「くろこげのホットケーキ」(「ホットケーキ続編【大沢編】)
1.
結婚する、って湖山さんに言えなかったのは、もちろん、俺が湖山さんのことを好きだったからです。それ以外の理由なんてない。他に説明のしようがないですよ。あんたが好きだったから言えなかった。それだけです。
湖山さんが怒ったみたいに電話を掛けて来てくれた時、どうしていいか分からなくなった。珍しいくらい感情をむき出しにして、俺は、俺のことでそんな風に不機嫌になる湖山さんの声をいつまでも聞いていたかった。ねえ、俺が結婚するって聞いて、アタマ来た?俺が結婚したらまずい?ねぇ、そうなの?
違うよね。そんなの、分かってる。
それでも「どうして言ってくれなかったんだよ?どうして俺に内緒にしてたんだよ?」って責めて欲しかった。俺にとって湖山さんがどんなに大事なのか湖山さんにだって分かっていたはずだ。湖山さんが声を荒げたらその分だけ「俺はお前にとって大事じゃなかったのか?」って問い質されてるんだって思えただろう。それは、同時に湖山さんにとっての俺の重さが分かる<秤>になるんだっていう気がした。
なのに、湖山さんは俺を責めたりなんかしなかった。「俺に黙ってる事があるのか?」って冷静さを失った声で掛かってきた最初の電話はそれっきりで、やっと仕事が終わって、夜に電話したときにはもう、どうでもよかったのか、電話にも出てくれなかったし、やっとつながった時にはいやに静かで、何も訊かないし、多分、俺が言いたいがあるなら聞いてやろうっていう感じだった。
あの時、「俺の部屋に来る?」なんてあんたは簡単に言ったけど、そんなこと、簡単に言って欲しくない。
湖山さんの匂いが充満する部屋、隅々まで。どこからでも俺を煽るから苦しくて、切なくて、自分の欲望と戦ってボロボロになる。そんな思い何度でもすればいいって言うのか?罪深い恋をしているから?
湖山さんの部屋に一歩でも入っていたら、きっと俺は我慢できなかった。家で二人きりで湖山さんの顔を見たら、きっと、すべてを言ってしまっただろう。湖山さんのことがずっと好きだった、だから言えなかった、って。きっと、言葉だけじゃなくて、俺の全部使って伝えただろう。
だから、湖山さんの部屋に入れなくて良かった。これで良かったんだ。
2.
男なら誰でもいい、湖山さんの代わりに、今夜一晩だけでいい、どうしても男を抱きたい、男に抱かれたい。湖山さんを好きになってから初めて、男を求めた。
湖山さんじゃないならどんな男だって湖山さんの代わりになれるわけがない。ずっと分かっていたから、湖山さんではない男となんか寝る気なったことはなかったのに、湖山さんじゃなくてもいいから、湖山さんだったら、と心で思えばいいから、満たされないと分かっているのに求めた。
バーで隣になった男は偶然にも少し湖山さんに似ていた。背の高さ、体の細さ、喉仏の感じも似ていた。喉仏が似ているというのは、声も少し似てたりするんだろうか。話す声はぜんぜん違うけれど、いやらしいことをしたら、同じような声を出すだろうか、と変態じみた事を考える。
ホテルの部屋でその男がシャワーを浴びている時、最後の電話を掛けた。賭けをした。もし、湖山さんが出てくれたら、この部屋を出て行こう。そして、二度と、俺の心の中から湖山さんがいなくなるまでは二度と、誰とも寝ない。もしも、湖山さんが出てくれなかったら・・・。
出てくれなかったら・・・。
この男を抱いて、この男に抱かれて、あんたの代わりに、壊れるくらいに、何も考えられないくらいに、何もかも投げ出して、もうこれで終わりにしよう。
泣きながら誰かを抱くなんて、生まれて初めてだった。
泣きながら、誰かの名前を呼ぶなんて、こんなに好きだったなんて。
湖山さんの名前を呼びながら、何度も、何度も、湖山さんって呼びながら、湖山さんに似た肩を湖山さんに似た背中を抱く。湖山さんの首筋もこんな風だったのかと、何度も何度も想像したとおりに、その首筋に自分の唇を当てて、湖山さんに似た男が仰け反るのを抱きしめる。抱きながら、「ごめん」と俺が謝るのは、湖山さんの代わりをさせているその男に対してなのだろうか、それとも、こうやって俺が陵辱している湖山さんに対してなんだろうか。
ごめん・・・・ごめんなさい・・・
湖山さん・・・大好きだ。
体中の何もかも、果ててしまった。
なのに、どうして満たされないのだろう。
どうしてこんなに、飢えているのだろう。
何もかもこんなに出し切ったのに。
「気が済むまで、したいだけ、していいよ」
と、その男は言った。その声は少しも、湖山さんに似ていない。
3.
