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最終話《平凡なイデア》


 学生の特権である夏休みという期間に僕が学校に出向くのは、これが初めてのことである。一応は部活に属している訳だから、なんて言うとこじつけのように聞こえるが、家で所在ない日々を送るのも味気ない。それになにより、今を逃せば味わえない体験でもある。


 部室に入ると、まるで示し合わせでもしていたように部長がいて、驚くこともしないままこちらに一瞬目を向けた。

 二言三言、挨拶を交わして僕は窓際の席に座った。これには対面に座る部長も驚いた、というよりは困惑したと云った風にこちらに視線を向けた。

「ずっとここにいたんですか?」

 僕はすかさず尋ねた。

「部長が部室を私物化しちゃダメ?」

 冗談めかした調子で彼女は微笑んだ。窓際のお気に入りらしい椅子に足を組んで座って、膝の上で文庫本を広げている姿には、今更ながらに、この部屋の主を思わせるような風格があった。

「私が入部したときは、ここも賑やかだったんだけどね……」

 しみじみとした口調で、彼女は部屋の隅々に熱い眼差しを巡らせた。

 僕はまだ入部して日が浅い。だから、この部屋について思い出せることは少ない。それでも僕は濃い時間を過ごしたと実感しているけれど、彼女にとっては、およそ僕では理解のできない思い出の数々が散りばめられているのだろう。

「楽しかったでしょうね」

 想像の域を脱することは出来ない。でも、作家を志す者が二人そろっただけで、衝突や葛藤が生まれたことを僕は知っている。悲しくて、嬉しくて、楽しかった。それが数人集まれば、どれだけの経験が出来たのだろうな。

「うん。楽しかった。……でも、みんないなくなったの。時計の砂が落ちるようにね」

 彼女がどこか諦めた風にしているのを認めると、僕が今までに感じてきた彼女の視線に込められた意味が、はっきりと受け取れた。

「部長」

 僕は彼女が振り向くのを待った。言わなきゃいけないって思うことがある。決意が揺るがないように、先走ってしまわないように、僕は待っていた。

 やがて部長が僕を見つめて小首を傾げる。

「書き終わりました。僕が書きたかったもの」

 部長はまるで何かを惜しんででもいるように、印象深い吐息を漏らした。

「そう……。良かったじゃない」

「……だから」

 僕は出来るだけ会話を途切れさせまいとして口を開いた。努めて冷静でいるつもりだったけれど、いざ口に出そうとすると、これでいいのだろうかとだれかが問うてくる。

 僕は自信家ではない。元来、優柔不断で決断力には乏しかった。でも、なぜだかこうしなければならないと思えることはあった。父さんに電話をかけたことも、自分の小説を書きあげるという行為も、そう思えた。

「だから……だから……」

 迷いが言葉をかき乱す。

 あれだけ言葉を紡いできても、思いを口にするのに、長い時間がかかった。

「だから、今度は部長の番だって、思うんです。ずっと考えていた。ずっと、あなたをずるい人だって思っていた。僕の書いたものを、読むだけ読んでおいて、自分の書いたものは読ませてくれない。書きたいものがあるのかも教えてはくれない。卑怯ですよ、そんなの。作家が夢なんですよね。だったら、もしも書きたいものがあるなら、書いてあげなきゃ、可哀想だ。僕に書けないものが、あなたは書けるはずだ」

 僕は俯きながら気持ちを吐き出した。どうにでもなれって気分だった。

 部屋が静かになったのを認めると、まもなく、盛夏の合唱が賑やかに響き始めた。

「……私ね、分からなくなったの。自分がなにを書きたかったのか、なにをどう表現したかったのか。答えがあったのに、消えたの、答えが」

 僕が部長を見ると、その顔はどういう訳か、嬉しそうだった。

「教えなかったから、知りようもないことなのに、城戸くんは、そんな風に言ってくれるのね。なにも知らないくせに。……でも、そうね。ずるいかもしれない。私のしていることって。部員にそう言われたら、なんだか嫌になる、自分のこと」

 部長はおもむろに立ち上がった。そしてテーブルに指を這わせるようにしながら、僕の方へと歩み寄ってきた。自分が通ってきた道を思い出すかのように、初心を取り戻したとでも云った風に。

「……部長?」

 僕の肩に手を置いた彼女は、優しい目をしていた。

「城戸くんに言われて、ちょっとだけ思い出せた気がする。自分が書きたいもののこと。……また、忘れちゃうかもしれない。でも、絶対、あなたに書けないもの、書き上げてみせる。……それまで、待っていてくれる?」

 僕は彼女の決意を目の当たりにして、自然と頷いていた。




 部室を出るまでの間、僕はずっと本を読んでいて、部長はまるで我を忘れたとでも云った風に必死な様子で原稿用紙にペンを走らせていた。蝉をバックに、物語を紡ぐ旋律が響いていた。一言挨拶を述べてから立ち去ることはしなかった。僕はオーケストラの演奏中に席を立つ客のように、なるべく音をたてぬことに努めながら部屋を出た。

