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第17話《ブライトネス》前編

 私がまだ人見知りだったころ、学校でいじめなどを受けた。罵声はなかったが、口汚く見苦しく醜い言葉の雨が、私の周りには降っていた。

 勉強はできた。テストも大抵のものは出来た。運動もそれなりに出来た。しかし、私には友達がいなかった。

 通学路は他の生徒とは違う方向で、いつも一人だった。沈みゆく陽を眺めては、明日が来ないように祈っていた。世界に嫌気がさした思春期の子供にありがちな破滅願望が暴力的に私を支配していた。

 私は好かれる努力はしなかった。相手が自分のことが嫌いだと分かれば、とことん嫌われようと思い立って、喧嘩を買ったり、売ったり、殴ったり蹴ったりをした。恥ずかしいことではないだろう。すべては思春期のせいだ。私を勝手に嫌った彼ら、あるいは彼女らのせいだ。

 生傷の絶えない日々だった。これは一種の通過儀礼なのだろう。耐えるしかあるまい。無理に背伸びをして、まるで悟りきってでもいるように血の味を噛みしめながら、ふいに寂しさがこみ上げるときには夜中に家を抜け出して、暗い夜道を静かに走ったりした。体を痛めつけたかった。自殺は嫌だが、誰かのせいで死ぬのならそれも悪くない。自由と平和を謳うこの国には、誰でもいいからとナイフを向ける天使が息をひそめている。私はその誰でもいいからと殺される側になりたかった。

 そうやって、他殺願望をぶら下げて生きてきた。無気力なままに、生きる意味も、必要とされることもないままに。

 家には誰もいなかった。一人っ子で母は早くに他界して、親父は酒ばかり飲んでいて部屋は常にたばこの煙がこもっていた。それでも親父は働いて私を高校に入学させると、およそ私の知らないおそらく親父でさえ知らない場所に働きに行ったままである。月一で送られてくる生活費。私はそれに頼らぬように、高校に入るとすぐにバイトを探して地元で有名な中華料理のチェーン店で働きだした。親父のようにはなりたくなかった。たばこを吹かし、缶ビールをあおり布団も敷かずに居間で雑魚寝をして、私の知らぬうちに仕事に出ているような親。というよりは、そういう人間に私はなりたくなかった。




「烏丸千鶴と言います。よろしくお願いします」

 ある日、私の覚えている限り寒い日。雨さえ降っていたと思う。

 そんな日に、私のクラスに転校生がやってきて、皆の注目を集めた。黒板に名前を書き記し教師の隣で微笑んでいる彼女は、この都会面した中途半端な発展途上の田舎には似合わないほど垢ぬけていたし、可愛いというより綺麗で、私の目にはまぶしく映った。整った鼻梁、学生にはないどこかセンシュアルな魅力に、小ぶりな唇。着慣れていないはずの制服でさえ、まるで彼女のために作られたと言わんばかりに映えていた。

「席は城戸の隣だ」

 教師がそんなことを口にするから、私は少々心を躍らせた。が、すぐに現実に引き戻された。

「ゲ、城戸の隣かよ」

 誰かがそう発した。

 心無い言葉が、ふいに私を現実に引き戻した。そうだろう、そうだろう。彼女には彼らの世界が相応しい。私を卑下する人の群れの中、堂々と胸を張って微笑みながらときに私を非難すればいい。

 そうやって自分の中で醜い妄想を押し付けて、どうにか彼女を嫌いになろうとする。けれど、いざ隣にやってきた彼女が私の方へ一礼して、落ち着いてそのうえ美しい淀みのない動作で席につくと、私はやはり思春期の子供らしく胸をときめかせたりした。

 どこから来たの? 家どの辺? いい匂いだね、シャンプーとかなに使っているの? クラスメイトの女子は次々に彼女に質問をぶつけた。まるで未知と出くわしたかのように。質問は絶えなかった。普段なら休憩時間はグラウンドに出たりしたが、その日は雨だったし、なぜだか席を動く気にもなれなかった。窓の外を見ている風をしながら、彼女の応答に耳を傾けた。本でよくある例えだが、鈴の転がるような声とはこういう声なのだろうと納得できるほどに、彼女の声は美しかった。




