第19話《エンプティーフード》前編
いつからだろう。あたしが素直じゃ、なくなったのは……。
あたしが物心つくまえから、隣にはいつも三人いて、次第にそれが家族であると理解できる頃には、あたしは家族の中心に自分がいるのだと信じて疑わなかった。
お兄ちゃんは率先して世話を焼いてくれて、宿題まで面倒をみて、出かけるときはあたしがはぐれないように手を握ったりしてくれた。お父さんはあたしがケガをするたびに大慌てで、あたしが包丁で指を切ってしまったときなどは、ソファから転げ落ちるというオーバーアクションを披露した。
お母さんにいたっては、いつもあたしの傍にいて、あたしが卵焼きを作ると、おいしそうにそれをつまみ食いしては口端をゆるめたりしていた。
家族らしく、特別なぬくもりのある日々。
毎日があたしを中心にまわっていれば良かった、と思うようになったのは、あたしが小学三年くらいの頃だった。
お兄ちゃんの世界の中心はかさねお姉ちゃんで、お父さんはお母さんで、お母さんの愛情というものは、家族に等しく、だれも抜きんでることなく注がれているようだった。
早い思春期。
あたしがまず焼きもちをしたのはかさねお姉ちゃんで、お兄ちゃんが彼女の前では饒舌に話す様がなんだか気に入らず、小さい主張として、その当時、はまっていた任侠映画の一文を取ってアニキと呼ぶようにした。これで少しは仕返しをしたつもりでいたけれど、いつの間にかそれがあたしの個性として認知されるようになり、お父さんには少し咎められたけれど、結局は認められてしまった。アニキは静かにあたしの頭を撫でるくらい。なんだか悲しく、やけくそのようになったあたしは、今もその主張を続けている。
お父さんに対しては、一緒にホラー映画を観ているときにお母さんの方を眺めだしたとき、隣でさも不服そうに唸ってみせるくらいだった。
お母さんには訳もなく抱きつく程度。これが一番素直だったかもしれない。
だれかの中心にいたいというあたしの願望は、まだ根強く育っている。
お母さんがいなくなって、お父さんもどこかに行ってしまった今も、あたしの望む現実とは、痛々しいまでに違うものに生きている今となっても、渇望が、あたしからは消えなかった。
お父さんのいない入学式。
あたしはとうとう中学生になった。
アニキは高校の入学式が重なって来席できなくて、あたしたち新入生の後ろには先輩たちがいて、その後ろには同級生の親がたくさんいた。
またしてもあたしは嫉妬した。
きっとみんな、親と喧嘩をしたりする。取っ組み合いの喧嘩もあるかもしれない。ときに殺伐として、ときに平和的。自分が家族の中心にいるなんて、気づくこともないのだろう。数多の世界の中心の端にあたしがいて、間接的にあたしをゆっくりと蝕んでいく。
「んんぅ……」
宛先のない不平を絞り出し、気を取り直して今日の昼食を考える。アニキも昼には帰ってくるし、お腹もすいているはずだし、たまには手の込んだものを作ろう。なんてことを考えるうちに、ふいになにかを思い出したように体育館の天井を見上げる。
お母さんがいなくなってから、あたしはあまり料理をしていなかった。一時はしっかり作っていたけれど、なんだか味気なくて、自分の料理が、空っぽのような気がした。お父さんもアニキも、死んだように美味しいとしか言わなかった。
たまらなく嫌だった。
あたしはレトルトばかり作るようになって、とうとうお父さんもいなくなった。きっと、お父さんにはお父さんなりの思いがあったのだろう。でも、思わずにはいられなかった。あたしの料理が空っぽだから、あたしが手抜きばかりしたから、お父さんはいなくなったのだと。
――そうじゃない。たぶんそうじゃない。
首を振っても、なにをしても、そう思わずにはいられなかった。
これはたぶん、夢を粗末にした報いなのだ。
