑った。勝ち誇ったような笑顔だった。
「誰だか知らないけど、ありがとう」
「ルーシャ!」
何故だかブラッドが怖い顔をした。
男連れのミリアムには怒らなかったのに、ルーシャには怒るらしい。
後ずさり、くるりと向きを変えて駆け出す。ブラッドが何か言っていたけれど、もう聞かなかった。