 帰るときになって、また転がった現実を拾い上げた。持ってきたはずの傘が、どこにもなかった。

 別に構わない。風をひいてもいい。体が弱れば、それで病院にも行かずにじっとしていれば、ぽっくりと死ねるのかもしれない。それがいい、それがいい。

 私は一人、家路についた。誰も怒らない。誰も私を心配しないし、必要ともしない。けれど、なぜだか自殺を望みはしなかった。たぶん、親父が自殺しようとはしないからだ。

 降り続く雨の中、遠くから足音が届いた。雨よりも激しく荒々しい足音が近づいてくる。それは私のすぐ近くでゆっくりとなって、なにやら決心でもしたようにいきなりまた早く足音を響かせる。彼、あるいは彼女がナイフでも持っていたらいいのに。私は祈りながら空を仰いで目を閉じた。私に対するいじめは、その界隈では――つまりはいじめの度合いで競い合う被害者の間――たいしたものではないのだろう。でも、私より酷いいじめを受けたというものがあれば、やはり私は普通がいいと叫ぶだろう。才能はいらない。特別じゃなくていい。生きるために顔も分からない誰かのために労働をして、そうやって生きていきたい。思い描いた夢を諦めて、あの頃は若かったと、昔を振りかえられるような、平凡で退屈な毎日を、どうか送らせてください。

 とつぜん雨が止んだ。雨音は止んでいないというのに。私は目を開いた。私から雨を取り払い疑似的な晴れをもたらしたのは、ビニール傘だった。

「風邪……ひきますよ?」

 烏丸千鶴がいた。肩を上下させてなにやら怒った風をして息を整えている彼女からは、ほのかにバーベナの香りがした。

 走ってきたらしい彼女のローファーには泥跳ねが散っていて、なんだかみすぼらしかった。

 私には分からなかった。彼女がなぜ必死そうにしているのか。その理由が。激しさの理由。気遣う理由。そして私の顔を覗き込むようにして見つめてくる彼女の瞳が輝く理由。すべてが、私には分からなかった。

 私は黙ったまま、しばらくどうしていいのか分からないと云った風をして、思わず見つめ返してしまった彼女の目から視線を逸らしたりした。

「風邪くらい、どうってことはない」

 私は些か語気を強めて言った。そうすることで彼女が自然に、いま自分がしていることは余計なお世話であり、いらぬ心配なのだと気づけるように。しかし私の理想に沿わず、彼女はその後も私の上に晴れをもたらしていた。

「前時代的な考えですよ。風邪だって病気なのですから」

 彼女はようやく息を落ち着かせてから言った。まるで説教でもしだしたかのように顔をしかめる姿には、どこか思いやりがある。

 彼女は二言三言、私を叱るみたいな台詞を吐いた。彼女の姿が、私は愛おしいと感じだした。これまで、私を叱る人はいなかった。少なくとも僕のためを思って言うことは、親父でさえしなかったことだ。

 素気無くあしらうことは出来ただろう。無言で立ち去ることもできただろう。だがそうできなかったのは、私が私でも驚くほど無意識に、彼女と同じ傘の下、晴れの中で生きたいと思いだしていたからだ。晴れの中、光の中なら、明日を願えると思った。

「いいですか。雨の日には傘をさす。常識です」

「ああ、そうか。それは知らなかった」

 私はわざとらしく言った。

 彼女はなんだか思いつめたように俯いて、それからやおら顔を上げて、

「あの……城戸さん」

 小首を傾げ、物憂げな表情の彼女の背後で、雨脚が強まるのが見えた。

「いじめられているのですね」

 私は息を詰まらせながら、なんとか、知っていたのかとつぶやいた。

 彼女はまくし立てるように経緯について説明を始めた。帰ろうとしたら生徒の嘲るような笑い声が聞こえて、彼女は物陰から耳を傾けて聞いていたらしい。私の傘を隠した張本人たちの会話。私を名指しで馬鹿にする汚れた現状。それを聞いて駆け出したこと。腹が立ったこと。すべてを包み隠さず話してくれた。

