1◇Lucia
「だからね、お前は自分を大事にするんだよ」
何かにつけて、祖母は幼い孫娘にそう言った。
「うん、わかってる」
両親がいないルーシャの、唯一の肉親だった。
優しくて、あたたかくて、物知りな祖母。
ルーシャがいないと祖母は一人になってしまう。だから、ルーシャは祖母のためにも自分のことを大切にしなくてはならない。
素直に答えた孫に、祖母は皺のある、けれども穏やかな顔でうなずいてみせた。
「ああ。お前はね、特別な子だから」
祖母にとって特別で大事な子だと。
そう言われるたびに嬉しく思った。
その祖母はもういない。
「お前に、女神様のお導きがありますように――」
ルーシャが十八歳になってすぐ、孫娘の幸せを祈りながら息を引き取った。
それでも、ルーシャの人生は続いている。たった一人になった今でも。
これからは天国の祖母に恥ずかしくない、自立した大人として生きていきたいと思うけれど――。
◆
今日も暑い夏日だった。
寒いのは嫌だけれど、だからといって暑ければいいというものでもない。
そんなわがままばかり言っていたら、万物に宿る精霊たちに愛想を尽かされてしまうだろうか。
この世は人のためだけに存在するのではないのだから。人が精霊の恩恵に与って生きているに過ぎない。
といっても、庶民のルーシャにはその精霊たちを目視し、意思疎通するような力はない。
生き物以外のすべてに精霊が宿っていると聞かされて育っただけだ。
火や水、そんなものにも司る精霊がいるのだという。
その力を人が借りることを〈精霊魔術〉といい、ごく限られた人だけが使えるのだが、これまでに目にする機会はなかったので詳しくは知らない。
「――だから、近頃は物騒だって言ってるじゃないっ?」
はぁ、と答えながら、ルーシャ・ウェズリーは目の前の虹色の髪をした雇い主を見上げた。
彼はルーシャが働く、この〈フォースター服飾店〉の店主、レーン・フォースター三十七歳である。
長さは短めではあるけれど、現在の髪色は七色の虹色だ。その前は紫で毛先だけ緑だった。
定期的に色が変わるのには慣れっこで、レーンがどんな髪の色になっていてもルーシャは何も動じずに、おはようございますと挨拶できる自信がある。
ルーシャの髪は真っ黒。カラスの濡れ羽色というヤツだ。少し肩にかかる程度の長さで癖がない。珍しくもなんともない髪型だが、面白味を出したいと思えないのは、面白すぎる髪型にはおなか一杯だからだろうか。
レーンの顔立ちは整っているはずなのに、そんなことはどうでもよくなってしまう。
ルーシャが深い緑色の目を瞬いていると、レーンは嘆息した。
その息が彼のレースのついた大きな襟を揺らした。虹色の髪にベビーピンクのドレスシャツ、ぴっちりタイトなパンツといった出で立ちの長身痩躯の男。それがルーシャの雇い主だった。
そんな外見ばかりか、喋らせると余計に目を引く。
「若い娘が一軒家で一人暮らしなんて、何かあってからじゃ遅いのよ?」
――心は乙女、なわけではない。
彼が手掛ける服はフリフリふわふわ。大変に可愛らしく少女趣味なのである。だからして、女性の感性には敏感でなければならないそうだ。
その一環としてオネエ言葉で話すのだが、それが本当に役に立っているのかどうかはわからない。
ただし、彼の服がこの町〈ウッドヴィル〉の少女たちに大人気なのも事実である。繁盛しているからこそ、ルーシャたち従業員を雇ってくれるのだ。
と、この雇い主のことを語ろうとすると日が暮れてしまう。
レーンにルーシャが注意されている理由は、仕事上のことではない。注意というよりも心配と言った方が正しいだろう。
「でも、今まで一緒に住んでいたのはおばあちゃんなんですよ? 防犯って意味ではあんまり一人と変わらなかったような?」
ルーシャの唯一の家族であった母方の祖母が先月他界した。
母はルーシャが幼い頃に亡くなっており、父に関してはそもそも知らない。祖母ですら詳しく知らないらしかったので、今さら知りようもなく、よって気にしないことにしている。
祖母がいない以上、ルーシャの一人暮らしは物騒だとレーンは心配してくれているのだ。
気持ちはもちろんありがたいが――。
ルーシャは作業台の上にトン、と片手を突いてからレーンを見た。彼の目の色は黒に近い茶色だ。
「店長、よく考えてみてください。ナタリーみたいな娘ならその心配もわかりますけど、私は大丈夫ですよ?」
ナタリーは一緒に働いている女の子で、ルーシャと同じ十八歳なのだが、すべての人が振り返るほどの美少女だ。波打った金髪の儚げな風貌に違わず、引っ込み思案で大人しい。ルーシャですら護ってあげなくてはと思っている。
一方、ルーシャは気が強いとよく言われる。特別美人というほどでもない。
変質者につけ回された経験は、正直に言って一度もない。だから大丈夫だと言ったまでだ。
けれど、レーンはそんなルーシャの手のそばにドンドン、と音を立てて大きな手を突いた。
「あなたは十分可愛い女の子よ。そして、あたしの大事なお針子。身内も同然だわ。放っておけるわけがないでしょう!」
オネエ口調だけれど、真剣な気持ちは伝わった。奇抜を絵に描いたような人だけれど、優しいのは知っている。
だから、ルーシャが家に帰ったら一人でポツリと座ったまま、祖母の思い出に浸って泣いていることに気づいているのだろうか。
それでも、ルーシャの返事は同じだった。
「店長は心配性ですね。気持ちだけはありがたく受け取っておきますけど」
――と、そんな強気の発言をしたルーシャではあった。
しかし。
そんな話をしたすぐ後。
異変に気づいたのは、ルーシャがいつも通りの帰り道を歩いている時だった。
誰かがついてきているような気がしたのだ。
レーンとあんな話をしたから、自分にストーカーがついたような気がしてしまっただけかもしれない。
よく考えてみると、家は町外れの方で、大通りを抜けた後は人気が少なくなる。灯りも点々としかない。
暗くなったらカンテラを手に持って歩くけれど、照らせるのは手前だけだ。そしてルーシャの後頭部に目はない。
また、カサリと乾いた草を踏みしめるような音がした。野良犬かもしれない。そうであってほしい。犬なら好きだ。
ルーシャは思いきって立ち止まり、可愛い犬がいてほしいと願いを込めて振り返った。
犬はいなかったが、辺りは静まり返り、誰の姿もない。道を引き返して確かめる気にはなれなかった。
「…………」
急いで帰ろう。
ルーシャは磨いた革靴に傷がつくのも構わずに駆け出した。
そして、古びた一軒家に入るなり、内側からしっかりと鍵をかけた。ついでに、玄関に椅子も置いておく。
あんなに平気だと言ったくせに自意識過剰だろうか。
肩で息をしながら、ルーシャは少し考えた。よい考えが閃くと、ほんの少し気分が楽になった。