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第20話《エンプティーフード》後編

 梅雨は明けたはずなのに、朝から雨だった。

 あたしは少しばかり早起きして、朝食と一緒にアニキとあたしの弁当を作り始める。

 これは必要なことだと言い聞かせるけれど、やはり早起きは辛い。今まではあと一時間くらいは寝ていたし、この生活リズムはまだ確立できていない。馴染まない時間と、ぼんやりとした動作で、食材をいくつか刻み、フライパンに油を垂らす。あまり栄養やバランスについては考えてこなかった。だから正しいのかどうか――そもそも正解があるのかないのか――分からないままに、肉に対して野菜を多めにする。育ち盛りなら肉があった方がいいかと後悔しながら、弁当を詰めて、朝食をテーブルに並べる。アニキはだいたい、いつもそれくらいでリビングに現れた。

 あいさつを軽く交わして、ふたりして朝食に手をつける。卵焼きを口に入れながら、自然にアニキの方を見る。

 驚きのない表情。なんだか消化的な感想を述べている。

 今はこれでいいと思う。




 周りの同級生はみんな部活に入っていた。

 帰宅部はあたしだけ。

 物珍しかったのか、それともなにか目標があるのか。どちらにせよ、羨ましいなって思う。あたしはなんだか楽しめる気がしない。最近楽しいことがあったような気もしない。

 たぶん、あたしの中学校生活は惰性的に終わる。テスト、勉強、朝起きて弁当を作り、家に帰って夕食を作る。繰り返して、また繰り返すに違いない。絶望的な日々。あたしは不幸に違いない。

 あんなに幸せだったのに。ついと口に出す。

 幸せな家族だったことが、今では不幸の原因になっている。幸せじゃなかったらよかったのかもしれない。家族が好きじゃなければ、お母さんの子に生まれなければ。歯止めの利かない感情が叫ぼうとしている。

 また、やり直せるならと考える。

 ――やり直して、あたしがしたいことはなんだろう。

 もう一度だけ、幸せになりたい。幸せを味わいたい。中心じゃなくてもいい。端っこで大いに構わない。だから、幸せに染まって、それから笑いたい。

 今のままでは、あたしの知る限り、そのすべはないと思うから。




 家に帰って、やはり惰性的に料理を作る。志はあるはずなのに、思いがない。

 身勝手な主張はある。嫌だって叫びたいし、子供でいたいとしゃくりあげるような気持ちもある。でも我慢する。きっとお母さんだって、あたしに成長してほしいはず。自立して、一人で家事も買い物も料理もこなして。そうなって欲しいはず。

「……いっ」

 包丁で人差し指を切ってしまう。ジンジン、ヒリヒリ、痛み出す。浅い溜息を吐きかけて、すぐに水で洗う。

 棚から絆創膏を取り出しながら、急に昔を思い出す。

 あたしの指に、だれかが絆創膏をはっている。お母さんじゃない、アニキでもない。

 ――ああ、そうか。お父さんだ。

 そうしてくれたのはお父さんだ。頭を撫でてくれた。優しく、あたしの欲しい言葉をかけてくれた。

 お父さんは、どうして遠くに行ってしまったのだろう。

「やっぱり……あたしのせい、なのかな……」

 指に絆創膏をはりながら、あたしは自分が嫌になる。きっとあたしの妄想は間違っている。お父さんだって辛いのだ。

 世界の中心がなくなった。刻まれる時間に意味がなく、今のあたしのように惰性的になったのだ。そんな今から、お父さんは逃げ出しただけ。あたしの料理が空っぽだからじゃない。違う、ぜったい違う。

 だれも答えなんて教えてくれない。でも、あたしに分かるわけない。


 傘を持って行ったはずのアニキは、ずぶ濡れで帰ってきた。

 どうして濡れているの? そんなことを問いかけると、アニキは見え透いた嘘をつく。話したくないのか、話せないのか。どちらにせよ、あたしには話してほしかった。家族だから、兄妹だから、もう、ふたりしかいないのだから。

