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第16話《要求と見返り》

 ふと気が付いた時には、僕は家で笑うことがなくなっていた。会話も最低限だった。テンプレートな挨拶。学校であったこと。料理の感想は簡潔に。父も、僕も、千尋も、何にも触れなかった。

 ある日に父は遠くの方へ仕事に出かけた。帰ってくるのか、だとすればいつ頃なのかを告げないままに。

「アニキ。コーヒー飲みたい」

 千尋の唐突なリクエストに頷き、僕は台所に立った。

 千尋も僕も、すでに夏休み。真っ暗な部屋の中で、明確に有限と分かる貴重な時間を無駄にしたくないためか、それともただ一人が嫌なのか。互いに眠ろうとはしない深夜のこと。千尋は今日から四日連続で放送されるらしいホラー映画特集テレビをまじまじと見つめている。僕はその後ろで、やかんを火にかけ、コーヒーと一緒にココアを作ろうと思い立ち棚の奥からインスタントのココアを取り出す。がさがさと物音を立てていたのが気になったのか、千尋がどうしたことかと近寄ってきた。

「コーヒーなら手前にあったでしょ?」

「うん。なんだかココアが飲みたくなってさ。探していたのさ」

 僕が、分かりやすくココアとプリントされた袋を千尋に見せると、千尋は素っ気なく鼻を鳴らして納得した。

 僕はやかんが鳴りだすのを待って火を止め、コーヒーとココアを作った。

「はい。コーヒー」

 千尋は僕の差し出したカップを受け取り、早速それに口をつけた。千尋は最近、やたらとブラックでコーヒーを飲むようになった。たぶん、父が遠くに行ってしまってからだと思う。これまで甘いものを好んで口にしていた千尋が、まるで対照的なものを好むようになった。

 僕はココアに口をつける。楽しいのか楽しくないのか、よくわからない感情をぶら下げてホラー映画に目をやる。電気もつけないで観るテレビ。咎めることはしない。代わりに並んでテレビを観る。僕は兄としての仕事を、親のいない今どうやっても僕以外にはなしえない仕事を放棄している。

「ねえ。アニキ」

 千尋はテレビの方を見やったまま口を開いた。

「ちょっと飲ませて」

「いいよ」

 答えると、千尋は僕に身を寄せて顔を突き出した。僕は自分の手にカップを持ったまま、それを千尋の口に当ててゆっくり傾けた。薄い明りを頼りに目を凝らすと、千尋の喉が動くのが見えた。それと同じくして、千尋の表情が少しだけ和らいだような気がした。

 はたと気づいたのは、そんな時だった。僕のすべきことが他にあること、コーヒーよりも甘いココアに揺さぶられた千尋の感情が、本来の千尋の姿であること。けれども、僕には分からないのである。こうして並んでテレビを観て、求めに応じてコーヒーやココアを淹れてやる他に、何をすればよいのか。

「コーヒーあげる」

 千尋はやはりココアの方が好ましいらしく、気づけば僕からココアを奪い、代わりにコーヒーを持たされていた。僕は何も言わないまま、千尋のしたいようにさせた。おもむろに千尋の頭を撫でてはみたが、何のためかは分からない。

 僕はコーヒーに口をつけ、その酸化した苦みを飲み干した。




 翌日、僕にしては珍しく、千尋の買い物に付き合うことにした。兄と妹には見えないほどに仲睦まじい空間を想像してみたが、それは現実になりそうになかった。千尋はどこか浮かない顔をして、僕は妹の買い物をする様を微笑ましくも思えないまま、ただ時間は過ぎていった。

 近所のショッピングモール。夏休みという環境が手伝って、館内は子供連れが多く賑やかだった。悲鳴のような笑い声が響いたりしている。迷子のお知らせはいつになく多く感じられた。雑踏が通り過ぎ、それから逃げるように、あるいは避けるようにして僕らは人気のないメキシコだかどこだか分からない外国の服やアクセサリーばかりが並ぶ店に入る。疎らに点在する人と狭い店内。独特で知らない匂い。良い匂いなのか悪い臭いなのかも分からぬまま、僕らはそこにしばらく居座った。

