第22話《平凡な世界》
「お兄ちゃん。起きて起きて」
慌ただしい千尋の調子が、目覚めたばかりの僕には鬱陶しかった。しかし体を揺すられていると二度寝も難しいので、僕は仕方なく体を起こした。
「……どうかしたの?」
軽い頭痛がしていた。手首も少し痛む。夜遅くまで頭をひねって原稿用紙に向かっていたせいなのかもしれない。そう思うとなんだか誇らしい気がして、千尋の行為を自然と受け止められていた。
やけに近くにいる千尋の目の周りは腫れてでもいるように赤かった。悲しいことでもあったのだろうかと思ったけれど、千尋が嬉しそうに、まるで世界の秘密でも見つけたとでも云った風にはしゃぐ姿を見れば、今しがた階段の方から微かに聞こえてきた足音が、だれのものなのかは容易に分かってしまった。
僕の心情を見透かしてでもいるように、千尋は余計な言葉は一切口にしなかった。素材の味を生かす料理人のごとく、僕の思いに雑味を加えないでいてくれる。
高鳴る胸の律動が、小気味いいパーカッションとなって期待を奏で始める。
千尋が開けっ放しにしたらしい扉に人影が写り込むと、やがて期待が確信へと推移する。
「泣きたくもなるか。僕も、同じだ」
乱れている千尋の髪を撫でながら、あなたのために乱れた僕の心が、酷く苦しく、けれど気持ちがいいそれが、いちいち僕を先走らせた。
「父さん」
扉のそばに現れた、少し痩せた父さんの姿。思わず、声が出ていた。ずっと、あなたに父さんと呼びかけたくて、僕の名前を、呼んで欲しかった。
「ただいま。曽良」
どれだけ長かっただろう。これまでの道程。すべてはこの感情のためにあったと言わんばかりだ。
ずいぶんと、遠回りをした気がする。
美しい世界だ。平凡で、満ち足りた理想の世界だ。
千尋は台所に立っていた。リビングには僕がいて、父さんが隣にいる。
二人してソファに腰かけたりしていると、昔ばかりを思い出してしまう。
父さんがいて、母さんがいて、千尋がまだ小さくて、僕が夢をころころと変えていた。遠くて近い。近いのにうっかり忘れそうになる。抽斗に収まりきらない日々の軌跡。僕と千尋には、きっと、溢れていても足らないものだ。抽斗の周りでさえも、その色で飾りたい。
母さんも、それを許してくれるだろう。
なにを話そうか。なにを訊こうか。とても悩ましい。
「まだ、夢は変わってないのか?」
父さんは微笑みながら僕に尋ねてくる。隣り合う僕らの後ろからは、料理を作る千尋の音が聴こえる。不規則な音が、とても僕らには似合っていた。
「変えられないんだ。母さんのおかげさ。残してくれたんだ、僕が僕らしくあるために」
哲学でも持ち出されたように驚いた顔をして、また父さんは微笑んだ。
「そうか……そうだな。曽良なら、叶うだろう。父さんと、母さんの子だから」
根拠のなく、自信のある言葉は、母さんの言葉に似ていた。
たまらなく嬉しくて、僕は柄でもない、子供じみた笑みを返した。
お父さんとお兄ちゃんが一緒にいる。あたしは台所で料理をしながら、ときおり二人の方を窺って、微笑ましく思う。そんな二人には、あたしの作る料理こそ望ましい。
――これがお母さんの気持ちか。
美味しいとか、不味いとか、そういう難しいことじゃない。もっと簡単だったのかもしれない。生活を彩る些細な飾り。小細工のない明瞭な思い。
――ただ、食べてほしい。それだけ。
不味くていい。美味しくても構わないけれど、不味いと言われて、そこから会話が生まれるなら、結果的には幸せなのだ。
無心に楽しんで、あたしは料理を作る。
「なにか手伝おうか」
いつの間にかお父さんが隣に立っていた。
「んっ、一人で出来るから」
不意を突かれたことと、嬉しい申し出を受け、冷静に返答する。
「あたし、中学生だし」
大人だとでも言いたげに、つい皮肉っぽくなる口調。お父さんは顔を曇らせる。
「すまなかったな。いてほしい時に、いてやれなかったな」
湿っぽいお父さんの調子と、あたしのことを気遣ったらしい言葉を嬉しく思う気持ちの板挟みとなり、どうにもむず痒い。
「……たくさん作るから、全部食べてくれたら、許してあげます」
あたしが機嫌よくそう言うと、お父さんは唐突にあたしの頭を撫で始める。
「な、なによー」
「いや。千尋も夢が変わっていないんだなって、思ったものだから」
知ってか知らず、たまたまなのか。お父さんはあたしの欲しい言葉ばかり伝えてくれる。それも微笑みながら、ずるいほど優しい口調で。
嬉しいとしか思えない自分が、どうにも子供っぽくて。でも心地よくて、もう少し、子供のままがいいって思ってしまう。
