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第18話《ブライトネス》後編

「城戸さん。ビール飲みません?」

 土曜の朝。

 連休が近いためか、些か陽気な調子で長篠が私の部屋に缶ビールを一ダースほど持ってやってきた。私と長篠の部屋は同じ寮の隣同士だったから、彼がそうやって私の部屋を訪ねることはこれまでにも何度かあった。

 だが、今度は少し驚いた。缶ビールだけならまだしも、彼はもう片方の手でピザの箱を二つ抱えていた。

「いいけど、どうした。そんなに買い込んで」

 私は畳の上に胡坐をかきながらたばこを吹かしていた。腹は減ったが動くのは億劫だったので、その申し出は快く受け入れる。けれど、ただ飯というのは気が引ける。

 財布を取り出そうとすると、彼は首を横に振った。

「ああ、ネットでビザの半額クーポンが当たったので、そんなに値段はかかっていませんよ」

 彼はササッと言う具合に畳に上がり込むと、私の目の前にピザとビールを置いた。

「いいのか?」

「ええ。そのかわり、この前の続き、聞かせてください」

 屈託のない笑顔を浮かべながら、彼はさっそくたばこに火をつけた。

 彼の心情を少しばかりでも知ってしまった今、私は躊躇しないことが出来なかった。私と同じに妻を失っていて、同じく、こうして知らない土地へ逃げてきた。誰も自分のことを知らない土地、一人きりになれる場所を求めてやってきたのに、なぜ、辛いことを思い出さねばならないのだろう。なぜ、私は思い出し、彼は忘れないように努めているのだろうか。

 缶ビールを一つ取り出してあおる。

 彼の思いなど分かりはしないけれど、私自身、やめられないのである。おまえのことを話しながら、おまえがまだ私のどこかに生きているのではないかという奇妙な感覚を覚えてしまったのだから。

「どこまで話した?」

「田口って人を体育倉庫裏に呼びつけるところまでですよ」

 私は言われて記憶を呼び起こしたが、どうも恥ずかしい話だった。




 鈍い音がしていた。断続的にそれが大きく響き渡って、すぐ近くで泣いているはずの蝉がどこか遠くにいるかのように感じられた。

 私と田口は有無も言わずに殴りあっていた。田口はどう思っていたか知らないが、その時の私は必死だった。殴られるのは常だった。しかし、私が殴り返すこともしばしばあった。けれど、明瞭な殺意をむき出しにして殴るのは、これが初めてのことである。

「おい、城戸! なんのつもりだよ!」

 彼の怒号が届くころには、私は歯を食いしばりながら拳に力を入れた。意識ははっきりとせず、痛いのか苦しいのか、よくわからなかった。お互いに鼻から血を流して、顔もすでに腫れている。時間の経過など、分かりようもない。

「うるさい!」

 私はまた、彼の顔を殴った。すると腹に拳が飛んできて、私は彼の足にしがみつくようにして跪いた。

「ああ……いきなりどうした……」

 田口も疲れていた。けれど、まだ殺すには足らない。

 私は彼の足に噛みついた。噛みちぎってやるつもりだったけれど、田口は痛みのせいで仰向けに倒れた。また鈍い音がして、私はそいつに跨って顔を続けざまに殴った。

「ああ! ああ!」

 拳は痛いのだろう。でも分からないからどうでもいい。

――いらない、こんな奴は、いなければいい。

なにが正しいだろうか。なにが間違っているだろうか。なにをするべきで、なにをしないことが正しいのだろうか。分からないのである。

「普通がよかった! 友達がいて、部活やったりして、叶うはずない夢とか語ってさ。そんなことでよかった! 普通がいい! 普通がいいんだ! 僕は!」

 視界が歪み始めた。なんのためかは分からない。

 そして分かりはじめた。

 こんなにも、こんなにも、人を殴るのは辛いのだと。

 ――あなたは悲しい人よ。

 君の言葉がふいに蘇った。君の顔や香りや感触までもが、唐突に私を包む。柔和な仕草が愛おしくなる。そして遅れてやってきた痛みに襲われて、私は彼を殴るのをやめた。

 やりきれない思いがした。胸が苦しく、ひどく傷みだして、頭痛までやってきた。

 田口はもう、ピクリとも動かなかった。




 視界は暗かったけれど、そこには確かになにかがいるらしかった。無数にうごめく影が、一つなのか二つなのか分からぬうちに、私の周りに奇妙な残像を表した。やがて視界がはっきりとして、それがどうやら人であることが分かった。私は否応もなく、それを異質に思い、恐怖を覚えた。理由は、それらがすべて人らしい笑みを浮かべていたからだった。普通の顔、愛想笑いや苦笑い。人間らしく、本質的ではなく無機質で当たり障りのない表情。私には、出来ない顔だった。