 民族的な衣装を着た人らしき木彫りのオブジェを前に、千尋は足を止めた。僕はなにも言わず、木彫りのオブジェに手を伸ばす千尋を見守った。

「これどう思う?」

「どれ?」

 僕はまるで、今しがた僕らの横を通り過ぎた外国人のボディパウダーの臭いが気になっていたとでも云った風をして、千尋に身を寄せた。

「これ。変な奴」

「好みの問題だよ。良いと思う人もいるかもしれない」

「うーん。変な奴」

 千尋はその後も、変な奴、と連呼した。妙な既視感を覚えたのは、その時だった。

 ザッピングされる記憶。探し当てたのは父の記憶だった。主張先から帰ってきた父が、道の駅で買ってきたらしいオブジェを僕にくれた。人なのか動物なのかよく分からないそれは、焦げ茶色の木で出来ていた。それに向かって千尋は、やはり、変な奴、と口にした。

「なんだか懐かしいな」

 自分でも思いがけず、ついと言葉が漏れた。こんなにも心地よく家族の思い出を引きだしたのは久しぶりだった。

「……ああ。そういうことか」

 僕の顔を覗き込むようにしてまもなく、千尋は独り言ちる。納得したようにすっと飾り気のない笑みをひとときばかり浮かべて、それからため息を吐いた。




「アニキ。なに食べる?」

「リクエスト希望?」

「うん。応える」

 場所をスーパーに移して、僕はカートを押しながら千尋の後ろについて回った。僕はどうしたものかと自問して、トマトの陳列台から動かなくなった千尋を見やった。シェフはトマトを調理したい模様だ。僕はそれには構わずに隣のナスを一つ取り上げてマ―ボーナスを注文した。

「あ、絶対に意地悪だ」

「シェフのもてなしに期待します」

「……うむ。そう言われたら仕方ない」

 まるで料理の鉄人にでもなった風に腕組みをしてナスを凝視する千尋。

「お任せください」

 千尋は自分の胸を叩いて見せながら、自信に満ちた表情をした。僕はようやく微笑ましく笑って妹を見る。

 千尋はそれなりに悩みながら、ナス、ひき肉、調味料をカートに入れて、満足そうにレジへと僕を誘導した。会計を済ますと、千尋は率先して買い物袋を持った。




 帰り道。空は大赦色になって僕らの家路を黄金色に染め上げていた。千尋は買い物袋を譲ろうとはしなかった。僕は重苦しく、なにか上の空のように考えてでもいる風をしながら軽快な足取りで千尋の少し前を歩いた。千尋はスキップでもしながら鼻歌を口ずさんでついてくる。

 自販機で買ったコーヒーに口をつけ、ふと空を仰いだ。また既視感がやってきた。僕や千尋や、そして母の前を、僕が今そうしているように歩いていたのは、いったい誰だったか。少しばかり考えて結論を出すと、自然に千尋の方へ踵を返した。

 ここにいるべき人がいない。

 唐突に突然に、今更ながらに考える。

「アニキ?」

 千尋は不思議そうな顔をした。僕はなにか一世一代の決心がついたように、けれどもそれを悟られぬように微笑み、「はやく帰ろう」と口にした。

「いま帰っているでしょー。急かさないでよ」

 千尋は些か不服そうにして僕を睨みつけて、僕は僕自身に課せられていた命題が解けたかのように笑い返した。




 いざ、携帯を取り出しながら、僕は言葉を紡ぎ始める。何を問いかけるべきか、叱るべきか、甘えるべきか、助けを乞うべきか。考えて、考えた。物語を紡ごうというのではない。それなのに、言葉は見つからない。あるはずだ。僕の中に。当事者なのだから。


 電話をかけた。

 しばらくして留守電につながった。

 僕はおもむろに、口を開いた。


「父さん―――」


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