第5話《ほころびた夢の隙間を》
7月中旬。街路樹に留まった蝉が、もう一斉に鳴き出しているのを認めながら、僕は君に会いに行く。とうとう僕の中で我慢が出来なくなったのだ。夢を追う理由をなくした僕に、それでも夢を追わせようとする、あの強情な、君の夢とやらが、どうにも気になって仕方ない。
土曜日の病院は閑散としていた。照明は薄暗く、活気がないというのはおかしいが、寂しかった。
エレベーターに乗ると静かになった。僕は1人ぽつんと立っている。モーターの音がする。足元が急に張り付く感覚がする。果たして歩き出せるのか不安に思うほどに。君のいる階に着くと、自然とそれは無くなっていたけれど、歩き方を忘れでもしたように、少しの間があった。やがて扉が開く。僕は歩き出す。
ナースセンターに立ち寄りはしなかった。君が待合所の窓際のソファに腰掛けて、外を見やっていたからである。
僕は驚いた風をして、おもむろにそちらへ近づいた。すると、君の方でも僕に気づいたらしく、こちらを振り返った。
「こんにちは、曽良さん」
「横になってなくてもいいのかい」
僕は君の隣に座った
「ええ。いつまでも寝てはいられませんから」
君は窓に目をやる。僕は君をただ見つめている。なぜだか落ち着く気持ちと裏腹に、君の目をこちらへ向けさせたいという欲求が巡った。しかし、今は君の思うままにさせておいた。
しばらく僕らは黙っていた。前は君を喋らせまいと、あれやこれやと質問をしたものだが、今度ばかりは、君に喋って欲しい。僕には勇気がなかった。君の内に土足で踏み込んで、君の夢を知りたくはない。君を傷つけるかもしれぬことを、どうして出来ようものか。だから、どうか喋って欲しい。
君は欠伸を一つした。僕もそれにつられた。
ぼぅっと目を細めてふらつく君の肩を抱き寄せて支えると、逆らうことなく、君は僕のしたいようにさせていた。時折、くすくすと君が笑う。僕は恥ずかしくなったけれど、君を手放す気にはなれないでいる。
「曽良さん」
寝ぼけ眼で僕を呼ぶ。
「なに?」
「部屋までお願い出来ますか? なんだかこのまま寝てしまいそうで」
「ああ、そのくらいなら」
立ち上がり、僕は君を連れていく。君は僕の腕にしがみついたままでいた。おぼつかない足取りが、無理をしたことを伺わせていた。僕はそんな君を転ばせまいと、君の歩調に合わせて歩く。まるで、互いが互いを必要とでもしているように。
僕の腕から離れ、ベッドの上で横になる君の手を、気がつけば手にとっていた。君もそれに応じながら、段々と目を閉じていく。僕は僕の内で行き交う感情を、吐き出すべきなのか悩んでいた。
「曽良さん」
目を閉じたまま、君はにこやかにしていた。
「なに?」
僕は前かがみに訊ねる。
「昔、曽良さんが陶芸家になりたいって言ったこと、覚えてますか?」
「ああ、覚えているさ。保育園の時だ」
「あなたがあまりに綺麗な泥団子を作るものだから」
「君が褒めなければ、陶芸家も目指さなかった」
「あら、私のせいみたいに仰るんですね」
「だってさ……」
僕は言いかけて、口をつむんだ。幼い感情が唐突に蘇ったものだから。
「……かさね」
「はい」
直前で悩んだ。けれども、何をするべきかは明らかだった。形だけの夢に、君は理由を与えてくれる。僕の内に眠っている詩人を起こすことができる。
「どうして、かさねは、本を書けと言うんだい」
僕は静かに待っている。君はどこかうわのそらでのように聞いていた。目を開いて、天井の辺りを見やって、それでも、困ったという風ではなかった。
やがて君は僕を見、嗄れた声で、まもなくこう言った。
「あなたが作家を目指すと教えてくれたとき、私は、きっと、またすぐに飽きてしまうのだと思っていました。……だって、あなたは優柔不断だったもの」
さながらしがみつくように、君は僕の手を強く握った。
「でも、あなたは今も飽きないでいる。夢を、変えられないでいる。だから……」
尻窄みになるその声を、僕は聴き逃すまいと、ベッドに手を突きさえして、君に身を寄せた。
「よほど、素敵な夢なのでしょうね」
僕はどんな顔をすればいいのか、ついに分からなくなって、君のひた隠しにしていた感情を、受け止められないでいる。
すると君は寝返りをうって、体をこちらに向けたかと思うと、また、不意に僕の頰に手を当てた。今度は目を逸らさなかった。いや、逸らせなかったのだろう。気づけば僕は、君の虜にでもなった風で、君から離れられなかった。
「寄り添わせてください。あなたの夢に」
切実に、君は僕に懇願でもしている風だった。
ああ、そういう君の夢であるなら、僕はそれに応えよう……。
僕は口の裡でそんなことを繰り返す。
「今の僕は、前みたいに情熱を見出せないでいる。書くのは薄っぺらい話ばかりさ。それでも、寄り添うと言うのかい」
君はそっと手の力を抜いた。さも嬉しそうな顔をして。
「はい」
君に倣い感情を滲ませながら、僕は強く、その手を握った。握るばかりか、君の体を抱き寄せては、名状しがたい感情に震えさえした。
「しばらく、待っていて欲しい」
「はい」
やがて君は微睡みに落ちる。僕はゆっくりと、君を手放す。