第21話《生きられる場所》
「父さん。会いたいよ」
その言葉が留守電に残されたのは、私が長篠にすべてを話した後のことだった。
私は長篠が帰った後、酔っ払ったせいで知らぬ間に寝ていて、起きてみるとやたら喉が渇いていた。水を飲むと、肺に残ったたばこの味を感じなければならなかったから、私はやはり、酒を一口あおることにした。そうして喉の渇きを誤魔化し、おもむろに、なんとはなしにケータイを確認した。掛け時計もないこの部屋で、自分が今、いつを生きているのかを知るには、それしかなかった。けれども私は時刻を確認するより先に、留守電が入っているのに目がいった。仕事関連の内容だろうなとだいたいの目星をつけながら留守電を聞いてみると、息子の声が、短いながらも感情的に伝わってきた。
「どうして、逃げてきたんですか」
去り際、長篠がこう言ったのを思い出した。私は黙っていたが、思うことがないわけではない。私は恐らく、子供たちと真剣に向き合ってこなかったのだろう。だから簡単に手放せてしまったし、おまえがいなくなっただけで、これまで水晶のように傷一つなかった思い出に大きくヒビでも入ったとでもいうように、みすぼらしくなったと言わんばかりに、直視できなくなった。積み上げてきたものが、また無くなったのだと感じた。昔、おまえと私の間に、唐突に現実が割って入ってきたあの頃のように、現実が、今度はおまえを私から永遠に引き離した。
私は、おまえとの思い出を積み重ねていきたかっただけなのだろう。
どうしてだろうな。曽良が産まれたときは、あんなに嬉しかったというのに。曽良が笑うだけで私は、これまで自殺をせずに生きてきたことを、誇らしく感じられた。生きてきた意味が、ようやく分かったような気がした。
私は、なにが正しくて、なにが間違いなのか考えた。
嬉しくないわけではなかった。曽良の声が聞けたことも、私が親父に出来ずにいたことを、そうしてやり遂げてくれたことも。嬉しく思う。
しかし、いまさら私に、なにが出来るというのだ。あの一言だけで、曽良は前を向きだしたのが分かる。そうならば、私にできることなんて、なにもないだろう。
仕事が始まっても、曽良の言葉はずっと私の中に残っていた。どうして私に会いたいのか。どうして置き去りにした張本人を怒りもしないのか。気になっていた。
喫煙所でたばこを吹かし、缶コーヒー片手に時間を気にしながら、束の間の十分を過ごす。気の休まらない時間だった。
「城戸さん。連休はどうするんですか?」
そう訊いてきたのは長篠だった。
「どうしたものかな。たかが一週間の休みじゃないか」
言いながら、自分がまるで休みなどない方が良いとでも言いたげなのに気がついた。休みがあればその分、給料は減る。休息は必要だがただ寮で寝るくらいなら、稼いでやらなければ……。
――ああ、なんとも図々しい。
逃げておきながら、私はまだ親でありたいらしい。
「家に、帰らないんですか?」
長篠はまるで私の機嫌を損ねないよう、努めて落ち着いた声で言ってすかさずたばこを吸った。
私も倣ってたばこを吸いながら、疲れたと言う代わりに重苦しく煙を吐いて、どうして帰らないと言い出せないのか。どうして働くたびに、我が家が恋しくなるのか、考え出した。
休憩時間は、まもなく終わった。
しばらくして、長い残業が告げられた。この頃はこんな調子が続いている。今が辛い時期だと私たち作業者は思っている。ひたすら上の、デスクの前で数字を眺め、スピーカー越しに私たちを動かしている奴らの言葉を聞いて動く。
「これじゃまるでロボットだな」
職場の同僚が言いだす。少しは職場が和んだ。けれど仕事が始まれば、笑ってなどいられなくなる。言い得て妙だと思う。言われたことをする。間違えれば怒られ、そうして学ぶ。学ばないものは破棄される。そういう世界に、いつの間にか生きてしまっていて、また、望まない世界だなって気づいてしまう。
やがて、私はどうなりたいのか、分からなくなっていく。
「父さん。会いたいよ」