 やがて時間がたち、私の前に姿見があらわれた。そこに映る私は、人間とは思えないほどの黒い影で、表情など知りようがなかった。

 私はいますぐにでも逃げ出したかったが、どれだけ足掻こうと、姿見は私のそばをついて動いた。

 逃げる。逃げる。逃げる。

 無駄だとは気づいている。けれど、私は無意識のうちに逃げている。

 この時ばかりは、明確に、逃れようがないほどに、理解した。私がどれだけ、人間に、ただの人間になりたかったのか。死にたくはない。殺されたくもない。だれかを愛して、だれかに愛されたい。人が口にする[みんな]の中に、どうか入れてほしい。

 しかし私には、分からなかったのである。方法が。正しい生き方が、分からなかった。

「どうしろって言うんだ!」

 私の叫びが、姿見に亀裂を走らせ、それがひときわ大きな音を立てて崩れ落ちて、これが夢であると、ようやく認めることが出来た。





 私はどうやら気を失ったらしく、目が覚めた時には病院にいた。ベッドから体を起こすと、顔にガーゼや絆創膏が張り付いていることが分かった。手には包帯が巻かれていて、指の付け根がジンジンと痛みを訴えていた。皮が剥けているらしい。

「起きたか」

 重苦しい声が、隣のベッドから聞こえた。

 それは田口の声だった。

 私は驚いたが、それを悟られまいとして、いつものような無機質な顔を貼りつけさえしたが、田口には、もう、そんなことはお見通しらしかった。

「おまえ、俺が鏡を見ろと口を酸っぱくして言ってやった意味。考えたことあるか?」

 彼は私より酷い顔の腫れをしていた。

「……いや、考えたことはない」

 不思議と偽る気にはなれなかった。

 田口は苦い顔をして頭を掻くと、私の方へ体を向けた。

「いい機会だ。教えてやるよ。……おまえはまるで、人間らしくない。今までは、どういえばいいのか分からなかったけど、今なら言える。おまえの感情には理由がなかった。湿気た面、嫌な顔だ。人間でもないやつが、人間の真似事をしているみたいに。だからさ、気づくまで言ってやった。わからず屋のおまえが減らず口を叩くたびに、殴ったりもした。悪いとは思ってない。全部はおまえのせいだ」

 彼はそこまで言い終えると、ベッドから立ち上がって私の方へ寄ってきた。足はふらついている。あれもこれも僕のせい。そう彼は指摘する。

「じゃあ、なにが正しいっていうのさ……」

 私は頭を抱えながら考えた。それでも最後まで分からずにいると、彼の足音が近づいてきて、ピタッと私の前で止まった。機械の電源を切るかのような重低音。終わりを告げてでもいるようなその音が、私の耳を反芻しだして、私は私の中に、いろいろな予感がひしめいていることが理解できた。

「難しく考えるな。おまえは誰しもが手を差し伸べていないと思っているらしいが、握り返そうとしたことがあるか? 勝手に払いのけてきたのは、おまえの方だろ」

 田口は私の肩に手を置いた。私が顔を上げると、優しい顔がそこにあった。

「普通がいいって言ったよな。意識はぼんやりしていたが、しっかり響いたぜ。あれがおまえの本心だって言うなら、応える」

 彼は僕に手を差し伸べる。ごつごつした手には、包帯がまかれていた。田口も、本気で僕を殴っていたのだ。叱るように、激励でも言うように。本気で、僕に向き合おうとしてくれていたのだ。

 田口は歯をむき出しにして笑った。他ならぬ、僕に向かって。

「とれよ。いまさら気にするな。昔から喧嘩[友達]だろ? 俺たち」

 私は矛盾した感情に襲われながら、おもむろに彼の手を握り返した。

 味わったことがなかった。

 嬉しいのに、涙が出るなんてことは、経験がない。しかし、なにか的確で相応しい言葉を彼に向けたかった。私の……僕、自身の言葉で、述べたくて、ついと口を開いた。

「……ありがとう」

 届いたかどうか不安になって彼の顔を見上げると、ただ、優しい顔があるばかりであった。




 私と田口はこっぴどく叱られた。担任の教師はもちろん、校長や教頭まで説教に割り込んできて、私たちは肩を並べて長々と小言を聞いていた。リズムのいい口調で話す校長は他人の名言を持ち出して自分の言葉はろくに語らず、教頭はなぜだか感慨深そうな顔をして昔話をして説教の腰を折り、担任は頭を抱えながら今日は帰りなさいとだけ告げた。けれど私たちは守る気がなかった。