ぐったりと寝転んだ白いシーツの上で夜明けを待っていた。厚い遮光カーテンの隙間から忍び込むようにして朝がやって来る。泣きすぎた瞼が重い。この部屋中に、湖山さんを愛した自分の魂の抜け殻がうようよと彷徨っているのを感じる。絞りだしたその魂の抜け殻が、朝の光の中で昇華していくなら、重い瞼に焼きついた湖山さんの何もかも、もう過去のものだと言えるのに、ともすればその抜け殻たちは、またもとの住処に帰ろうとして蛹になろうとしているようだった。蛹が胸の中のしこりを食べて大きくなっていくのが分かる。
朝を待っていたように携帯が鳴った。シングルベッドの端に腰掛けて震える携帯を手に取る。分かっていた。それは、湖山さんからだった。でも、もう出ない。出る資格が無い。振るえ続ける携帯を見つめる俺のことを、反対のベッドに寝転がった男が見つめていた。
「彼、ノンケなの?」
「・・・どうして?」
「失恋したのかなって思ってたけど、振った人が電話掛けてくる訳ないじゃない?」
「・・・」
「コヤマさんって人、幸せだよね。こんなに愛されてさ。羨ましいよ。」
「その分俺が惨めなんだよ」
「俺たちの恋愛が、惨めじゃなかったことなんてあるの?」
彼は細い体をかったるそうに起こしてベッドの上にあぐらをかいた。枕を膝の上に置く。
「俺、よかったらずっとコヤマさんの代わりになってあげてもいいよ。素敵だったから。誰かの代わりでも、あんな風に抱かれるのは、すごく良かったから。」
「もう、いいんだ。ごめん。本当に・・・すまなかった・・・」
「なんで?いいのに・・・」
惨めだ。本当に、とても惨めだった。ギシッと音を立てて男がベッドを降りると、背を丸める俺の横に座った。涙を零す俺の背中を湖山さんに似たその男が優しく撫でてくれた。その事が余計に俺を惨めな気持ちにする。
4.
湖山さんの目を見ることができなかった。当たり前だ。あんな風に湖山さんを抱いた後で。(それはもちろん、本物の湖山さんではなく、湖山さんの面影だったとしても。)
できるだけ会いたくなくて避けられるものなら避けていたけれど、とうとう湖山さんと顔を合わせなければならない日が来た。
いつもなら、昼ご飯の時間になったことも気づかずに仕事をする湖山さんを俺が誘うのに、今日は湖山さんは俺を逃がさないみたいにして昼ごはんに誘い出す。
黙りこくった二人とも、居心地が悪くて遠くまで歩けない。どちらともなく簡単な定食屋の暖簾を潜った。湖山さんが手でよけて翻った暖簾が揺れた時、まるでその暖簾が俺の心臓に触れたみたいに、胸がどきんと大きく鳴った。
こんな日に限ってカウンターじゃない。定食屋の小さなテーブルの向かい側に座る。できるだけ湖山さんを見ないようにして、そっぽを向いて、壁に掛かった定食のメニューを見ていた。
「あの日の夜、ごめんね」
と、湖山さんが謝る。
「いえ、ぜんぜん。会えなくて良かったんです。」
そうだよ、会えなくて、本当に良かった。湖山さんの為にも。テーブルの端のメニュー立てにメニューを戻した湖山さんの手がふと止まった。目を見れなくても、湖山さんの表情が少し硬くなったのが分かる。
そうだよ、会いたくなかった。顔を見たくなかった。湖山さんのことを、好きだからだよ・・・。
正直に言う、何もかも。都合よく解釈してもらえるギリギリの線を探す。
「何て説明したらいいのか、分からなかったんです。会って話したかったけど・・・。会えなかったら、説明しなくて済むっていうか・・・。ごめんなさい。・・・本当は今も説明できない・・・。」
ほら、いつもの通り。
「・・・・そういうことも、あるんだよな。うん。俺も個展の時さ・・・」
都合よく解釈してもらっていいと思って言ったくせに、心が別のことを言おうとする。『違うよ、そうじゃない』、湖山さん、俺が言えなかったのは・・・。
テーブルの上で組んだぎゅっと手を握り締める。殆ど触れそうな湖山さんの手に、この手を重ねてしまわないように。きつく、きつく握り締める。
ふと、目を上げると、湖山さんがぼんやりと俺の手を見つめていた。伏せた目のまつ毛の長さ。静かな湖山さんの視線がまるで俺の手の大きさを測っているみたいに見える。
「それとは、違うんです。俺のは、」
何もかも言ってしまったらいい、そう思ったとき、あまりにも現実的な声で定食屋のおばちゃんが俺を引き戻す。生きるために食べろ、とその声は言う。自然の摂理に適った生き方をせよ、とその声が言う。
もう夏が終わる。最後の蝉が鳴いている。その蝉はまるで自分の化身のようだ。諦めきれない想いの丈が溢れて、過ぎていく季節に置き去りにされる。
5.