「どうして、追いかけてきたのさ」

 彼女は表情を曇らせて傘を握りなおした。私はそういった動作を子細に眺めながら動き出せずにいた。

「同情じゃないのです。それに、わたしの家もこっちだから。あとは……」

 彼女が少しばかりこちらに身を寄せた。空気を読まない心臓は大きく音を立てる。

「たぶん……わたしにはこれしかできないから」

 悲しそうに尻つぼみになる彼女の言葉が私に届く。私は黙ったままでいた。どう言えばいいのかついに分からなくなった。沈黙が雨音をいっそう印象深くさせていく。彼女が私の顔を覗き込み、ふいに微笑む。寂しげで、諦めきった顔。そして小さい晴れの中、また彼女は口を開いた。

「わたしも同じです。城戸さんと」

 おもわず開いた口から、え? と声が出ていた。

 彼女はまたしても、まくし立てて語りだした。共感を求めでもするように、まるで私にしか分からないとでも云うように、途切れ途切れに言葉を紡ぎだす。

 彼女の容姿は歳に似合わず大人びていて、何をしても絵になった。彼女が忘れものをしても、家庭科の時間に料理を焦げ付かせたとしても、クラスの男子、そのうえ男性教師でさえも口元を緩めて見惚れたような顔をする。それをよく思わないクラスメイトがいて、うんざりする毎日が続いて、彼女はこの田舎に越してきた。枝葉末節に至るまでを口にし、私はそれを飲み込んだ。落胆というよりは、嬉しかったのだと思う。彼女の世界と私の世界に共通したものがあること。そして私自身が彼女の世界を理解できることが。

「帰ろうか」

 私は優しく聞こえるように努めながら、彼女の目を見つめた。彼女は静かに頷いて、歩き出した私についてきた。




 同じ境遇にあった私たちが打ち解けるまで、そう時間はかからなかった。気づけば昼食を共にするようになっていたし、帰り道はいつも肩を並べて歩いた。それが何週間か続いて、夢の中にでもいる気分がしだした。必要とされる心地よさを感じた。

 ある日の朝の事だった。

「ああ……そうか」

 下駄箱の中に赤い手紙。ラブレターなんてものじゃない。

 これを見たらすぐに体育倉庫の裏に来い。

 手紙にはそう書いてある。見慣れた文字、見慣れた形。差出人はすぐに分かった。

 私はうんざりしながら指定場所に向かった。

 陰になった体育倉庫の裏側。そこで壁にもたれて待っていた男。田口は私がよく喧嘩をする奴だった。絵に描いた番長みたいな体つき。ブレザーの上からでも分かるほどの――何のために鍛えているのか分からないほどの――隆々とした筋肉。短気で馬鹿。喧嘩が得意な男。彼とは小学校からずっと一緒だった。

「おう。来たか」

 彼は私の方へ向き直った。鋭い眼光で私を睨みながらにじり寄ってきて、さっそく私の胸倉を掴んだ。私は至って冷静に彼の目を見ていた。彼の瞳が光るのは怒りのためか、はたまた違う理由なのか、私に知りようはない。

「おまえ、鏡とか見ないタイプだろ」

「あいにく家の鏡は割れていてね」

 私は怯まなかったけれど、激しくうんざりした。彼の手に力がこもる。段々と苦しくなる息に私が顔を歪めると、彼はこう切り出した。

「最近、あの転校生とよく一緒にいるだろ」

 彼が何を言い出すのか、経験が、記憶が、私の中で勝手に言葉を紡ぎだす。何度も言われた言葉。私はひどく疲れた風をして口を開いた。

「ああ……あの子が穢れちまうだろ、お前なんかと一緒にいたら、だろ」

 顔に拳が飛んできたことに気づいたのは、痛みが走った後だった。急に血の味がしだした。口から流れ出るものは口の端に熱さをもたらし、すっと夢から覚めたみたいな心地がして、私がどんな人間だったかを思い出した。いじめられっ子。他殺願望者。不必要で、醜い。ただの独りぼっち。