もう一度、留守電を聞いた。かけ返すことはしなかった。
「私はどうしたらいい……」
寮で一人、声を出した。変な感情だろう。滑稽に思えるだろう。でも、なぜだかおまえが答えてくれる気がしたのだ。そばにいるって、言われたから。
連休の予定は決まらないままだった。
曽良の留守電を聞いてから、はやくも三日が経つ。
私は今日も、人間らしからぬ、人間になりたがったロボットのように、感情の発露さえ許されないままに、仕事をして、タバコを吸い、不摂生や職業病に悩まされながら、生きてしまっている。
昔も今も、私は進歩していないようだ。おまえがいなければ、私のこの姿の、なんと醜いことか。認められたかった。言ってほしかった。生きていてもいいって。
私は不意に、おまえの言葉を思い出した。
冬の日、おまえがプロポーズをしてほしいと言い出したあの日、私はおまえに訊いたのだ。
――どうして、そんなに僕を求めるのか。
するとおまえは手を止めて、私の方を見つめて、欲しかった言葉を言ったのだ。
「よく分からないわ。……でも、笑うなら、泣いてしまうなら、あなたの傍がいいわ。死ぬときも、あなたが傍にいるって思っていないと、幸せだったって思えないもの。いつからかそうなったの。だから生きていて、わたしの傍で、わたしが死ぬまで」
わがままなことを言う。そう思った。けれど、私に生きていてほしいと思っているおまえが、自然に恋しくなったのだ。
もう、いないだろう。私が生きていてほしいと思う人は。私を許し、私を叱り、私を人として扱う人は、もう……どこにも……。
無機質な着信音が鳴りだしたのは、そう考えていた時だった。
相手の名前を見た。
千尋、だった。
電話にでるのは簡単なことだ。ただボタンを押せばいい。それだけのことなのに、なぜだか怖かった。なにを言われるのか。どう思っているのか。どうして、電話なんてかけてきたのか。
考えるだけ無駄なことだとは分かっている。
それに……私は今、寂しかった。
「……もしもし」
ボタンを押し、耳にケータイをあてる。向こうにいるはずの千尋は、一向に口を開かなかった。私が心配になっていると、ようやく口を開いてくれた。
「どうして……帰ってこないの?」
怒っているのか、泣いているのか、はたまた両方ともとれる千尋の声が、懐かしかった。
「……それは」
言いだせない。帰りたいとも、帰らないとも。どちらが正しいのか、分からないのである。
私がどうしたいのか、分からないのである。
「父さんにだって、いろいろあるんだ」
言いだせない。言いだせなかった後に来る後悔など、とっくに知っているというのに。
「分かってるよ……そんなの。でも、あたしとお兄ちゃんは、お母さんと、お父さんの子供なんだよ。会いたいよ、そばにいてよ……」
泣いているのだと気づくころには、もう、千尋は言葉を止めようとはしなかった。
「お母さんみたいに、美味しくないかもしれないけど、あたしなりに、美味しい料理作るから、帰ってきてよ。悩んでるときには相談もしたいし、ケガしたときは昔みたいに絆創膏とか貼って、頭撫でてほしい。……いやだよ。こんなの。お母さんがいなくなっただけで、お父さんまでいなくなるなんて……。お母さんとの思い出は、もう思い出すくらいしかできないけど、お父さんとの思い出はまだ増やせるのに、それまで無くなるなんていやだよ。いやだいやだいやだ! お父さんのバカ! 仕送りなんかよりお父さんがいい! バカバカバカバカ!」
プツンっと、電話が切れた。
騒がしい余韻が、次第に薄れていって、不意にカーテンがなびいた。知らない街の臭いがした。私は、私が今なにをしているのか唐突に思い出した。
――なぜ、こんな遠くに来てしまったのだろうな。
「ああ……」
私は、あのとき親父に、こう言いたかったのだ。
親らしく、子供の傍にいてほしいって、自己中心的でわがままに、身勝手に駄々をこねて地団駄を踏みながら、怒鳴りつけたかった。そうしてやれば、今まさに私の感じている喜びや寂しさを、はなむけにしてやれたのだろう。