湖山さんに会わなければ、いつか諦めがつくだろうか。このタイミングで湖山さんのアシスタントの仕事が減ってきた事は、湖山さんを諦めるのにはちょうど良いのかもしれないと思えた。「そろそろ潮時だよ」と運命が言っているのかもしれない、と。
だけど、そう簡単な話でもないような気がする。湖山さんではないカメラマンの助手をしていても、そして、自分自身がカメラマンとしてカメラを構える時ですら「湖山さんなら・・・」と考える。光の加減、レフ版の向き、この被写体を湖山さんならどうやって切り取るだろう?「湖山さんの目から見た」被写体を想像する。それは、殆ど癖のようになっている作業だ。
そして、その目から離脱した自分はいつも、湖山さんの殆ど正面で、なのに絶対に湖山さんの目線に入ることはないところにいて、湖山さんのまっすぐな目を見ている。
湖山さんがそこにいても、いなくても、やっぱり俺は、湖山さんを感じないでいる自分なんか想像することができない。
湖山さんの撮る写真と「よく似ている写真を撮る」と言われる。「湖山の助手ですから」と答える俺はいつも多分すごく得意そうな顔をしているだろう。褒め言葉ではなくても、カメラマンとしてそれが正解でなくても、俺にとっての一番の褒め言葉だ。俺にとってのいい写真、というのは湖山さんが撮る写真だ。湖山さんが「いいね」って言う写真。
だからこの世界に身を置く限り俺は湖山さんのことを想い続けてしまうんだなと思い知る。だからといって、この俺に他に何ができるんだろう・・・。
結婚式場の下見に行った時に見たビラを思い出す。ウェディング写真のカメラマン募集のビラだった。そういうのもいいかな、と思う。俺がここで仕事を続けている理由は湖山さんだけだから、その理由がもうなくなるんなら何をやったって同じだ。
いっそ写真から離れた方がいいのかもしれない、と思ったり、せめて「写真」というつながりだけでも、と思ったり、忙しなく心が揺れる。
メトロノームのように振れ続ける心はまるで永遠であるかのようなのに、それでも、季節が過ぎていくのを感じる。
たとえば、さっきまで明るかった外の景色が急に紫色になっている時、青い空を見上げるとプラタナスが萎れているように見える街道沿い、スタジオを出た瞬間に感じる肌寒さ・・・。毎年繰り返していることなのにそんな些細な事が、急に重大な意味を持っているように感じる。時が過ぎているのだ、というその事実を突きつけられている。「変わらなければいけない。いつまでも、そのままではいられない」ということを。
6.
湖山さんを諦めたりしないで、この何年もそうしてきたみたいに、ずっと彼の側にいることもできただろうか。
許されなくてもいいから、時間がかかってもいいから、いつか想いを遂げることができるかもしれない、という期待すら抱けない恋。
そう、湖山さんに出逢う前にだって、そんな恋をしたこともあった。でも、そんな恋にも俺はもう慣れっこで、慎重に、慎重に、なんでもない振りをして、ことこれに関しては必要以上に豪快に振舞って勝ち取った友情。一方通行になる想いがその道を行き過ぎないように手綱を引きながら、けして飢えることのないように恋心を満たし欲望を満たす別の誰かを求める。その事すら、友情を得るための道具に過ぎない生き方。それが俺が学んできた恋愛の知恵。
だけど、いつからか、どこか満たされなくなった。湖山さんに出逢って、湖山さんに恋に落ちて、湖山さんの側にいて、それだけで十分幸せだと思えるのに、どうしてだろう、湖山さんをもっと求めてしまう。僕のことを求めて愛してくれる誰かがいて心も体もその人に委ねてそして満たされていくのに、湖山さんを求め続けて飢えてしまう自分がいる。
あなたが大好きだと伝えたい。髪に触れたい。肩に、腕に触れたい。あなたが今見ているものがどんな風にあなたの心を捉えているのか知りたい。あなたの視界に入るもの皆取り去ってしまえたら、あなたは俺を見てくれるんだろうか?
綱渡りをするような顔でカメラを構える湖山さんを見ていたい。自信に溢れて笑うあなたを見ていたい。仕事が終わった瞬間に呆けたようになる湖山さんを見たい。美味しいものを食べた時に眉毛が上がる瞬間を見たい。アルコールに紅くなるあんたを見たい。戸惑った時に少し怒ったような顔になる湖山さんを見たい。泣きそうになる瞬間笑おうとする湖山さんを、
抱きしめたい。
ストイック過ぎるくらいの仕事の仕方も、仕事とカメラに傾きすぎている情熱や強さとアンバランスな未熟な恋愛の仕方も、どこか脆く無防備になる湖山さんのエアポケットも、そして、俺が見たことない湖山さんも、何もかもすべて、自分のものにしたい。
そんなことしたら、全部失ってしまう。築いてきた何もかもを。あなたの信頼を。あなたの友情を。あなたが僕にくれた何もかもを。
湖山さんが友情だと思ってくれるギリギリの線を探すことに疲れ果てても、それでも、しがみついていたかった。「湖山の助手です」と言えるこの場所に。湖山さんがカメラを構える時、湖山さんがカメラを下ろしたとき、湖山さんのどんな時にも側にいる人間でありたかった。
でも、いつも流されるみたいに恋愛をする湖山さんもとうとう自分から恋をした。今は友達だと言われていても、いつか彼女は気がつくだろう。そして、ここ最近湖山さんのアシスタントをできなくなってきていても、湖山さんは別にどうということもない。(当たり前かもしれないけど) 俺だけができるなんて、過信していた自分が恥ずかしくなるくらい、湖山さんの「心配するな」っていう一言の鉄槌が俺を打ちのめした。
たとえ湖山さんが俺を、俺が湖山さんを想っているみたいに大切に想ってくれることはないんだとしても、仕事のパートナーとして、誰よりも大切だと、友人の中の一人として、誰よりも大切だと、そう思ってくれたら・・・。湖山さんのこと失いたくなくて言えない一言が、差し出せない手が俺をどんなに苦しめても、どこまでだって耐えてみせる気でいたのに。
俺たちのような人間の簡単に届く事の無い欲情は、いつも、俺たち自身と共に常に迷い続けて、自分を抑える手綱を引きながらコントロールしている内に、もう、どこへ向かっていくのかすら分からなくなる。そしてどうでもよくなる。そうやって、樹海の中を迷う方位磁石のように、あっちに振れてこっちに振れて帰り道も行き先も分からなくなって、自分の想いと自分の欲情の対象が両側から自分の腕を引っ張って引き裂くみたいになる。
そしていつか疲れ果てて、自分さえ妥協できるならこうして安泰な道に身を置く事を選んでいくのだ。
「この先、もう恋をしない」、という踏み絵。結婚という道は、俺らが選ぶ偽りの人生への一歩だ。迷い続けた自分への遺書だ。これでいい。とても正しい。両親の笑顔や彼女の笑顔を見ることは、湖山さんを想い続けてしまう俺の涙よりもずっと貴いはずなのだから。
7.