 担任にバレないように教室に行き、あらかじめ決めたとおりに互いの肩に腕をかけあって、あたかも喧嘩終わりの仲良しムードで中に入る。これは田口の発案だが、私には意味が分からなかった。私が人間らしくなるための第一歩などと言っていたが、やはり、分からなかった。

「おぅっす! 遅刻しました!」

 彼に釣られてゲラゲラと笑いながら教室に入ると、クラスメイトのほとんどは口をぽかんと開いていて、その中で一人、席から立っていたのは君だった。君はどうやら教師に指名されて教科書の朗読でもしていたらしく、両手で持った現文の教科書で口元を隠していた。目はパチパチと開いては閉じる動作を繰り返していた。

 そこで悪寒が走った。おそらくは田口も同じだろう。

 現文の教師が教卓から怒号を飛ばし、私たちはそそくさと逃げ出すことになった。




「ああ、いますよね。授業の邪魔をされたらすごく怒るけど、普段は温厚そうな先生とか」

 長篠はビールをあおり、すかさずピザをかじった。

「そう。現文の教師も、そんな感じの人だった。定年間近の爺さんだったと思うよ」

 私はたばこに火をつける。もう何本目かは覚えていなかった。それほどまでに私は楽しかったのだろう。いつか読んだ精神患者の自叙伝に、やりきれない思いを本に書き改めてみたら症状が和らいだという話があった。これもたぶん、それの真似事なのだろう。

「それで、効果は?」

「あった。すぐにではなかったけど、ゆっくりいじめもなくなっていったよ」

 ほとんどは田口のおかげだった。昼休みは私とおまえと田口の三人で飯を食い、誰かが心無い一言を発するたびに田口がそいつに喧嘩を持ちかけてボコボコにしたらしい。そういう被害者が増えていって、平和的ではなかったがいじめはなくなっていった。悪い事象としては、傘を紛失したことを理由におまえの傘に入れなくなったことが悔やまれるくらいのものだった。

「じゃあ、そこからは奥さんと安心してイチャつけたと?」

 長篠は正午にもならない内から、もう酔いだしていた。ピザをやたら大きく噛み、鼻息が少しばかり荒かった。私はグラスに氷を入れて水を注ぎ、長篠にそれを渡した。彼は申し訳なさそうに水を飲んだ。

「まあ、デートしたりしたかな」

 付き合っていたかと訊かれれば曖昧だった。私たちの関係は順序をいくつか飛ばしていたように思う。出会って、それなりに会話はあったけれど、互いに気持ちは言わないままだった。お互いの嫌な記憶を語り合って、気づけばキスをしていて、ほとんどの思い出に共演者として出てくるのが当たり前になっていた。

 明確に関係の進展があったのは、たぶんあの時だろう。




 高校を卒業して、私は地元の会社に入社し、君は大学に進学した。私は曖昧な関係がさらにあやふやになってしまうのを嫌った。

 私の家で同居をしないかと申し出て、君は二つ返事で受け入れてくれた。寝食を共にし、家に帰れば君が出迎えてくれる日々が続いた。だが、君の方でも、なんだか惰性的になっていたのに気づいたのだろう。ある日に君は、決心したように口を開いた。

「ねえ。ひとつ、お願いしてもいい?」

 君はクリーム色のセーターの上からエプロンをつけて台所に立っていて、部屋にこもったエアコンの温かい空気が、そんな君をより家庭的にしていたように思う。

「なんだい?」

 私はソファーに腰かけて、天井を見上げていた。

「わたしが大学を卒業したら、プロポーズしてほしいの」

「え?」

 私は妙に驚いた風をして君を見た。君は手元に目を落としたまま、ただただ食材を刻んでいた。リズムのいい音が大きく聞こえた。

「もうすぐできますからね」

 君はまるで何も口にしてはいないかのように言った。顔はいつもの優しさを湛えている。

 聞き間違いであれば、それでもよかったのかもしれないが、私はなぜだか君が怖くなった。君は怒るときも、僕が酒を飲んでいても、やさぐれたとしても、優しく笑っている。君はどうして、私の傍にいてくれるのだろうか。