私は親父がしてやれなかったことをするのだ。きっと、おまえもそれを望むはずだ。おまえは、最後に私が生きる理由を残してくれたに違いないと、ようやく理解できた。
「それにしても……お兄ちゃん、か」
やはり、千尋はおまえに似たようだ。私たちが思うよりずっと、素直な子だ。
連休前の、最後の出勤。その仕事終わりに、私は喫煙所でたばこをふかしていた長篠の隣に腰かけた。
「少し、いいか」
断られようと、私は話さずにはいられなかっただろうが、案の定、長篠は頷いた。
「帰ることにしたんだ。子供たちのところに」
私はおもむろにたばこを咥えた。
「なにがあったかは訊きません。僕には、分からないことだと思いますから。でも、城戸さんの考えていることは、正しいことだと思います」
長篠は深くたばこを吸った。吐き出した息の白さが、私に一種の同情の念をも抱かせるけれど、いつだってなにかしてやれるわけではない。だが、それでもしてやれることがあるとすれば、軽く肩を叩きながら、当たり障りのないことを言うくらいである。
「疲れたな」
「はい。今日は一段と、疲れました」
子供のところへ。そう言った時から、長篠はなんだか諦めたような息ばかり吐いていた。私には、長篠の思っていることが分かる気がした。
抜け殻のようなのだろう。どうしていつも目覚めて、生きたくもない今日を、救いもなく愛しい人もいない今日を生きてしまっているのか。どうしてやすやすと死なせてくれないのか、分からないのだろう。私がそうであったように。
「たまには、実家に帰ってみたらどうだ」
私は長篠の肩に手を置きながら、努めて笑いながら言った。長篠は驚いた顔をして私の方を見返して、しばらく考え込むように俯いた。そうして自分の嵌めている指輪をさも愛おしそうに擦ってまもなく、決心に満ちた息を吐いた。
「そうします。顔くらい、拝ませてやらないと」
寮で身支度を整えて、朝一番の新幹線に乗った。
車内は家族連れが多い印象だった。本を読む若者や、旅行先での段取りを話し合う老夫婦。若い夫婦の傍には、腕白な子供が二人いたりした。私はそれらが奏でるジャズのように聴き惚れてしまう生活の隅っこで、私の生きるべき場所に戻ろうとしている。
半年の時間は、一週間程度の休みでは取り戻せないけれど、私たちならば、と、そう思うのである。
ゆっくりと、伍坊駅が近づいていく。
私の故郷。私の記憶のほとんどが、この町で起きたことである事実が、故郷という言葉をより感慨深く味わいのあるものにする。
私の足取りは遅かった。晴れたときの日の差し込み方。ビルの形。道行く人の安っぽい歩調。歩道に走ったわずかな亀裂までもが、いちいち私を喜ばせ、帰ってきたと、この上なく実感が湧いたからである。
私はようやく家に着いた。扉の前で深呼吸なんぞしながら、なんだか他人行儀な自分に嫌悪した。
使い古した鍵を差し込んで、扉を開けた。
家の中は暗かった。少しばかり埃っぽい気もする。お帰りを言う者は、だれもいなかった。
けれど、待っている子が一人いた。
寝間着姿の千尋が、タオルケットを羽織って壁にもたれ、眠っていた。
「……ずっと、ここにいたのか」
私はそんな我が子の方へ歩み寄って、しゃがみながらそっと千尋の頭を撫でた。目を覚ましてやりたかったのか、ただそうしたかっただけなのか。おそらくは両方だ。
「ん……んん」
千尋はゆっくりと目を開けた。半開きのままの目を擦る姿が愛らしい」
「お、とう……さん?」
「千尋」
「……お父さん!」
千尋は勢いよく私に抱きついた。
「お父さんお父さんお父さんお父さん!」
私は少しばかり困惑した。しかしすぐに落ち着いて、ひたすらお父さんと繰り返す千尋の頭を、やはり撫でることにした。
「すまなかったな。ちょっと遅くなった」
それを聞くと、千尋はやおら顔を上げて、私の服で拭ったらしい涙の跡を光らせながら、さも嬉しそうに、それでいて落ち着いた調子で、
「おかえりなさい、お父さん」
娘の素直さに圧倒されつつ、私は、返しの言葉を口にした。
「ただいま、千尋」