あたしは商店街に出かけた。
食材探し。スーパーでもいいけれど、このときばかりは形だけでも本気になりたかった。つまりはマーケティングの技法などを駆使した売り方[商品の見せ方だとか霧吹きでみずみずしく見せるやり方]のされていない食材を選びたかった。野菜は八百屋。肉は精肉店で選びたいのである。
八百屋でジャガイモを手に取りながら吹かし芋なんてどうだろうと自問する。うん、いいのではないだろうか。多めに買っておいて、夜はカレーにしよう。数珠つなぎに献立を考え、必要なものを頭の中でリストアップ。悩ましげな顔をする。
――料理人……かっ。
あたしはふいに浮かんだ夢を見つめ返す。夢を追う資格が、あたしにはあるのだろうか。投げ出してしまったけれど、忘れそうになってしまったけれど、いいのだろうか、目指しても。
買い物を済ませて、いくつかの袋にたくさんの食材を詰め込みながら、あたしは家路を歩いた。不思議と胸が弾んでいるのが分かった。美味しいご飯を作ろう。アニキが喜ぶようなご飯を作ろう。心がこもったもの。中身の詰まったものがいい。
スキップするような調子で、あたしは鼻歌交じりになった。
現実というものは、気づいた時には、理想とかけ離れてしまっている場合が多い。あたしの現実も、きっとそうなのだろう。
アニキは先に家についていて、もう昼食を済ませてしまっていた。
空っぽになったカップラーメンの容器がゴミ箱に入っていた。
「んんぅ……」
必要ないらしい。あたしの料理は。
望まれていないらしい、あたしの料理は。
あたしがなにもしなくても、きっとアニキは生きていける。あたしだって、生きていける。けど、そうじゃない。そうじゃないのだ、たぶん。
「ばーかばーか」
テーブルに突っ伏したまま、また不平を口にする。部屋はやけに肌寒く、あたしもやがて、カップラーメンを食べることにした。
目指すべきじゃないと言われている気がした。空っぽの容器に自分が重なる。
あたしはただ、必要とされたいだけなのだ。だれかのためじゃない。
お母さんがいないから、衝動的に料理をしていただけ。
お母さんの代わりをすれば、きっとあたしが家族の中心でいられる気がしただけ。
あたしがなにかを詰めてきたと思っていた料理は、空っぽなのだ。レトルトもカップラーメンも、あたしと変わらない。同じなのだ、あたしは。
「お母さん……おかあ、さん……」
なぐさめが欲しかったのか、寂しかったのか、同情を求めたのか、ひとしきり流したはずの感情が、また零れだしていた。
やり直せれば。そうだれもが思うように、あたしもときおり思う。失敗したときや、間違いをしたとき。でも、あたしはどこからやり直せばいいのだろう。あたしが何をしたって、お母さんは帰ってこない。お父さんも、帰ってこない。お兄ちゃんも、あたしを見てはくれない。だれも、必要としてくれない。必要とされるには、たぶん、あたしには料理しかない。でも、あたしの料理は、いまや必要のないものだ。
――どうすれば、どうしたら、必要とされるのだろうか。
「千尋? 千尋」
お母さんだと思った。あまりに優しく、うっとりとしそうになる声だったから。
おぼろげでピントの合わない視界から、あたしは知らないうちに寝ていたらしいことが分かる。
じきにはっきりしてきた目の前には、アニキがいた。
「んんぅ……なんだ、アニキか」
あたしはまだ不服らしかった。
「千尋」
アニキはあたしの隣に跪くようにして身をかがめる。
「ごめんね。料理、作るつもりだったんだね」
あたしの傍には、そのままにしてあった買い物袋が転がっていた。
「……うん」
あたしはまるでなぐさめられてでもいるみたいに頷いて見せた。
「千尋。夕食、作ってくれないかな」
アニキはあたしの頭を優しくなでたりしながら、もっと優しく笑ってくる。
