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第7話《見失っていた感情を》

 もうじき夏休みを迎える。このごろ学校の雰囲気がざわついて、あまつさえ浮ついた空気が流れだした。多くの生徒にとっては、長い休日である。文芸部に入る前なら、僕もそうだったのだろう。だが、海へ出かけるよりも、山でキャンプをするよりも、やらなければならないことが少なからずある。

「城戸くんって、数学得意?」

 放課後の文芸部室。部長はお気に入りらしい窓辺の椅子に座って、夏休みの宿題に取り組んでいた。僕と松坂もそれに倣って宿題をやっている。

「得意ですけど、さすがに二年生の問題は解けませんよ」

「うーん……」

 部長は口を歪めてがっかりしていた。しかし投げ出すことをせず、腹をくくったように息を吐くと、再び宿題と向き合う。僕はその姿勢が気に入った。

 エアコンのない文芸部室には、扇風機が一つあったけれど、蝉の威圧感は、それだけでどうにかできる代物ではなかった。

 松坂がペン先をわざとらしく机で鳴らす。僕が顔をあげると、彼はすかさず口を開く。

「前から気になっていたことがあってさ」

 僕は身構えるように息を細くした。

「城戸はどんな小説が書きたいのさ」

 別段、都合が悪いという訳ではなかった。なのに、僕は黙ってしまう。自信が持てないのか。はたまた、まだぼやけているのか。はっきりとは分からない。いろんな言葉を見繕っても、僕を満足させるような台詞は浮かばなかった。喉に骨の刺さる感覚がする。息苦しくなる。

「……まだ、わからない」

「そっか」

 松坂は追及しなかった。それは僕にとっては救いだった。

 ふと部長の方を見、僕は途端にきまりが悪くなった。僕を見てはいなかったものの、部長はペンを止めて、名状しがたい感情を湛えたまま、遠くを見つめていた。あえて言葉にするなら、焦燥や倦怠といった負の感情である。僕がそんな部長に見入っていると、彼女は僕の姿を認めて、まるで彼女の方でもバツが悪くなったとでも云った風に、慌ててペンを動かし始めた。


 部活と銘打った勉強会が終わる頃には、傾いた夕日が、遥か向こうに堂々とそびえている山の端と、もうじき触れ合いそうにしていた。

 部長を残して、僕と松坂は先に家路につく。

 立派なようで、どこかくたびれた風にも感じられる校舎が茜色に染まっているのを認めていると、どことも知れない遠くの方で、ふいと短い声がした。

 それは、蝉の断末魔らしかった。

「さっきの話だが」

 昇降口で互いにスニーカーに履き替え、松坂が慣れた手つきで靴紐を結ぶ横で、僕はその靴紐を、なんとも結びにくそうにしていた。

「本当に、何もないのか? 書きたいもの」

 松坂は立ち上がった。彼は僕を優しく見下ろした。僕はその問いに頷いてみせながら、ようやく結び終えた靴紐が、なんだか不格好なのを腹立たしく思って、けれど解くことをしないまま、まもなく立ち上がった。

「そっか。なら、探すしかないよな」

 いくぶん気まずそうに松坂が言いながら、僕らは昇降口を出た。他の部活は、まだ活動の最中であった。グラウンドでは野球部の掛け声がして、校舎のあちこちに反響して、なんだかもどかしい位に混ざり合った吹奏楽部の音までもが、一日の終わりを悲しんでいるような気さえされて、僕はごく自然に空を仰いだ。

「ちなみに俺は、熱い話が書きたい」

 そんな僕には構わずに、松坂は続ける。

「ようはスポーツものだ」

 言いながら、松坂がどこかを眺めている姿に気づき、僕もそちらに目をやると、そこには野球部の練習風景が広がっていた。沈む日に照らされた彼らの姿は、半ばシルエットで、鮮明には映らなかった。けれども、松坂には鮮明に受け取れたのだろう。彼らを見つめる松坂の瞳は、なぜだか思いつめて、かつ悔しさを滲ませでもするように、自分のすぐ近く、声を上げれば届く場所にいる彼らを、まるでそれらが遠くにあると言わんばかりだった。

「帰ろうか」

「おう」

 僕らが校門を出ようとしかけると、ジャージ姿の一団が、校門をくぐり始めた。

 どうやら陸上部らしいと分かると、その中の一人と目が合った。

「あ、マッつんと城戸くん。遅い帰りだね」

 小柄な女生徒は、その場で足踏みをしながら声を出した。水島という女生徒は、松坂の幼馴染だ。僕らのクラスメイトでもある。彼女は、陸上部の努力家として、はやくもそれなりの知名度がある。

「ああ、いちおう、部活には入っているからな」

 松坂がなぜだか自信を滲ませて言うのを見て、そんな松坂の心情を、すべて見通してでもいるように、水島は静かに微笑を浮かべた。

「頑張って。……じゃあねー」

 走り始めた水島の背中を、僕らはほんの少しだけ見つめていた。ゆっくりとシルエットに変わる彼女の、あの肩にかかった髪の隙間から、橙色した光が現れては、一瞬に消えたりなんぞしだした。やがて水島を見失った僕は、まるで何も見なかったとでも云った様子で、自らの家路に足を踏み出しながら、けれども彼女のまっすぐな姿勢が忘れられないのか、いくぶん足取りの重いのを感じていた。松坂も、思うところはあるらしく、先ほどから気難しい顔を崩さなかった。


 家に着いた。

 自室に入ると、僕は無造作に鞄を放り投げて、なんとはなしに椅子に座った。まもなく原稿用紙を取り出して、なにやら書き出そうとしてみるのだが、君の満足するような話は、どうしても書けそうになかった。僕は衝動のままに原稿用紙を握りつぶして、出来るだけ遠くに投げた。まもなくそれは地に落ちた。

「…………」

 打っ棄っておきながら、僕は未練がましくそれを探した。それのあった場所は、本棚の前だった。そこには、母に読んでほしかった未完成の処女作がある。

 本棚に近づき、僕はまたしても衝動に駆られ、藁でも掴むように、すがりつこうとでもするように、埃にまみれた本を散らかした。多くの本が、僕の手で床に落とされる。それらはいずれも、大きく音を出す。やがて、僕はそれを見つけ出した。

「ああ……」

 焦りのような衝動が消え、僕は安堵した。床に散らばった本など、もう気にもしなかった。

 束ねられた原稿用紙。昔の僕が書いた、ささやかな夢への道程。今の僕が、あなたに尋ねるように、そっと、それを読み始める。


 僕はそっと原稿用紙を机に置いて、天井を仰ぎながら堰き止めていた息を吐きだした。加えてこれまで忘れていたものを思い出したので、僕はなにやら悲しくなって、目頭が熱くなって、とうとう涙をこぼした。

 もう、誰もこれを読むことはないのだろうな……。

 読者を失い、ついには作者の手によって捨てられた小説。稚拙な文にせよ、そこには確かに作者の夢が詰まっていた。

 そんな時である。母のためにと書いていた小説の、その執筆中に作者がどんな気持であったか、僕は具に思い出した。


 ああ、どうしたって、時間は経ってしまうだろう。けれども、辛抱して待つがいい。君は母の代わりではない。君のために、君を泣かせ、悩ませ、楽しませるために、僕はもう一度ペンを取ろう……。


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