 あたしの横を通り抜けて、アニキは浴室に向かう。

 ――やっぱりあたしは……。

 後ろ向きになる。こんな時でも、あたしの主張は飼い主の手を噛む犬のようにしつけが悪い。あたしはなんとか我慢しようと決める。

 アニキを苦しめたくない。

 アニキだけは、遠くに行ってほしくない。


 寝間着を浴室に置いてから、あたしは夕食の準備をした。アニキが出てきたら、まるでなにも気にしていないと云った風に平然としながら料理を出そう。

 鍋でグツグツしだしたシチューをかき混ぜる。テレビで観るお店のシチューはもっとおいしそうに見えるのに、あたしの料理は、なんだか一般的。

 普通が一番だとだれかが言う。気楽で気さくで、深く物事を考えないような人々だろう。楽しむために人は生きているのだと言いたげな人々の主張をあたしは受け入れられない。なにか理由が欲しい。あたしがどうして夢を諦めきれないのか。どうしてインスタント食品で満足できないのか。どうして、こうも人に必要とされたがっているのか。自分のことは自分がよく分かっているはずなのに、なぜだか分からない。

 アニキにシチューを出した。どんな顔をしてくれるだろう。笑ってくれるだろうか。明るくなってほしい。あたしの料理で、少しは温かくなってほしい。

 そんな思いで、アニキの表情を見る。仕草にも目を配る。不意に目が合う。

 アニキの表情は、暗いままだった。

 急に悲しくなって、先が見えなくなった。あたしを留めている命綱が切れかかっているのに気付いた。

「ねえ……アニキ」

 先走った思いが口に出る。

「あたしさ……料理人になれるのかな」

 段々と分かり始める。今までより、深く理解する。認めざるを得ない事柄。

 ――あたしはただただ、子供なのだ。

「……なれるさ」

 アニキは悲しい顔をして、それに感化されて、あたしは笑えないでいる。

 もう、言葉は聞こえなかった。


 その日は夜更かしをした。インスタントコーヒーをマグカップに注いで、それを両手で包みながらソファで背中を丸めて座る。何気なく、録画したホラー映画を観る。あたしなら、たぶんそうしたはずだから。

 ――あたしはもう、必要ない。

 しばらくの間、あたしはこう考えるようになった。

 ――だってそうでしょ?

 あたしなりに頑張った。あたしらしく努力した。でも無理。料理人を素直に目指せない。純粋だったはずの夢が、いつの間にか淀んでしまった。必要だって言われたい。そばにいてほしい。あたしの欲しい言葉をときおり呟いたりしてもらって、単純で大胆に、そのうえ恥ずかしげもなく笑っていてほしい。そうさせるのがあたしの料理なら、良かった。

 ――馬鹿馬鹿しいよ、あたしの夢は。




 夏休みに入ると、蝉は今まで以上に活気づいて泣き出していた。あたしが気晴らしにショッピングモールへ出かけようとすると、アニキがついていくと言い出した。

 ちょっと意外だった。

 あたしと違って、アニキにはなにか転機でもあったようで、なんだか晴れやかになっていた。あたしの知らないところで、アニキはあたしの前を堂々と歩き始めていることが、痛々しくあたしの心を縛るのが分かる。アニキは良いなって思う。世界の中心があって、代役がいて、傍にいてくれる人がいて……。

「なにか買う?」

 あたしが鞄のブランド店で立ち止まると、アニキはそんなことを言いだす。買えるわけはないとあたしは独り言ちる。加えて同情でもされているみたいに、アニキがいつもより優しいのが気に入らない。

「いらない」

 あたしはアニキより少し前を歩く。これだけは譲れない。仕返しをしてやりたい。置き去りにしてやりたい。そう考えている。

 素直になれる日は来るのだろうかと思う。あたしは本心を語ったりしてきただろうか。不意に頭の中が揺らめくようになって、それから急に寂しくなっていく。疑問や不安を放り込んだ鍋が煮えていく。あたしは失敗作をかき混ぜながら、どうしてとかなぜとか、考えている。

 民族的な服の置いてあるお店に入る。裸電球がぶら下がっていて、通路は人が二人並んでしまえばふさがってしまうほどの幅しかなかった。まばらな人をかき分けて、なんとなく奥の方へ入っていく。アニキは当然、あたしについてきた。

 あたしは置物がたくさん並んでいる棚の前で足を止める。目についた置物を手に取ってみて自然に、なにこれ変な奴、と思う。

 茶色い木製の人が彫られた置物。子供でも作れそうな置物だと甘く見ながら値段を見てみると五千円(税抜き)と書いてある。これでさらに税まで取る気なのか。

「これどう思う?」

 アニキはよそ見をしていて、あたしの声を聴いてようやくこちらへ身を寄せた。

「どれ?」

「これ。変な奴」

 あたしは変な奴と口にすることに妙な懐かしさを感じながら、どうしてなのか探るべく、その後も変な奴と言い続けてみる。

「なんだか懐かしいな」

 耳元でアニキがそんなことを言うので、あたしはついついアニキの顔を覗き込む。幸せそうに、今まさに抽斗から宝物でも取り出したかのように笑っているのを見て、あたしはようやく合点がいった。