そのずるい行為がなんとなく気に入らなくて、これまた不服そうに首を縦に振った。嬉しかったけれど。求められている気がしたけれど。同情されているような、なしくずしにそう提案されているような気がしたから。
もう夕方になろうとしていた。あたしはゆったりとしたペースで台所に立った。アニキは買い物袋を持ってこちらにやってくる。
涙ぐんでいる顔を見られたくなくて、あたしはいつ見られてもいいようにふくれ面をしていた。中学生はまだ子供である。でも、いま甘えてしまうと、負けた気がする。
「なに作る気だったの?」
「……カレー」
あたしは依然として素直にならないまま言う。
必要ないくせに。と愚痴を頬の裏にためていく。あふれたものが鼻を鳴らして外にいく。アニキは静かにあたしの頭を撫でる。
ふと我に返ったようにアニキの顔を見る。妙な違和感が頬を萎ませる。そしてなんだか唖然としてしまって、そのままじっとアニキの顔を見つめる。
――アニキは、いつ泣いているのだろう。
お母さんがいなくなってから、あたしはアニキの泣き顔など、一度も見ていない。アニキはいつものように、優しく笑っている。暗い顔はするけれど、それだけにとどまって、その先がない。
泣いていないのか、人知れず泣いたのか。たぶん前者。
それは、あたしが泣きじゃくるからかもしれない。
アニキにしがみついて泣いた。なにかをせがむように泣いた。
それでもアニキは、あたしの頭を撫でるだけだった。
――素直じゃないのか、あたしもアニキも。
この時からだと思う。あたしが人を素直にさせる料理が作りたいと思うようになったのは。
――まずはアニキからだ。
あたしは意気込みながら、今度は少しばかり笑顔になった。
カレー。アニキの好物ってわけではないけれど、あたしの得意料理。なおかつお母さんの得意だった料理でもある。懐かしい味。家庭の味。素朴で、家族団らんの火種になる料理。そんな味を再現するなんて、とうてい無理だから、あたしはあたしらしいカレーを作ろうと決める。
さも楽しげに食材を刻みはじめる。にんじん、たまねぎ、じゃがいも。最後に鶏肉を一口だいに切って水を入れた鍋にそれらを入れて火にかける。
暇な時間にサラダでも作ろうと思いたつ。ポテトサラダはどうだろうと思案しながら、段取りの悪さを痛感する。鍋は二つ用意しておくべきだった。考えたって仕方がないと割り切って、あたしは小さい鍋に水を張って火にかける。
「千尋なら、もっと上手くなるよ」
アニキはまだあたしの隣に立っていた。静かに見守りながら、ときおりあたしが欲しい言葉をかけてくる。それがなんだか、あたしの心にかけられた錠を揺さぶりでもしているみたいに、あたしはいちいち、甘い予感をした。
カレーが出来上がる頃には、すっかり夜になっていた。ずいぶんと時間をかけてしまった。時間をかければ美味しいご飯になると考えていたのではなく、あたしの段取りがところどころ悪かった。反省はたくさんある。
リファインするべき箇所を思い返していると、アニキが手を合わせてから、さっそくカレーを口にした。ゆるやかな仕草を子細に眺める。テレビに見入る子供のように、あたしはアニキを見る。
「おいしい」
聞いて、少しだけ素直に喜んで、やはりまだまだだと思う。アニキは無理に笑っているように見える。兄らしく、あたしを安心させようとしているに違いない。でも、その程度であたしの欲求は満たされなかった。
それから一か月くらいが経って、例年より少しばかり早い梅雨入りが宣言された。
かさねお姉ちゃんが入院したという知らせが、あたしのところにやってきた。
知らせてくれたのはかさねお姉ちゃんのおばあちゃん、ふみさんだった。
どうしてふみさんが知らせようと思ったのかは不思議でならなかった。お母さんがいなくなってからというもの、あたしはもちろん、アニキも交流が途絶えていた。実に半年近くである。