「分かっているなら、それでいい。鏡でも見ながら、自分がどんな顔か確かめろ」

 彼は言いながら私から手を放し去っていった。

 私はその場に座り込んだ。口にたまったものを唾と一緒に傍らへ吐き捨てて空を仰いだ。曇りなく晴れている清々しいくらいの空なのに、なんだか息苦しかった。きっと血の味がするからだ。私はまた唾を吐こうとした。するとピリッと痛みを感じた。目の前を見ると、目の端に何やら輝くものが映った。それはタンポポだった。私はおもむろに立ち上がると、そちらに歩み寄って、衝動的に、まるで狂ったとでも云ったようにその黄色い綺麗な花を踏みつけた。踏みにじって、まもなく足を退ける。やり場のない感情の被害者になった花は、およそ美しいなどとは思えないほどに土をこびりつかせて、花びらの色はくすんだように見えた。

「くそ……クソっ!」

 血の混じった唾を吐きかけ、そこに雨粒が一つ落ちるのが見えた。

「あっ……」

 雨ではなかった。

 自分が気付かないうちに目頭が熱くなっていて、とうとう涙が零れたのだ。

 私は急に我に返って、その花を摘み取って、両の手で強く握りしめた。

「ごめんなさい……ごめん、なさい……」

 許しは得られなかった。花はもう死んでしまっていたから。




 その日は家に帰った。ゆっくりと歩くことしかできなかった。ふらつく足元。やたら喉が渇いている。

 家につくと親父が残していった缶ビールを冷蔵庫から一つ取り出して、間髪をいれずにあおった。痛いとか不味いとか苦いとか、何もかにもが一斉に私の頭を取り囲んだ。酔いはすぐにやってきて、私は冷蔵庫の前で胡坐をかきながら、さらにビールを飲む。

「……あああ」

 ぐらつきだした視界を天井に向けて、冷蔵庫の明かりに照らされながら、ビールを飲むことを止めようとはしなかった。やがて視界がキラキラと輝きだした風に錯覚して、それから顔の痛みや血の味が薄まってきて、私は思わず笑った。なんだよ、なんだよ。なにも変わらないじゃないか。期待した私が馬鹿だった。私に陽の光は相応しくないらしい。

「穢れるだって! 一緒にいるだけで!」

 空になった缶を投げ飛ばして、私はなにやら口走ったらしいが、すぐに忘れていた。誰かが答えてくれると思った。誰もいないのに。独りぼっちなのに。

 私はもう一本ビールを取り出した。今度は落ち着きながらそれをあおる。徐々に感情が醒めてきて、普段なら考えもしないことをやたら考えるようになる。

 母は物心つく前に交通事故で他界したらしい。だから写真にしか姿は残っていない。でも記憶のない私には、母が抱いている子供が自分とは思えず、まるで他人のような気がした。母が母であるという認識でさえ、出来なかった。

 親父だけは親父だと思えた。だが誇らしくはなかった。

 ヒューマンドラマによくいる駄目な親父で、ギャンブルはしないまでも酒は毎晩飲んでいたし、いつでもタバコ臭かった。

 そして、部屋中にそんな悪臭が蔓延っているものだから、洗濯物にも臭いが染みついた。それがそんなに悪いものだとは知らなかった子供の私は、タバコ臭い服で学校に行き、こいつは臭いやつ、というレッテルを貼られ、いじめられるようになった。

「誰のせいだよ……だれのぉ……」

 親らしいことは何一つされなかった。日曜に遊ぶこともなかった。おもちゃを買い与えてくれることもなかった。怒られることも褒められることもなかった。無関心だったのだろう、私には。

 けれど……いや、考えるのはよそう。

 私は途切れ始めた意識の中で、ビールをあおった。




 私が目覚めると、一定の間隔をあけてベルが鳴っていた。セールスか宅配かは分からなかったが、私は台所から立ち上がる気になれなかった。ひどい頭痛に頭を抱えながら、私はベルが鳴りやむのを待った。

 十分が経ち、二十分が経つ。

 ベルの間隔は狂わず、しかし狂ったように鳴り続いていた。

 私は苛立ってたち上がり、壁に手をつきながら玄関まで歩いた。セールスなら怒鳴りつける。宅配ならさっさとサインを書いて、その荷物を部屋に思い切り投げてやろう。そんな暴力的で反逆的な思考にまみれながら、玄関の戸を開いた。