 長篠がトイレに入ってからというもの、私は窓辺に立って知らない街を眺めながら、自分が年をとったことを痛感していた。

 あの後、おまえの言葉を聞いた後、私はなにかをおまえに訊いた。しかし、それが思い出せなかった。それが、私がおまえを心から求めるようになった理由だというのに。まるで私は、現実から目を逸らすかのように、あの言葉を忘れている。私はなにを訊いて、おまえはなにを答えただろうか。

 私は元来、素直ではなかったが、まるで暗示にでもかけられたようにおまえの卒業を待ってから結婚をした。指輪は値段も気にせず買った。おそらくは驚かせたくて、泣かせたくて、傍にいてほしかったのだろう。

 その時ばかりは、素直になるしかなかった。分かりきっていたのだから。私が晴れの下で生きるには、私に晴れをもたらすのは、おまえしかいないのだと。

「どうしてだろうな……おまえが死んでから、前よりもずっと、考えることが増えた気がする」

 知らない街に目をやりながら、ふいに思い出してしまったあの日のタンポポ。私が衝動的にしてしまった咎められない罪。あれがどうにも、頭を離れてくれなかった。

 喉が渇いて、私はビールを豪快にあおった。そうやって、私は記憶を掘り起こしている。

やがて行き着いたのは、こればかりは忘れようもない記憶だった。




 もうじき梅雨がやってくる春の終わりごろ。私は仕事を定時であがって病院に行くと、おまえはベッドの上に起き直って、その大きく膨らんだ腹を撫でていた。私はなんだか気恥ずかしくなりながらベッドの横にある簡素な椅子に腰かけた。

「ねえ、もう名前は決めてくれた?」

 急かすような口調で、けれども落ち着いた様子をしながらそう切り出した。難しい問題であることは、おまえも理解していることだろう。

「なかなか決めかねていてね」

 毛がココア色だからと犬にココアと名付けるのとでは訳が違う。自分の子供に名前を付ける、そのうえ男の子となっては、さらに難しい。お手軽に漢字を一字あてて助とつけるのも安直である。だとすれば、どうすればいいのだろうな。

「ふふっ。困った人ね……」

 おまえは少ししゃがれた声で呟いた。私は苦笑いをしながら項垂れた。

 理由のない名前も願いのない名前も、探せばいくらでもあるのだろうが、この子にはなにか、意味を持たせたかった。

 私たちのこれまでを思い出しながら、なにか決定的な出来事はなかっただろうかと思惟にとらわれたが、考えるうちについつい眉間に皺が寄ってしまい、おまえはとうとう口を開いた。

「あなたの名前は、どういう意味があるの?」

「また難しいことを訊くな。道徳の授業でも受けているみたいだ」

 私の名前は良一と名付けられた。これは親父がつけてくれたらしい。良いことが一番。一番良い。などの稚拙な文でしか表すことのできない名前である。しかし、親父も悩んだ末にそう名付けたのかもしれない。

「そうだな。難しく考えるのも良くない。僕の名前から一字取ろうか」

 私は言い出しながら、取るならば良がいいだろうと変なこだわりをした。そうして私たちの出会いや、いろいろな、雑多な出来事もかみ砕いたうえで、ついと、「そら」、と口にした。

「そら?」

「ああ、漢字はこうだな」

 私はポケットからメモ帳を取り出すと、そこに[曽良]と書いた。

「そら……曽良……ええ、いい響きだわ」

 急に恥ずかしくなりだしながら、私はなぜだか誇らしい気持ちになった。

 ――親父も、同じだったのだろうな。

 おぼろげで、けれども確信めいた思いを抱く。母のことは分からないけれど、あなたのことなら、いまの私は分かる。幸せだっただろう。未来が明るく見える。何も見えないほどに。




 ――その後のことは、夢に出てくるほど覚えている。

 私は病院から帰って、家の電話の前に立った。おもむろに、親父に電話をかけた。すぐに留守電につながって、私は迷わず、そこに残すことにした。

 親父は今でも、月に一度の仕送りを欠かさなかった。ずっと、あなたなりの親の務めを果たしてくれていた。

「……父さん。僕さ……結婚したんだ。子供も、もうすぐ生まれる。男の子で、曽良って言うんだ。父さんから貰った僕の名前から一文字とって曽良だ。良い名前だろ? ……それでさ」

 私は続く言葉を考えた。間を置いて、これに違いないと思って、続きを残した。

「もう……いいんだ、父さん。僕はもう、一人でやっていける。……ありがとう」

 これがいけなかった。私の本心を語るべきだった。親父に対して、素直になるべきだった。呼びかけることはできた。呼び止める材料もあった。けれど、素直になれなかった。

 ――帰ってきてほしい。

 言い出せぬまま、私は電話を切った。

 それからというもの、私は電話をかける夢を見るようになった。相手は親父で、私は必死に帰ってきてほしいと、まるで叫びでもするように言い続けている。親父には届いていないらしく、親父はただただこう繰り返すばかりであった。