「ご飯は食べているのかい? 言ってくれれば、食べに来てもいいからね」
あたしが電話口でぼーっとしていると、ふみさんはそう言いだした。
「え、ああ、うん。食べてます食べてます」
言いながら、あたしはふいに理解した。たぶん、ふみさんはあたしたちのことが心配だったのだ。でも、家族の問題に土足で踏み入るような気でも起こして、電話が出来なくて、かさねお姉ちゃんの入院を口実に、電話をかけてきたのかもしれない。
「ありがとね、ふみさん。今度、アニキと一緒に顔みせるね」
本当は、なにも考えず知らせただけなのかもしれない。でも、あたしはあたしの妄想を信じることにした。心配を向けてくれる人がいる。それが今のあたしには重苦しくなく、むしろあたたかく包みこまれるような気がしたから。
あたしはアニキにかさねお姉ちゃんのことを伝えた。伝えるべきだと思った。悲しいけれど、悔しいけれど、アニキを支えられるのは、かさねお姉ちゃんしかいないと分かっているから。
休日、アニキは雨の降る午後、病院へと出かけていった。傘に隠れるアニキの背中は寂しそうだった。きっと、アニキもあたしと同じ思いをしてきたはず。お母さんがいなくなって、お父さんもいなくなって、その出来事の中心にあたしとアニキがいる。あれでも、アニキは世話焼きだから、あたしのこともアニキには重くのしかかっているに違いない。甘えたいけれど、甘えられない。けれど、せめて気づいて欲しいのである。
――寂しい人がここにもいます。
そう訴えかけでもするように、アニキの背中を見つめていた。
アニキは暗くなったころに帰ってきた。表情はよくわからなかった。嬉しそうでもある。でも、明るいわけじゃない。どっちともとれない顔だった。
しかし、よい刺激にはなったらしかった。なにがあったかはわからないけれど、少なくともかさねお姉ちゃんは、アニキの背中を押してくれたらしい。考え込んでいて、いつもよりぼんやりしているアニキの姿を見て、なんだか羨ましく思う。
きっと、アニキも自分の夢を思い出せたのだ。あたしと同じに、打っ棄ってしまった夢。幾度となく夢を変えてきたアニキが、捨ててしまったあとになっても、忘れられずにいる夢。
その夢の先にいたのは、お母さんだ。
アニキは作家になるとたいそうなことを言っていたけれど、単純に言えば、お母さんに読んでほしかっただけなのだと思う。
あたしがそうであったように。
そして、知らず知らずのうちにアニキの夢は少しばかりすり替わったのかもしれない。一種の寄生虫のように、風に運ばれる種子のように、新しい場所で根付こうとしている。
いいなあって思う。
あたしの夢は料理人。とは言うけれど、子供の夢なんて、実際はいつだってまっすぐなのだ。複雑な感情はなく、クリアにゴールが見えている。
料理に没頭するあたしの横で、お母さんが笑っている。
――それだけで、それだけで、よかったのに。
あたしの横にはいまや、だれもいない。だれかに傍にいてほしい。ときおりつまみ食いされても微笑む自信がある。笑いあう食卓を埋め尽くす料理を作る自信がある。
でも、今のあたしでは、なにも詰められない。やはり空っぽのままになる。
「寂しい?」
アニキがいつかそう訊いてきた。知っているくせにと言ってやりたかったけれど、ようやく向けられた心配めいた感情を無下には出来なかった。
「それはそれは、寂しいですよー」
時間が、いずれ解決してくれる。
そう信じながら、あたしは苦手なブラックコーヒーを飲む。大事なものを奥底にとどめようとでもするように。
アニキはあたしの頭を撫でる。[子供扱い]されているような気がする。でも本当は、[子供]でいていいと言ってくれているのだ。そう言葉にはしないけれど、なんとなく伝わる。甘えていいって、言われている気がする。