「タクミくん?」
と、聞きなれない声に呼ばれた。平日の午前中、有給をとった彼女と結婚式の打ち合わせに出かけたホテルのロビーだった。細身の濃いグレーのスーツを着て黒いビジネスバッグを提げている。黒い縁のメガネで一瞬分からなかったけれど、あの夜の、男だった。「カオル」と名乗ったはずだ。
カオルはにっこりと微笑んで、彼女に挨拶をする。
「初めまして、杉崎 薫です。デートですか?いいなぁ。」
友人然として巧みに自分の存在を位置づけていく。
「結婚式の打ち合わせに・・・」
と答えた彼女に動揺してしまったのは俺だ。薫は微笑を重ねるようにして
「そっかぁ、もう直ぐなんですねえ。こんな可愛い奥さんを貰うんだ、タクミくん、羨ましいよなあ。ところで久しぶりだね。最近どうなの?」
と俺を振り向いた。
「どうって・・・」
何て答えたらいいのか分からないでいると、その日夕方に友達と約束があった彼女がここから直接待ち合わせ場所に向かうから、と言う。思いがけず置き去りにされてしまった。薫が手を振って彼女の背中を見送っている。
「お茶でも、どう?」
と薫が言う。昼間に見てもやはりどこか湖山さんに似ていた。湖山さんにスーツを着せて、物腰を柔らかくして・・・。メガネの奥の瞳は、確かにあの夜魅惑的にに光った瞳だ。俺が一瞬考えたことに彼は気付いたみたいに笑った。彼の笑顔はいつも功を奏するのだろう。確かに魅力的な男だった。
厚い絨毯を踏みしめてホテルの喫茶室に向かう。低い階段を2,3段上がって喫茶室を見回す彼は物慣れた様子で喫茶室のウェイターと一言二言話した後俺を振り向いて「禁煙でいいよね?」と訊く。それは殆ど同意を求めているというよりも確認という感じで、「いいよ」と俺が言うか言わないかのうちにウェイターにそれでいい、と言っていた。
深いソファーに腰を下ろして、薫が口火を切った。
「なるほど。結婚するんだ」
メニューを選ぶのに忙しい振りをして俺は答えない。答える義理はない、と思う。そしてこんな時に思い出したくもないのに、メニューに「マンデリン」という文字を見て、湖山さんがこういう高級な喫茶店に行くとその珈琲を頼む事を思い出した。どこの喫茶店だったか、何度目かに湖山さんがマンデリンを頼んだとき『好きなんですか?』と訊くと、『よく分からないんだけど、あまりないものを注文しちゃうんだよね』と湖山さんが言っていたことも思い出す。その話をしたときの湖山さんがメニューを見ていた時の俯き加減や、左頬にあった蚊に刺された跡まで覚えている。
「コヤマさんはどうするの?」
無視できなくなって俺は薫を睨みつける。薫はそんなのなんでもないという顔をして俺を見つめている。ウェイターがメニューを聞きに来た。
「マンデリン」と、俺は答える。
薫が「じゃあ、僕もそれ」とウェイターを見上げた。ウェイターにメニューを渡す手は湖山さんよりもどちらかというと少年ぽい。
「あんなに、好きなのに。」
ウェイターが十分に立ち去ったのを見送りながら、薫が言う。
「・・・諦められる訳?」
深々とソファに体を預けた薫が真っ直ぐに俺を見ると、その姿がふと湖山さんと重なって、まるで湖山さんが「俺を諦めるのか?」と言っているように聞こえた。湖山さんはどうしてこんな風に俺の前を行ったり来たりするんだろう・・・!
「諦められる訳、ない。」
俺は湖山さんに言う。湖山さんに少し似ている薫のその姿に重なってくる湖山さんに向かって、いくらでも言う。
「諦められる訳ないでしょ?だけど、諦めなきゃ。」「俺は結婚するし」「これ以上続けると本当に何もかも失ってしまう。」「求めすぎてしまう、湖山さんのこと、」「もう終わりにしないと」
恨み言のようにいくらでも溢れてくる、湖山さんを諦めると決めた日から、胸の中で何度も繰り返した言葉たち。涙を栄養にして育った言葉たち。
湖山さん・・・湖山さん・・・・湖山さん・・・・!!!
薫は何も言わない。あの夜、俺を抱いてくれた腕、あの夜、俺が抱きしめた肩、あの夜、泣き叫ぶ俺を受け止めてくれたように、今もソファーに身を預けたまま俺の恨み言に耳を傾けて、俺の気が済むまでそうしていよう、と決めているみたいだった。
平日の昼間、壁一面の窓から入る光は、喫茶室の端の席に座る俺達のところまで届く。
自分が生まれてきたことに何度も疑問を投げつけて生きてきた二人が座る席まで。その光は、俺が訴え続ける言葉も、訴え続ける俺自身をも吸い込もうとしているみたいだった。
ウェイターがマンデリンを運んできた。
8.