「……ああ。そういうことか」

 昔、お父さんがこれに似た置物を買ってきた。あたしは、同じことを口にした。

 ――お父さん、なにしてるのかな。

 唐突に恋しくなって、ちょっとだけ元気になる。

 会いたいと、素直に思う。




 その日の夜。

 お父さんに電話をしようとしているあたしがいる。

 椅子に腰かけて自室で一人。明かりはつけないままでスマホのディスプレイに浮かぶ、お父さんの文字を眺める。それがまるであたしに差し込んだ一筋の希望であるかのように、暗い部屋の中、まっすぐにあたしの顔を照らしている。眩しさに目を凝らしながら、あたしはどうしてか踏み出せない。

 怖いのかもしれない。

 現実はいつの間にか遠くに行っている。およそあたしの想像も出来ない、得体のしれない姿になって生きている。あたしは知っているのだ。現実がどれだけ残酷なものか。幸せがいかに儚く、不幸こそが絶対的支配者であることを。

 信じきれなかった。お父さんを。

 変わっていないと思えなかった。お父さんが。

 現実を受け入れられると思えなかった。あたしが。

 あたしは結局、電話をかけることが出来なくて、スマホをベッドの上に放り投げてから机に突っ伏すことにした。

 会いたい。声も聴きたい。元気かとか、ちゃんとご飯を食べているのかとか、些細なことでもいいから知りたい。はずなのに、あたしはどうして、こうなのだろう。

「千尋。まだ起きてる?」

 ドアをノックしてから、アニキはあたしの返事を待たずに部屋に入ってくる。

「つけないで」

 明かりをつけようと手を伸ばすアニキを制止すると、アニキはあたしが沈んでいることに気づいたようだった。おもむろにあたしの方へ歩いてきて、ピタッと隣で立ち止まる。

「父さんに電話をかけた」

 アニキはあたしの頭を撫でながら、淡々とした口調で言った。

 驚きのあまりか、あたしはなにから訊いていいのか分からなかった。

 怖くなかったのか。

 どうして踏み出せたのか。

 訊きだしたかったけれど、あたしはただただ、自分を不甲斐なく思うばかりだった。

 あたしにしか、出来ないことだと思っていた。お父さんを呼び戻せるのは。でも、アニキは容易く出来てしまった。あたしに出来なかったことを、あたしが素直になれないうちにしていた。それが悔しかった。

「千尋」

 アニキは、あたしが泣きだそうとしていたのを察したのか、背中からあたしを抱き寄せ、耳元で優しくあたしの名前を呼ぶ。お母さんの名前から、お父さんが考えてくれたあたしの名前。あたしの、大好きな名前。

「僕は、父さんに会いたい。だから、千尋も会いたいはずだって思った。兄妹で、同じことを経験してきた。同じ理由で夢を描いて、母さんが好きで、父さんが好きだ。悩んだし、苦しんだ。だからさ……」

 まくし立てるアニキは、嬉しそうだった。

 あたしはあたしの首を抱きしめるアニキの腕にしがみつきながら、相槌の代わりに静かに頷いていた。

「もう一度、幸せになっても良いだろうって、思うんだ」

 優しく、強く、そのくせどこか震えている、お兄ちゃんの腕が、あたしを包む。

「うん、……うん」

 そうやって、あたしは何度目かの涙を零した。




 次の日、あたしはすっかり玄関に入り浸っていた。寝間着のままスリッパをはいて、膝を抱えながら座り込んで、そうしてずっと、お父さんを待っていた。

 確信があった。どうしてか、怖くなかった。お兄ちゃんが、会いたいって伝えてくれたのだ。だから、絶対帰ってくる。信じて、疑えなかった。

 一日が過ぎ、二日が過ぎる。そして三日目がやってきて、次第にそれも終わっていく。

 蝉はいつまでも泣いている。玄関の外側から内側まで聞こえるその声が、あたしをより一層、孤独にさせているような気がしてきた。

「お父さん、なにが好きだったかな……」

 睡眠不足のためか、あたしは感情を制することが出来なくなっていった。幸か不幸か、こういう時に限ってあたしは素直になっていく。嫌になるけれど、自分らしいと諦める。

 なにかしようと思い立つ。真っ先に浮かぶのは料理だった。

「お腹すかせて帰ってくるよね」

 小声で呟きながら、あたしはゆっくりと立ち上がった。


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