第8話《今は遠い場所》
僕は詩人に倣って、持っている本をすべて読み返した。作家の道へと僕を誘う先導者。ある者は技法を教え、ある者は比喩の使い方を説き、ある者は、そっと伝え方を囁く。
読み終えた本を一冊ずつ片付けていく。そうして一つの本棚が出来上がる。
ある午後、僕はふらっと伍坊駅の方まで足を運んで、缶コーヒーを飲みながらそこいらに散らばっている生活に目を通していた。買い物袋をぶら下げた男が一人、駅の中に消えていく。昼間から酔っ払った中年の男が、ショーウインドウの前で座り込んでいる。
そんな中で、なかんずく僕の目を奪ったのは、父親と母親に手を取られて、子供らしく跳ねたりしている幼い男の子。まだ僕が兄になる前のことだ。僕にも、あんな時があった。
母はもういない。父はおよそ父には縁のない場所に働きに行っている。一か月ごとに生活費を送ってくるけれど、それだけでは、僕の、もとより千尋の寂しさは満たされない。
男の子がこちらを振り向く、無邪気な姿と表情で、彼は僕を見る。僕も応じるように、彼から目を離さなかった。すぐに忘れるのであろう彼の顔を、焼き付けようと必死になる。彼はとうとう僕から目を離し、どこかに消えてしまう。
「ああ……」
壮大なようで、非常にあっさりとしたノスタルジーを飲み込みながら、僕は缶コーヒーに口をつける。
僕の意欲は積極的だった。けれども計画性のない足取りは、気が付けば河川敷にまで足を延ばさせていた。そこは不思議と蝉もいなかった。草のにおいがして土のにおいがする。ただそればかりであった。
僕は草の茂った斜面に座り込んで、なんとはなしに、あの川の水面に、ときおり飛び跳ねては消えていく魚がたてる細波が、いつの間にか消えていくのに気付いて、急に淋しさを覚えた。まもなくもう一匹が跳ねる。つられてもう一匹跳ねる。しかし、細波はすぐに消えていった。
「あれ、城戸くん?」
振り返ると、水島が足踏みしながらこちらを見ていた。
「なあにしてるのさ」
水島は僕をからかいでもするような調子で僕の隣に腰を下ろした。
「散歩かな、それらしく言うなら」
「なるほどお」
ややパーマのかかった髪が静かに揺れる。彼女は膝を抱えて意地悪な笑みを浮かべ、まるで僕をおもちゃにでもしだしそうな様子だった。
「水島は?」
「わたし? ううん、特訓かな。それらしく言うなら」
僕の言葉を拝借しながら、得意げな顔の彼女は小刻みに体を揺らし始める。その行為が、なぜだかこの場の主導権を奪われているような気さえさせていた。
「やっぱり、努力家だね」
僕が何気なく言うと、水島は照れ臭そうに唸った。
「城戸くんの隣で怠けております」
彼女は不意に、草の上に寝そべった。
「どうしてそこまで頑張れるの?」
水島はどこだか遠くを見つめて、やや大赦色になりかけた空を、その目に映していた。
「夢、だからね。もしなれなかったとしても、やれる努力は全部やりたい。いつか諦めがついたときに、潔く投げ捨てられるように」
僕はしんみりとしだした水島と同じように、草の中に横たわって、彼女の言葉を聞いていた。美しくも頼りない、そんな言葉を。
「似合わないね、真面目な話」
「あはは。よく言われるのだ」
とうとう日の暮れだした頃、水島は立ち上がって、僕に一言別れを告げて走り去った。
僕は唐突に、ああしてシルエットに変わっていく水島の姿を、どうにか鮮明に描きたくなっていた。呼び止めてしまおうか迷っているうちに、水島は消えていった。
「ああ……なんて……」
彼女の姿勢に、そして彼女が秘めている夢の形の美しさをそこはかとなく感じながら、ついと息をこぼす。