「すまないな……すまないな……」

 泣いてでもいるかのように、声は震えて、ときおりしゃくりあげる調子が伝わってきた。私の知らない親父の姿が、ひどく痛々しく、夢の終わりは、いつもこうして締めくくられていた。

「すまないな……なにも、してやれなかったな……」

 私は、気づけば静かに涙を零して、ひとり、目を覚ますのだった。




 曽良が産まれると、手の形が私に似ていることをおまえはたいそう喜んで、私は次第に恥ずかしくなった。

 やがて私とおまえの間に曽良が溶け込んで、三人で手をつなぎながらよく伍坊駅から遠方まで旅行に出かけたりした。曽良は元気な子に育ったが、一方でなかなか素直になってくれない子供だった。おまえはよく、男ならあなたに似るに違いないとなぜだか確信したように言っていたが、どうやらおまえの方が正しかったらしい。

 けれど曽良は保育園で知り合った女の子の前では素直な一面を惜しみなく見せる。それを親らしい目で見守っていた。初恋だろう、これは。

 その女の子は、かさね、といった。

 かさねという美しい名前を、八重撫子と例えたのは、曽良という男ではなかっただろうか。

 私がそんなことをおまえに尋ねると、おまえはにこやかにしながら頷いた。やがて私の方にもたれかかって、さも楽しそうに、幸せの行き場を求めでもするように甘い吐息を私に聞かせた。

 二人目の子供が出来るまでそう長くはかからず、女の子だと分かると、名前はすぐに決まった。

「女の子なのだから、おまえの名前から一つとろう。千尋はどうだ?」

 私の一声におまえはただただ頷くばかりであった。

「良い子になる。おまえに似るだろう」

 私は仕返しでもするように呟いた。

「ええ、良い子になるわ。わたしたちの子だもの」

 おまえのそれは、いつも自信に満ちていた。裏付けるものなどなにもないはずなのに、言われてしまえば、私も、そう思わずにはいられなかった。

 千尋は甘えん坊に育った。口の形や耳たぶの膨らみがおまえに似ていた。

 曽良と一緒に遊んでいるのが常で、曽良もよく世話をしてくれていた。小学校に入学すると、どうしたことか任侠映画やドラマにハマりだして、私は悪影響なのでは咎めたが、おまえはなにも言わなかった。

 結局、私が思っていたほどの悪い影響は出ないままだった。強いて言うなら、曽良を呼ぶときの[お兄ちゃん]が[アニキ]に変わったことくらい。私を頭領だとか、そういう風に呼ばなかっただけマシなものである。

 二人には、私が経験してこなかったことをさせた。休みの日には遊びに行って、キャンプをして、海水浴に行って、外食をして、ありとあらゆることをした。親父が私にしなかった。いや、してやれなかったことをさせた。




 それからしばらくして……。




 私の言葉が途切れると、長篠は不思議そうにして、傾けようとした缶ビールを口元で止めた。

 ――とうとう、ここまで来てしまった。

 たばこの煙が、寂しく立ち込めていく。冷めはじめたピザは侘しく、ぬるくなったビールは、容赦なく、悲しかった。どうしてか音が恋しくなって、私はおもむろにテレビをつけた。夏の高校球児たちの勇姿が映し出され、温度差のある実況が聞こえた。

 私は頭を抱えた。そうして目を閉じながら、ただただ向き合いはじめる。やけに長い半年間。忘れられない悲しい記憶。最愛の死。おまえの死。

 おまえのいない世界は、いつだって曇ってみえる。

「私は、親父と同じ道を、歩もうとしているのかもしれないな……」

 ついとそんなことを口にすると、胃からなにかがこみ上げてきた。吐き気ではなかった。胸やけ。苦しみ。私の息苦しさは、長篠でさえ分かりようはないだろう。分かるはずはない。おまえをこよなく愛していたのは、私以外にいないのだから。

 あの小さな傘の中。雨の中にあるわずかな晴れの中で、私たちは窮屈そうに、しかしそれをどこか心地よくさえ思いながら身を寄せ合ってきた。

 ――おまえのいない晴れの下など、ただの傘の下でしかない。

 私は……僕は、もう、どこへも行けそうにない。

「妻は、死んだ」

 長篠は、もう、喋らなかった。


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