「バカだね・・・。いい年して、ノンケに本気になるなんて」
マンデリンを一口啜って薫が言う。その声は、言葉の強さの割りに物静かに響いた。コーヒーカップを低いテーブルに置き、薫は俺を見る。
「人間って報われない相手をあんなに愛することもできるんだね・・・。辛いんだろうけど。でも、そんな恋、一生に一度だってないかもしれない。誰にでもできる恋じゃない。誰かの代わりに抱かれた男が『代わりでもいい』って思えるくらい誰かを愛するなんて、ちょっとないよ?」
薫は俺を探るように見ている。湖山さんを諦めたくない気持ちがどんどん溢れてきて、そうだ、あの夜の(朝方の?)蛹がその蜜を吸ってどんどんと胸の中で大きく育っていくようだった。俺は薫に気取られないように、なんでもないような振りでコーヒーカップに手を伸ばした。醜態を晒しきった相手でも、こんなに惨めに誰かを想い続ける自分のことが情けなくて、諦め切れないどころか膨れていく自分の想いを隠したくて、俺は薫の目を見ることができなかった。
「だめだよ、こんな恋、簡単に諦めたりしちゃ。」
薫がそう言ったとき、もう俺は目をそらしていることができずに薫を見た。薫は本気で言っているのだ。
慣れた仕草で胸ポケットの中から名刺入れを一枚だすと、その裏に何か書き付ける。携帯電話の番号のようだった。俺のマンデリンのソーサーの横に名刺をすっと出して、その手が一瞬止まる。短く切りそろえた爪。そう、湖山さんと似ていない。少年のような手。この手があの夜、俺を抱いたのだろうか?俺の背をあんなに掻いて、そして優しく撫でたあの手。
どうしてこんな風に「代わりでもいい」なんて言えるんだろう。この男なら相手になりたい奴がいくらでもいるはずなのに。
「もし・・・」
そして俺は、思ってもみないようなことを思っていたのだ。
「もし、次に薫と寝ることがあるなら、その時は湖山さんの代わりなんかじゃなくて、ちゃんと薫と向き合いたい。他の誰かなら、いくらでも代わりにできたかもしれないけど、あんたのことは、もう、傷つけたくない」
「・・・バカだなあ、タクミくんは・・・。傷ついてるのはタクミくんなのに・・・」
どうして、たった一晩の出来事が、こんな風に人を傷つけたり、庇ったりするんだろう。
湖山さんに似た瞳、伏目になると、その睫の長さもやはり似ている。色も細さも湖山さんに似た髪が耳に掛かっている。黒ぶちの眼鏡のつるが髪を少し持ち上げてまた戻る。その細い肩も低いソファからゆるく伸びた足の膝頭の感じも、やはり湖山さんとよく似ている。
そして、笑うみたいにため息をついて薫はこちらを見る。首をかしげて、にっこりと笑う。
「似てる?」
と、薫が訊く。
「うん」
と、俺は答える。
9.
久しぶりに湖山さんのアシスタントだった。
諦められる訳が、ない。
カメラを構える湖山さんをつくづくと眺める。
一体何を考えているんだろう・・・。
もしかしたら武士が切りあう瞬間ってこんな顔をしてたんじゃないか、と思う。湖山さんはきっと、何も考えていない。何も。瑣末な事も大きなことも。一瞬前の事も、一瞬先の事も。過去も未来もない、誰のものでもない(もしかしたら湖山さんのものですらない)この一瞬を共にしている。
そうだ、そうなんだ、この一瞬の湖山さんを独り占めしている、俺だけが。この場所を、誰かに譲る事なんて・・・。
そして、カメラを下ろした湖山さんが俺を見て少し笑う。「終わった!」という顔。あの顔が好きだ。いつも、いつも、あの顔が好きだった。
つられて笑う。勢いをつけるみたいに、大っきな声で「おつかれさまーっす!」と言う。できるだけウルサイ位の明るい声で。自分のその声で、自分の想いの手綱を引いて、明るくて元気なだけの後輩、になる。
機材や書類を片付ける。エネルギーを使い切った湖山さんがたまにぼんやりするのを横目で見る。魂が抜けたみたいな顔。ちょっと無防備だ、と思う。ぞくん、と自分の中の何かが鳴って湖山さんを見れなくなる。片付けに集中する。
菅生さんが湖山さんに何か話しかけている。楽しそう。湖山さんがアイフォンを手にしている。デートの約束・・・?とか?
見ない、見ない、見ない。こういうときは誰かとくだらない愚痴を言い合うに限る。適当な相手を見つけて「おつかれさま~!」といいながら余計なおしゃべりをする。
「オオサワくーん」
湖山さんがいつもと同じトーンで俺を呼ぶ。振り向くと湖山さんがいつもと同じようにそこにいて、
「飯、食ってかない?」
でも、どうしようかな、と一瞬考える。諦めるんだろ?と自分の頭の中で自分が言う。
「・・・あ、用事がある・・・?」
あぁ、湖山さん!!