 もうじき夕方らしく、心地よく優しい光が次第に私を包んだ。容赦ない晴れの姿を映し出しながら。

 また、烏丸千鶴が立っていた。

「やっぱり、いたのですね」

 彼女は微笑んでいる。寝ぼけていた私の意識は鮮明になり、私の臭いに気づいた。

「悪い。実は酒を飲んでいた」

 私は懺悔でもしだしたように、弱々しく口を開いた。まだ喉が渇いているらしいことも、ようやく理解できた。

「ええ。また誰かが噂話をしているのを聞きましたから」

「はは。またか。なんだかかっこ悪いな」

 私は頭をかき乱しながら笑った。まだ彼女は笑んだままだった。

 やはり彼女が近くにいると、自分が晴れの中にいる気分になる。平凡な世界に生きている気分になる。生きていいのだと、言われている気分になる。

 彼女は教師から出された課題を届けに来たらしい。わざわざ私の分のプリントまで取ってきたらしい。

 私はそれを受け取ると礼を言って、戸を閉めようとした。

「あの! 城戸さん」

 彼女は戸に手を置きながら、思いつめた顔をした。私は黙っていた。

「入っても、良いでしょうか?」

 私の顔をうかがうように、彼女はこちらを覗き込む。無意識に拒めないと理解した。

「ああ……でも、今は酒臭いし――」

「構いません」

 彼女は身を乗り出して私を見る。強い眼差しは荒々しく、それなのに優しかった。

 彼女は家に上がった。私の横を通っていく彼女からは、やはりバーベナの香りがした。

 物珍しそうに家のあちこちを見てまわって、彼女は台所に行った。私は彼女について動いた。まるで自分の家ではないかのように。

 床に転がった空き缶を拾い上げて、彼女はそれを嗅いで私の方に笑みを飛ばした。どういう意味かは酔っていてわからなかった。また私は頭痛に襲われて壁にもたれた。すると彼女は私の方へ駆け寄って、私の体を支えてその場に座らせる。

 じきに乾きがやってきた。

「喉が渇いた。……冷蔵庫に酒がある」

 まるでアルコール中毒にでもなったように頼んだが、彼女は私の隣に座り込んで動こうとはしなかった。

 私がまた口を開こうとそちらに顔を向けると、やけに彼女が近くにいて、それが段々触れあうほどになると、とうとう彼女は私に口づけた。

 どうしてか拒めなかった。彼女から漂うバーベナの香りが私を惹きつけたのか、私は彼女のしたいようにさせていた。拒む理由はなく、受け入れる理由はあった。私はただ、この時だけは彼女のものでありたかった。

 窓から差し込んだ光が、ようやく口を離してこちらを見つめる彼女の顔を盛大に茜色に染め上げていた。彼女の頬がかすかに赤く色づいているのを、遠のいてしまいそうな意識の中で認めると、私の胸の内が急に温かくなりだして、彼女がなにをしようと、私ならば、許してしまえる気がした。

「なにも、言わないでくださいね」

 彼女は言いながら私を抱き寄せた。私も彼女の体を抱きしめようとしたが、私は私でもどうしようもないほどに脱力しきっていた。うっすらと開いた口元から放心じみた息が漏れる。彼女が小さく心地の良い笑い方をした。私はなにかを言おうとして、結局言い出せず、気づけば彼女の思い通りになっていた。




 私は一度も、親父に、いじめられているとは言わなかった。たとえ酔っていても、どれだけ親らしくなくても、親父はひたむきに働いて私を学校に通わせ、高校にまで入れてくれた。もちろん、私の知らない制度や補助もあったのだろうが、私には関係ない。ただ私は、親父が自分のためにしてくれることが嬉しかった。心配させたくなかった。学校に行きたくないなんて、口にもしたくなかった。

 でも、やはり傍にいてくれないのは嫌だ。

 私には勇気がなかった。親父に電話をかけ、帰ってきてと言うだけでよかった。親父を呼べばそれでよかった。なぜ私は言い出せなかったのだろうか。

「素直じゃないのですね」

 隣に腰かける君が、ふいにそう言った。君となら、君になら話せると思って、私は親父のことを思い出せる限り話した。

 その中で一度も、私は親父を悪者に出来なかった。どうやら私の中で、親父というものは良いやつでしかないらしいということが、酔いのためか、憔悴のためか、すんなり受け入れることが出来た。感情は自然に発露して、私は君の手を握ったまま涙を零したりした。