 扉が閉まると急に恥ずかしくなったが、悔いはなかった。

 沈みかけた夕日が照らす、蜂蜜を塗りたくったかのように輝く廊下を歩き、僕はこれから、どこへ行こうかと悩みだしていた。こんなこと君が知ったら、苛立たせてしまうだろうか。

「あ、城戸くん!」

 階段を降りようとしかけると、ジャージ姿の似合う水島が上がってくるところだった。足踏みを止めないのを見るに、まだ部活の最中らしい。

「吹奏楽部以外の文化部が夏休みに部活やってるなんて、ちょっと意外かも」

 汗の染みた前髪を揺らして、水島は至って涼しげに言った。

「今しか出来ないじゃないか、こういうことって。まあ水島と違って、大きな目標があるわけじゃないけど」

 僕が言い終えると、水島はようやく足踏みを止めて、階段に腰を下ろした。

「ふう……。わたしも、大きい目標があるわけじゃないよ?」

「というと?」

 僕はわざとなにも知らないと云った風に訊き返した。水島の紆余曲折のない感情は、触れていて心地がいい。だからもう一度、聴きたかった。自分の道を自分の歩幅で進むと決めた僕なら、もっと素直に、隣を走り抜けていく彼女を微笑ましく思えるだろうから。

「好きだからね。仕方ないよ。やりたいんだもん」




 昇降口で靴を履き替える。不器用な僕にしては綺麗な蝶々結びが出来たことに満足しながら、僕は歩き出した。

 近くで快音が響いた。それは今しがた、グラウンドで練習をしていた野球部の、バットがボールとぶつかり合う音らしかった。空中をさまよう迷子が一つ、夕日に照らされる小さなシルエットが、僕の目に入ると、目の端にグローブを構える男子生徒が一人見えた。それは松坂らしかった。

 松坂のグローブにボールは吸い込まれていって、また一つ音が鳴った。低く重たい、身に染みる音。多くの子供に夢を持たせる音だった。

 僕はふと、迷子は良いものだと思った。

 帰る場所があるから、必要とされているから、人は、それを迷子だなどと呼ぶのだろう。

 彼の顔がまえよりいきいきしているのを認めてから、彼の行動力に少しばかり嫉妬めいたものを抱いた。

 僕は君がいなければ、やるべきことなど忘れたままだった。でも、松坂は自分で気づけた。嘘をつくべきではないと。もっと正直であるべきだと。簡単そうに見えるけれど、これがどうして難しい。


 感謝はしない。君はそれを望まないだろうから。しかし約束は果たすとしよう。ただ一人の読者、擁護者にして批判者な君のもとへ、いい加減向かうとしよう。




 君はもう退院していた。連絡をくれさえすれば迎えに行ったというのに。とにもかくにも、君は家に戻っているから、当然、君に会うには家に行けばいいのだが、千尋までついてくると言い出して、家に行ったら君のおばあちゃんは夕飯を食べて行けとうるさかった。やたらと障害物が多いように思った。二階の部屋にいるらしい君は、僕らが台所で世間話を始めたところで、降りてくる気配すら感じさせなかったから、僕は鼓動を一つ刻むたびに、飽くなき思いを前よりもいっそう味わい深くこしらえていた。


 ようやく君のおばあちゃんと千尋は、僕を蚊帳の外にして料理の話をしだしてくれた。僕は焦らされてでもいたように、けれども騒々しくすることのないように努めながら、踏みしめればわずかにたわむ階段を一歩のぼっては呼吸を整え、また一歩踏み出しては深呼吸する一連の動作を半ば楽しみながら、とうとう君の部屋の前に来た。

「……かさね」

 君には聞こえないように、扉の前で名前を口ずさむ。なぜだろうな。君の名前は、僕にとって特別なもののような気がしてならない。思い出のまにまに漂う僕の気持ちを、君の名前に乗せてしか伝えられない僕を、どうか許してほしい。

 僕がゆっくりと扉を開くと、唸りをあげるその隙間から、君の姿がおもむろに現れた。

 君は畳の上に体を落ち着けて壁にもたれ、どうやら眠っているらしかった。

 僕は足音を立てないように、ぎこちない忍び足で君の方へ近寄った。君が首をくねらせて唸ると、僕は柄にもなく口元を緩めたまま固まった。もういたずらをするような歳でもないというのに。君がからかい甲斐のある子だから、なのか、僕がからかいたいだけなのか。あまりこれについて考えた記憶はない。考えるより先に、僕はこうやって君にちょっかいをかけていることの方が多かったのだから。

「かさね」

 君は気づくのか。僕が今、どんな思いで君を呼んでいるのか。気づかなくとも構わないけれど、もし気づいたのなら、どうか、僕の名前を呼んでほしい。

「読んでくれないか?」

 僕は書き上げた小説を君の方へ差し出した。

 君は静かに目を覚ます。ゆったりとした仕草で、僕の処女作を受け取りながら、いつものように、微笑んで見せた。

「はい……曽良さん」


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