「いえ、ない!!ない、です。」
自分の心の中にいる声が俺の声帯を支配する。湖山さん、そんな顔しないで。あなたが誰に心を奪われようとも、あなたがこの俺を呼ぶ限り、あなたの側にいる。
ほら、空が紫色だ。スタジオを出る頃はきっと暗いのだろう。少し肌寒いだろう。湖山さん、ちゃんと、上着、持ってきた・・・?
10.
「ま く ろ び お てぃ っ く、って言うんだって」
湖山さんがやたらとゆっくり発音したマクロビオティックが、一体なんなのか一瞬分からなくてきょとんとしていると、湖山さんは得意そうに笑った。
「マクロビオティック、な?知らねーだろ?なんだよな、それ、って俺も最初思った。」
「あぁ、マクロビオティック・・・」
「あれ?知ってるの?」
可愛いな、と思う。その気持ちを上手く利用して元気に明るく湖山さんをからかう。いつもと同じだ。なんだ、よかった、俺、まだ、できる。
「菅生さんが教えてくれたんだー」
・・・っと・・・。ずいぶん嬉しそうに言うじゃないか。ちょっと、痛い。
「へえ」
意外と難しい。できるだけ何の気持ちも込めずに言う、この一言が。目をそらすついでに、機材を入れたバッグを背負いなおす。アスファルトが街頭の下でランニングマシーンのように後ろに後ろに行くのを見つめる。
湖山さんがこっちを見ているのに気付いて、湖山さんを振り向くと、湖山さんは少しびっくりした顔をする。何か、言いたいことがあったのか、あぁ、訊きたいことかな、それとも、また、言い出せない事?
「駐車場、ある?その店・・・」
いつからこんな風に適当な話題を探すのが上手くなったんだろう、と自分に感心する。どきんとすることがあってもぎゅっとすることがあっても、なんとか見繕うことを覚えて久しい。 駐車場の車庫番号を確認しながら、さり気なさを装う。
「うーん・・・あったかなあ。ショップカード貰ってきたら良かったな。ごめんね。」
「まぁ、無くてもね。東京の真ん中にあるほうが珍しいし。コイン探せばいいから・・」
湖山さんがいつものように助手席に座るのを見届けると、なぜだか少しホッとする。後部座席に荷物を積んで、運転席に乗り込んだとき、膝の上に組んだ湖山さんの手を見てしまう。大きな腕時計が巻かれた細い手首。しなやかな指を組んで、小さな膝頭と綿パンの張る太腿の上に置かれているのを見た時、ふと、薫のスーツの膝頭を思い出した。
「湖山さん、スーツは着ないんですか?」
「え・・・?スーツ?」
「うん。」
エンジンを掛ける。答えなんかどうでもいい。何か言わずにいられなかっただけだ。
11.
不自然なくらいに結婚の話をしない。そんな話、湖山さんとしたくもないから助かるけれど、いつ言い出されるかとちょっとびくびくしたり、へんに沈黙が怖かったりして、いつもなら湖山さんが話しているときに話半分でちょっと見つめたりもできるのに、今日はもう目を見るのも怖い。
かといって女性ばかりの小洒落たレストランの静かなざわめきの中でやたらと大きな声で笑い続けているわけにも行かなくて、何でこんな時にこんなレストランを選ぶのか、湖山さんのことを(果ては菅生さんのことまで)小憎たらしく思う。
湖山さんが使うとずいぶんと長く見える箸を湖山さんは上手に使って可愛らしく盛られた薬膳料理を口にしている。いつも口数が少ない方だけれど、今日はいつもにも増して口数が少ない。薬膳料理を噛み締めて味わっている。湖山さんといるときに話題を選びながら話し続けることに慣れているけれど、こんな風に小さく可愛らしい盛り方の料理の時は特に、話し続けていなければあっと言う間に平らげてしまうだろう。俺は滅多やたらに話題を変えながら話し続けていた。
車だからお酒が呑めなくて良かった。こんな日に呑んだらグラスばかりを手にして悪酔いしたに違いない。そしてこういうときは湖山さんも絶対お酒を飲まない。お酒を呑めない俺に気を使っているからだ。
呑めばいいのに。そしたらこんなに気を使わない。沈黙も怖くない。結婚の事言い出されても怖くない。「湖山さん、酔ってるんでしょ?」ってその一言で何もかも片付けられる。湖山さんを気遣っている振りで、好きなだけ見ていられる。触れることもできる。それだけで満足な訳ないけど、でも、見つめる事すらできないより、触れることすらできないよりはマシ。
「湖山さん、呑んだらいいのに。」
二度目。
「ううん。今日はいいの。折角体にいい料理食べているんだから。」
「そう?でも、メニューにあるってことは、体にいい酒なんじゃないかなあ?」
「百薬の長っていうしね。でも、今日はいいよ。」
「そうですか・・・」
湖山さんの手が、テーブルの端の小さなランプを指先で少し押すようにして壁際に除けるように動かす。細い手首・・・。いまあの手を握ったら、温かいのだろうか、冷たいのだろうか。チラチラと揺れるランプの明かりを見つめる湖山さんの表情は、少し優しげに微笑んでいるようにも、寂しげにゆがんでいるようにも見えた。ランプの明かりが作り出す不思議な陰影。
「ワイン、貰おうかなあ・・・」
独り言のように、湖山さんが言う。ランプを見つめたまま、心の声がそのまま空気を振るわせたみたいだった。
なんだか、後ろめたい気持ちになる。俺が湖山さんに呑ませようとしたのは、全部俺の都合なのに、湖山さんの素直な言葉は何の疑いも無く、多分少しは俺(頼れる後輩として)に甘えたりしてくれているんだろうに。
