第2話《君の願望》
僕が今より幼い時分、あらゆる夢を描いていた。赤い消防車が好きだから消防士を目指したり、ボールを打つのが好きで、野球選手になりたいと思ったり。夢が数年間で幾度も変わった。そのほとんどは口だけに終わって、結果として優柔不断な僕が出来あがった。
言い訳をするならば、原因は母にある。僕が夢を変えるたびに、怒りもせずに賛同した。あれやこれやと理由をつけて、僕ならきっとなれると言った。さぞかし嬉しそうに、誇らしげに笑いながら。
ある日のこと。僕が中学二年生で、自分の宿題と平行して妹の面倒をみていた時。リビングのソファーに腰掛けて、母がなにやら分厚い本を読み始めた。当時の僕は現文より数学が得意であったから、気にもならないと云った風を決め込むのは容易かった。けれど、僕は本のページを捲る度に、表情をころころと変化させる、そんな母が気になって……。いや、気になったのは本の方だ。内容ではなく、活字の秘めたる力なるものを、母の仕草の節々に見出だし、僕はやがて、自分もこんな風に母を楽しませることが出来ればと思い始めた。
程なくして母は本を読み終わり、大きな息を一つ吐き出して潔く、かつ大胆にリビングに余韻がこだまする程度の音を立てながら本を閉じた。
これまで、あんな気持ちのいい音を僕は知らなかった。消防車のサイレンよりも耳に残り、バットがボールを跳ね返す音よりもずっと、痛快だった。
「母さん、僕……作家になるよ」
ことあるごとに口にする言葉に、ささやかな決意を込めた。母は今度も、優しく笑ってみせる。
「ええ、曽良ならなれるわ。お母さんの子だもの」
数えきれないほど繰り返された決まり文句が、僕と作家という夢を結びつける。
必死に現文を学んだ。技法もいくつか覚えたし、たくさん本も読んだ。ミステリー、ラブコメ、ファンタジー。果てには海外の小説さえ手にとった。
そして、僕は一つの小説に着手した。優柔不断な主人公が様々な人と出会い、自分の夢を見出すという内容。知らないものは書けない。だから自分のことを綴った。何枚も原稿用紙を無駄にしながら、何度も根を上げそうになりながら。
もう少しで、小説が書き終わる。
そんな時、母が病気にかかった。入院していたのはちょうど今、かさねが入院している病院だ。
僕の筆は止まった。学校が終わると母の見舞いに行った。母の病気は回復する兆しを見せなかったけれど、母は僕の前では平気と云った様をしていた。
「ねえ、曽良。本が書けたら、お母さんに読ませてね」
僕は頷いた。
しばらくして、母はとうとうどこかに行ってしまった。僕に約束を果たさせることなく。
急に夢がぼんやりとした。僕が筆を握る理由が、跡形もなく霧散した。僕が作家を目指したのは、母を楽しませたかったからだ。泣かせたかった。笑わせたかった。悩ませたかった。他の誰でもない、母でなくてはならなかった。だから、出来上がりを間近にしたあの小説は、未完成で、置き去りになった。
そんな僕の心情を知ってか知らずか、ベッドの上に横たわったままの君は急かすでもなく、ただ黙って、僕と約束を交わした時に母のしていたあの朗らかな笑みを浮かべて、僕の意思を待っている。
「書けやしないさ。こうなってしまっては」
君は残念そうにしなかった。まるで分かりきっていたと言わんばかりに、目を閉じ小さく頷いてみせる。まもなく僕を見る。
「では、次は何になりたいですか?」
君はまた僕を黙らせる。僕は俯く。すると、いままで頑なに体を起こそうとはしなかった君が、ベッドの上に腰を据えて僕の頬へ手をつけた。僕は顔を上げ君を見、すぐに視線を逸らした。微妙に肩を動かして、優しい笑みの君が苦しそうに息をこぼす。君の目は何かを訴えるでもなく、むしろ曇りすらなかった。頬に当てられた手は冷たかった。僕はその手をとりながら、また俯いた。
はたと気づいたのはそんな時だった。諦められないという事実。目的を失って、なお求めてしまうあの感触。置き去りにしたはずの夢は、今もひょうひょうとして僕の後ろにいる。そして今、その傍らには、君が立っている。僕を振り向かせようと、時折、わざとらしく音を立てたりして。
「……でもさ、母さんに読んで欲しかったんだ。そのために努力した。だから……だから、母さんが居なくなって、目的もないのに、どうして作家になんか……」
ずっと堪えてきた。妹がいるからってのもあったけれど、僕はまだ、母の死に向き合えずにいる。こんな僕がどうして自分の夢と向き合えるというのか。
不意に君は僕を抱き寄せた。病弱な身体で、僕を支えるようにして。
「ゆっくり、ゆっくりでいいですから」
あやすように囁く君の行為は、なんだか異常に思えた。
「わからない。君は僕にどうしてほしい」
「深い意味はありません。私の願望、あるいは夢のようなもの」
君は僕から離れて、ふたたびベッドの上で姿勢を正した。
「ただ、覚えていてください。あなたの本を読みたい人が、1人だけ、そばにいることを」
僕は初めて、君を怖いと思った。強情な様を見た。僕の苦しさなど、微塵も分かりはしないと云った風に、君は自分勝手に僕を求める。なぜそこまでして、と問うのは止しておいた。僕の知ってる君なら、そうすることが当たり前なのだろうから。
「また……見舞いに来る」
呟きながら僕が間仕切りを出ようとすると、君は何も口にせずただ手を小さく振るばかりだった。君の仕草は、いちいち母のそれと似ていた。
まだ雨が降っていた。暗さを増した空を仰ぎながら、いつの間にか晴れ間を願うようになっている。