千尋の作った料理が食卓に並ぶ。先の言葉通り、多めに作ったらしい料理の数々が、あっという間にテーブルを埋め尽くした。食べきれるか不安だった。でも、今の私たちが語り合い、幸せに浸ってしまえば、これでも足りないくらいであろう。私たちの間には、夜を徹してさえ取り戻せない溝が確かにある。
一週間。そのうちに、多くの思い出をこしらえよう。
夕食を食べ終えるころには、もう十時を過ぎていた。
私はソファに沈みながら息を吐いた。私がため息を吐くとおまえはよく、幸福が逃げると口にしていた。だが、これはそうじゃない。私が今、この風景の中におまえがいないことをやはり悲しく思う気持ちや、私を挟んで腰かけている千尋と曽良が、私を父親として迎え入れてくれた現状の中心にいて、私とおまえの築いてきたものが、寸分違わずここにあることに安堵して、思わず零れ出てしまった幸福の証なのだ。
翌日。
僕らは近場の山にピクニックに出かけた。父さんは先頭を歩き、大小一つずつのバスケットを一人で持った千尋を少し前にやりながら、僕はその後ろについて歩いた。千尋は頑なにバスケットを譲らない。
父さんはたまに振り返って千尋の足取りを確認した。千尋は荷物が重たいと云った顔をして、それでも父さんがこちらに振り向くと、汗の滴る顔を涼やかに歪めたりした。僕はそんな無言のやりとりを認めながら、そこいらの木々で笑っている蝉が僕らを包むようなこのひとときを、なんとか記憶に留めようとしていた。
頂上に着くと、千尋はさっそくレジャーシート広げてだらしなく腰を下ろした。僕と父さんもそれに倣った。
「よし、お腹空いた!」
大きいバスケットからラップに包んだおにぎりを一つ取り出すと、千尋はラップを破って間髪を容れずに頬張った。
昼食を取りながら、父さんが一週間後にはまた仕事に戻るということを話してくれた。
千尋は寂しそうにしたが、すぐに笑ってみせる。
「次までにレパートリー増やしておくね」
前向きな発言は本心であろう。千尋も、ゆっくりと大人になろうとしているらしい。
和やかな会話が、延々と続くかに思えた。
私たちがのんびりとしている間に、天気は少しばかり悪くなっていた。空は曇って、次第にそれが雨を降らせると、私は少々慌てながら、広がった荷物を大きいバスケットの中にしまった。やがて千尋と曽良を屋根のある場所に促そうとすると、千尋は落ち着いた手つきで小さいバスケットの中から折り畳み傘を取り出した。
「これで大丈夫!」
勝ち誇った顔で千尋は傘を広げる。だが、それは私たち三人が入るには些か小さかった。
「お兄ちゃん、はやくはやく!」
招かれた曽良は、仕方ないと云った具合に肩を丸めて傘の下に収まった。
「お父さんも、濡れるよー」
明朗な声量が私を呼ぶ。私は逆らえなかった。
断る材料など、はじめからどこにもないに違いない。
だれだって、濡れたくない。
だれだって、晴れの下がいい。
千尋のすることはいちいち、私を喜ばせるらしかった。
「お父さん? どうかしたの?」
私は、どうにも微笑まずにはいられなかった。ようやくおまえのところへ帰ってきたのだと思った。不意にバーベナの香りがした。くすぐったい記憶の数々が呼び起され、またため息を吐いた。
「母さんとも、若い時はよく一緒の傘で帰っていたんだ」
綺麗なものだけを、この子たちには語ろう。必要でないものは、私とおまえだけの思い出にしておこう。
一週間というのは、長いようで、過ぎてみれば足りないと思うほどに短いものだと、あたしは思う。でも、まだ一緒にいたいと思えるうちにお別れした方が、次も会いたいって思えるのかなって考えたりもする。
しかし、名残惜しいことに変わりはなく、あたしは玄関先で、お父さんを見送ることにした。
僕は千尋の頭を撫でながら、玄関で靴を履く父さんの背中を眺めている。千尋はやはり寂しいらしく、先ほどから頬を膨らませて不機嫌な様子だった。僕がこうしていなければ、きっと駄々をこねていることだろう。
「行ってくる」
私は言いながら、千尋と指切りをした。少しは気がまぎれたらしい千尋は、やっと子供らしく笑ってくれた。
私としても、名残惜しくないわけではない。でも、この子たちのために、私は働かなくてはならない。
お父さんと指切りをした小指を擦って、あたしは素直に微笑みながら見送ることにする。もう、あたしの中で迷いはなくなっていた。
「行ってらっしゃい」
お兄ちゃんと一緒に、そう言って送り出す。
私は、帰ってくるとは、言わなかった。
あたしは、帰ってきてとは、言わなかった。
僕は、帰ってきてとは、言わなかった。
そんなこと、もう言う必要がない。家族なのだから。