ボブを小さくポニーテールに結んだ女性に、手を挙げてドリンクリストを頼む。湖山さんはランプからゆっくりと目線を上げて、また、長い箸を掴んだ。小さなポニーテールの女性がよく出来た作り笑いを浮かべて「ドリンクメニューですね」と確認してまたキッチンへ向かう。白いシャツに今日一日分の皺を携えている後ろ姿は凛々しく美しい。湖山さんは静かに箸を動かしている。
ドリンクメニューの上から下に向かって細い指を動かしている。時折指が止まる。多分こういうお店の割りには品揃えが良くリストは長めだ。時折首をかしげる湖山さんの癖が前髪を揺らし、ちらちらするランプがまた不思議な陰影で湖山さんの表情を魔法のように変える。
ワインと言ったのに湖山さんは焼酎を注文する。メニューリストを渡しながら女性に微笑む横顔が本当にとても魅力的だ。きれいな手。やっぱり似ていない。
「ワインって言ってたのに、焼酎?おっさんだなあ」
照れ隠しのようについ冷やかしてしまう。
「おっさんだもーん」
と可愛すぎるおっさんが笑ってまた箸を持つ。そして、歯ごたえのある可愛らしい料理を咀嚼する。俺も同じものをつまんで、同じように咀嚼してみる。よく分からないけれど、体にいいんだな、と思う。
口を大きく動かして咀嚼している湖山さんと目が合うと、なんだかおかしくなって噴出してしまった。男二人がこんな風に洒落たレストランで可愛らしく食べ物を噛み砕いているのはユーモラスだ。
こうやって、いつまでもこの人と一緒にいたい、と心から願う。欲して欲して得られない辛さがどんなに俺を苦しめようとも、この人といる一瞬、一瞬、そしてこの人のこんな笑顔が、そして、笑顔以外の何もかもを、どんな風にでもともにすることができるならこれ以上何を望むことがあろうか、と強く思う。
12.
助手席で眠る彼に今、くちづけたら目を覚ましてしまうだろうか。もちろんそんなこと、するつもりはない。もし目を覚まさないと分かっていたって、そんなことしない。したいけど。
両手を緩く組んで(というか、組んでいた両手がゆるんで)、腿の上に乗せ、シートベルトをした体が少し窓際に傾いでいる。一生懸命起きようとしていたさっきまでの湖山さんの努力を思い出してつい笑みがこぼれる。この人の事なら何でも甘い。
高速道路にのってもいいけど、“経済的”という理由でのらない。でも本当は”時間的”な理由。
街道沿いに真夜中まで開店している店がバカみたいに明るい。路上駐車してラーメン屋に入っていくカップル。入り口だけがうっすらと明るいマンション。時代に置いてきぼりにされた小さな老舗の閉まりきった雨戸。
高級車のディーラーの薄暗いショールームの前の生垣で若い男性が休んでいるのが見える。具合が悪いのか、酔っ払っているのだろうか。駐車場の奥から男性が歩いてくる。ディーラーの社員だろう。きっと注意されるぞ、と思う。それとも二人とも社員なのかもしれない。営業マンと技術屋とか?そんなことを一瞬で色々考える。
ゆっくりと発進して、ゆっくりとブレーキを踏む。それでも車が発進したり、止まったりするたびに湖山さんの小さな頭が窓にこつりと当たりそうだ。柔らかそうな髪が揺れる。そして、半開きの唇を見ては目をそらして、俺は本当に・・・。
あ、月が、見える。走っていく先のビルの隙間で見え隠れしている。運転しながら見れることなんて滅多にない月を、もっと見たいと思えば思うほど、月は俺を翻弄して、右に隠れたり、左に隠れたりしている。いつか、見えなくなることがあるとしても、まだ見えるかもしれない一瞬を逃したくない。
赤信号で止まるたびに、このまま青になんてならなければいい、と思う。
だけど、信号は必ず青くなって、俺は進まなければならない。何度でも信号にひっかかりたい。この人の家まで、もう、あと幾つの信号があっただろう。
「んん・・・いま、どこ?」
「いま・・・笹塚すぎたトコ・・・。」
「ちょっと・・・ウトウトしちゃった」
「いいですよ、寝てて・・・」
眠そうな湖山さんについ見とれていたら、青信号に気付かなくて後続車にクラクションを鳴らされた。できるだけゆっくりとギアを入れ替えて発進する。後続車をもっとイラつかせちゃうみたいで申し訳ないけれど、どうか、許して。バカな恋をしている俺の後ろについてしまった運の悪いアクシデントだよ。
シートベルトを外して、湖山さんが上着を脱ぐ。
多分気のせいに近いくらいの微妙さで、湖山さんが上着を脱いだ瞬間この車内に湖山さんの匂いが充満する。そして、上着を脱ぐ時に捩じった体がこちらに近づいたほんの一瞬、彼の体温を感じた気がする。このまま閉じ込めておきたい気持ち半分、胸がつぶれそうで、窓を開けて深呼吸したい気持ち半分。
「暑い?窓、開ける?」
と、俺が聞くと、
「いや、大丈夫。脱いだらちょうどいい」
と咳払いをしながら少し掠れた声で言う。パーカーを足に載せて、またシートベルトを締める。シートベルトのカシャリという音が、似ても似つかない俺の心臓の音のようだった。
信号は、変わる。いつまでも赤くはない。そしていつも青信号な訳でもない。
この道をどこまでも行ったら、湖山さんの家。そして、道はどんなに回り道になったとしても、必ずどこかでつながっている。それだけが、今の俺にとってのこの人生の宝。
13.
