17◇Lucia
正直に言って、まさかあんな目に遭うとは思わなかった。
ブラッドのことを雇ったレーンは大げさだと、ルーシャは甘く見ていたのだ。
それが、ストーカーは本当に存在した。
不覚にもルーシャはストーカーの目の前で気を失ってしまったのだ。あそこでブラッドが来てくれなかったらと思うとゾッとする。
あの時の引きずり込まれた力、黒い影、思い出すだけで震えてしまう。
ブラッドと一緒に帰って、家の戸締りをしてからルーシャはやっと息がつけた。
「今日は疲れただろ。夕食は簡単でいいし、俺も手伝うから」
勝手な行動をもっと怒られると思ったのに、ブラッドは優しかった。それが嬉しい。
「ううん、何かしていた方が気が紛れるから」
「それならいいけど」
料理をしながらバスケットの中を確かめると、買ったフルーツが一部潰れていた。悲しいが、これは煮込んでソースにしよう。生地に混ぜてもいいかもしれない。
夕食を終えた後、ブラッドが風呂に入っている間に片づけを済ませる。
そして、ルーシャも風呂に入ろうとしたのだが――。
「ねえ、ブラッド」
ブラッドの部屋の扉を叩く。濡れた髪のままで出てきた。
「なんだ?」
「お風呂に行きたいの」
「うん」
「急いで入るから、近くにいて。お願い!」
昨日までは全然平気だったのに、今日は外の暗闇の中に一秒だって一人でいたくない。
「わかったけど……」
けど、なんだろう。なんでもいい。
「ありがとう。呼んだら来てね」
「…………」
何か言いたげだった。もう眠いから寝かせてほしいとか言われたら泣くしかない。
ルーシャは風呂場まで送ってもらうと、宣告通り大急ぎで体を洗った。
いつもなら風呂掃除まで済ませてから出てくるのだが、今日はもういい。明日やる。風呂桶の水だけ抜いておいた。
夏なので汗を吸いやすいコットンの袖なしネグリジェを着る。髪も濡れたままだが、風邪はひかないだろう。
戸をうっすらと開け、ブラッドを呼んだ。
「ブラッド、上がったよっ」
カンテラを手に持ったブラッドが家の前にいて、ルーシャはほっとして風呂の戸を開いた。
「ありがと!」
感謝の気持ちを込めて笑顔で礼を言ったのに、ブラッドはフッと素っ気なく顔をそむけた。
「ほら、早く家に入れ」
「うん! あ、そうだ、ハーブティー淹れようか?」
気が昂って眠れない気がするから、何かリラックスできるものがほしかった。しかし、ブラッドはうなずかなかった。
「早く寝ろ」
「うぅ、ちょっと話し相手になってよ」
家の中に入り、戸締りをした途端にブラッドはため息をついた。
「昨日はパンツ拾われて騒いでたくせに、今日はそんな恰好でも全然気にしないんだな」
――パンツのことは言わないでほしい。
そんな恰好というけれど、寝間着なのはお互い様だ。
「そりゃあ、私だってちゃんと弁えてるわよ。他の男の人の前だったらしないし」
「俺はいいのか」
「うん。だって女性に興味ないでしょ? だから本当は下着くらいで騒ぐことなかったんだけど」
これを言ったら、ブラッドが愕然としたように見えた。だからルーシャは慌ててしまった。
「あ、別にそういうのがいけないとか思ってないから! ブラッドはブラッドだし、その――」
「誰がそんなこと言った? レーンか?」
これは秘密だったのかもしれない。当人にしてみたら陰で言われるのは嫌だったようだ。
「ごめん、私、誰にも言わないから」
「…………」
ブラッドは何かを言いかけて、やめた。
やっとの思いで飲み込んだというふうに見えた。とても繊細な問題なのでそれも仕方がないのだろう。
「お茶、淹れるね」
誰しも触れられたくない部分があって当然だ。気遣いが足らなかった。
ルーシャはブラッドの背中をポン、と叩き、キッチンに入って湯を沸かし始める。就寝前なので優しいカモミールにしよう。ルーシャは戸棚の上の方にある乾燥カモミールが入った瓶を取ろうと椅子を置いた。
ブラッドがそれに気づく。
「取ろうか?」
そう言ってくれたけれど、椅子に乗ればすぐに取れる。
「もう取れたよ」
椅子の上で瓶を手に振り返ろうとした時、外でギャーッという不気味な声がしてルーシャは自分でも驚くくらい取り乱してしまった。あんなのは、野良猫の喧嘩だ。夜間によくある。わかっていても、今日は心構えがなかった。
怖い目に遭ったせいで物音に過敏になっている。身を竦ませた途端、バランスを崩して椅子から落ちた。
「ひゃっ!」
けれど、椅子から落ちたルーシャと、ルーシャが放り投げた瓶と、ブラッドはどちらもキャッチしたのだった。素早いなぁと感心してしまった。
耳元でほっと息をついた音が聞こえた。ブラッドもびっくりしただろう。
背中越しに速まっている心音が伝わり、ぬくもりを感じる。こんなに密着していても不快感はない。むしろ、心地よいとさえ思えたから不思議だ。
「ありがとう。ブラッドがいてくれてよかった」
最初はあんなにも本物の犬がよかったと思ったのに、今ではブラッドでよかった。現金かもしれないけれど、本当にそう思う。
心は正直なもので、助けてもらったことによってルーシャの中でブラッドという存在が格上げされたのだ。それは素直に笑いかけられるほどには。
けれどそれはルーシャの言い分であり、ブラッドは違ったのだろう。ルーシャを離すと怒ったような口調で言った。
「今日はもう寝ろ」
「えっと、お茶は……」
「明日にすればいいだろ」
「えーっ」
「俺は寝る」
さっさと行ってしまった。
起きているとまた何かやらかすと思うのだろうか。今日は特別で、いつもは違うのに。
仕方がない。今日はもう大人しくしていよう。
――何故か、ブラッドのぬくもりを分けてもらったら、ずっとついて回っていた恐ろしさが和らいでいた。