「ああ、そうだな。君がいなければ、気づきもしなかった」

 君が必要だ。とは、言い出せなかった。変なプライドだろうが、私のことだ。せめて私が自分自身の手で終わらせるべきことだ。けれど、私は急に寂しくなって、君の方へ顔を向けて、君の微笑みや瞳の色などに、つぶさに愛おしさを見出しながら口を開いた。

「もし人を殺したとしても、君は許してくれるか」

 君は顔色一つ変えずに、むしろ今までより強く笑みを浮かべながら、私の手を両手で包んだ。

「ええ。でも、あなたは悲しい人よ。辛いことも一人が寂しいことも知っているわ。それでも、あなたがもしそうしてしまったのなら……」

 君はまた、私に口づけた。

「傍にいます。ずっと」




 私は私でも驚くほどに、あっさりとそれが出来てしまった。

 ある朝。赤い紙に体育倉庫裏で待つという旨を書いて、田口の下駄箱に入れた。これは初めてだった。私は鞄を持ったまま、体育倉庫裏に行って待つことにした。

 目的地に着くと、私は壁にもたれかかって待っている間、あちらこちらを見やった。日差しは鋭く、蝉さえ泣き始めていたと思う。遠く蝉の断末魔が響いたと思えば、近くの草むらに音を立ててなにかが落ちた。どうやら蝉の亡骸らしいと分かると、目の端に輝くものが見えた。それはどうやらタンポポらしかった。外来種かなにかだろう。遠くからわざわざ、こんなところに幸福をもたらしに来たらしい。

 私は微笑んだ。自然に。忘れていたものを思い出しでもしたように。


 しばらくして、田口がやってきた。なぜだか驚いた顔をして私を見ていた。




「それから、どうなったんですか?」

 私が話を中断すると、同僚の長篠が先を促した。けれど私は言葉を濁しながら、たばこを吹かした。

 仕事終わり、私は長篠と一緒に喫煙所の椅子に座って、昔話に花咲かせていた。長篠も既婚者で、そのうえ新婚だった。私より二回り近く若かったから、結婚生活がどんな感じかとか、妻との付き合い方とか、そういったことを、彼は人生の先輩と言いながら私に訊いてきた。私はあまり気乗りしなかったが、せっかくの機会だと思って話すことにした。

 中断したのは、喫煙所に人が増えてきたからだった。

「じゃあ、長篠の出会いはどんなだったのさ」

 私は些か強引に話を変えた。喫煙所では皆、一日を振りかえるか事務的な話をしているか、もしくは野球の話をしている。面白いことに疲れたと口にする人は珍しかった。

「僕ですか? ちっとも面白くないですよ」

 彼はおもむろにたばこを吸い、ため息のように煙を吐き出してから間を置いて喋りだした。

「大学の合コンで会いました。一つ年上で、それだけでなんだか、大人に見えた。スタイル良くて、胸もあって。だから無性に欲しくなって、連絡先を交換して付き合って、生活の見通しがついて、結婚です」

 喫煙所の何人かが、私を睨んでいた。程なくして理由は分かった。

 帰り道のバスの中、彼は吹っ切れたように口を開いて、妻がガンで死んだことを教えてくれた。だから遠いこの地にやってきて、寮暮らしをしているらしい。私はまだ、お前が死んだとは口にしていなかった。だから、彼が羨ましそうに私を見つめながら、指輪を擦りだしたときは、胸に針でも刺さった感覚に襲われた。私は謝罪したが、彼は笑ったままだった。

 地元を離れてもうすぐ半年になる。その間、罪悪感のような負の念が私を休まず陥れようとしてきた。千尋や曽良、そしてお前までもを置き去りにして、私は逃げてきた。

 今なら、親父の気持ちが分かる。たばこにため息を吐く理由を求め、ビールに思考をせき止めてほしかったのだ。考えずにはいられない。お前が生きていたら、私はまだ、陽だまりの中で生きられたのではないかということ。お前が死んで、私は生きた心地がしなくなったこと。考えたくなくても、気を抜けば考える。これまで、私の生活はお前を中心に回っていたのだから。


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