髪の毛の先から足のつま先まで知っている女がヴァージンロードを歩いてくる。一歩、一歩、赤い絨毯が血の海のように見える。眩暈がするような赤。彼女の真っ白なドレスが、揺れながら次第にはっきりと大きく迫ってくる。
もう、後戻りが出来ない。
俺は、人の夫になります。
結婚、って何なんだろう。
どうして俺は結婚しようなんて思ったんだろう。
年老いていく両親や家庭を築いていく友人達の中にいて、結婚することがこの人生でとても大事な事のように思えた。ひとつ、責任を果たすような気がした。だけど、こんな義務感みたいな結婚なんてどこかオカシイだろ?って思う自分がいる。
だけど、結婚するならこいつだと思った。こいつならいいな、と思う相手がいて、きっとこうやってずっと続けていくんだろうな、と思えたら、それが結婚の相手なんじゃないのか?これで、合ってるよな?何度も何度も自分に訊いてみるけど、いつも答えがでない。そして、答えが出ないまま、俺は人の夫になる。
よく知っている体温。彼女がいてくれたら、俺はきっと上手くできるだろう。自分を偽り続けることに慣れて、どれが本当なのか分からなくなるくらいまでこいつと生活を共にして、いつか、こんなに迷い続けた自分を思い出すのだろうか?
そうだ、これは血の海ではない。血の橋だ。この橋を渡って普通の32歳の男という道へ行くのだ。32年間悩み続けた自分の生き方に決別する。何もかも諦めてただの普通の男になる。「夫」という言葉がそれを裏づけしてくれるのだ。
明るい未来、と人は呼ぶのだろう。血の橋の向こう側に開いた扉が眩しい光を抱いて「さぁ、来るのだ」と手招きする。そうだ、これでいい。もう、何も考えなくていい。失いたくないなら、求めなければいい。この橋を渡って、その道を歩き始めたらもう、求める権利もなくなるのだから。
もう、恋をしない。
そうだよ、もう、出来ない。
諦めることを選んだ自分。
いつか、少しずつでいいから、想い続けた気持ちを確かな友情に変えていけますように。
止まり続けることができないこの人生で、せめてあなたの後姿を、せめてあなたの横顔を、そして、あなたの視線に入ることのないファインダーの外側でも、不埒な想いを抱えずにあなたを見守り続ける一瞬を積み重ねてこの道の先へといけますように。
祈りながら、赤い血の橋を渡る。
14.
「お お さ わ ~ ぁ !!」
湖山さん・・・?
眩しい光の中へ一歩踏み出して、新しい自分に生まれ変わる、この瞬間に立ち会ってくれた人たちの笑顔と拍手と激励の言葉の渦の中に、湖山さんの声が聞こえた。
「オ メ デ ト ~ ォ!!」
何もかも忘れてしまう。何度も迷って何度も言い聞かせて、やっと覚悟したほんの一瞬前。
声のした方を捜す。湖山さん、どこにいるんだ。ブーケトスに一際大きくどよめいた歓声ととぐろを巻くような人々の中に、湖山さんの姿を捜す。
いた!!
見つけた!!
湖山さん・・・・!!!
菅生さんと並んで歩いている後姿の湖山さんを見つける。ほんの一瞬躊躇ったとき、花嫁を囲む渦潮が俺を押し出すようにして、まるでそれが俺の背中を少し押したように俺は湖山さんを追いかけた。
(おねがい、どいて、行かせて、行かせてくれ・・・!)
「湖山さん!!」
「湖山さん!!!!」
何度も呼ぶ。叫ぶ。
チャペルの前の小道が尽きるその時、湖山さんがスローモーションのように振り向いた。
ざわめきを背にして、そこに、たった二人しかいないような気がした。
湖山さんがもう一度菅生さんを振り向いて、菅生さんが優しく微笑んだ。湖山さんにほんの少し手を上げ、そして俺を見てもう一度にっこり笑うと、小道の先へ歩いて行った。
俺の頭の中に、真っ黒に焦げたホットケーキが浮かんだ。色んなことがあった。積み重ねてきた友情と信頼の月日。自分を偽りながらでも、彼と共にした一瞬、一瞬。胸を焦がしながら、食えない想いを秘めて、積み重ねてきた何年も。
ホットケーキ、いつかまた、食べてくれるだろうか?
心を込めて作るから、湖山さんの為に、湖山さんの為だけに作るから。
赤い橋を渡ってこの道にたどり着いた。秋の風が吹く。風に押されたように湖山さんと俺と同時に一歩づつ踏み出して向かい合った。湖山さんのスーツの肩に白い花びらが一枚乗っている。花びらを摘み、湖山さんが差し出した掌に乗せると、また風が吹いて花びらを運んで行った。
目で追ったその先に、白い小さな花びらが遠く遠く飛んで見えなくなった。
湖山さん、あなたに言いたいことがある。
ひとつだけ、どうしても、偽れないことがあったって気付いたんだ。
「湖山さん・・・あのね、俺・・・・」
終わり