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第15話《彼女の夏、その終わり》

 分厚い入道雲が、はるか遠くに浮かんでいて、僕はそれが、いまからここで起こる事柄を見守りでもしているような気がした。靴越しに伝わるコンクリートの感触が、やけに不明瞭で、地に足がついていないとでも云った風に感ぜられた。思い立ったように地面を足で叩いて見せると、ずっしりとした感触が返ってきた。僕は真面目くさった顔を浮かべながら、まだ出番の来ていない水島のことや、走ることがいかに難しいことかを考え出した。些細な出来事や感触が、勝敗を分けることもある。作家とは縁遠い競争の世界。いや、むしろ作家も、競争の世界なのかもしれない。正解などなく、ゴールもないけれど、水面下で僕ら詩人は競わずにはいられない。自分が一番、この描写を上手く書けるのだと、僕自身が信じて止まないように。

 僕はメモ帳とペンを取りだして、おもむろにペンを動かした。暑いだとか、人が多いだとか、どうでもいい細部を箇条書きして、気持ちの整理を始めた。やがて水島の出番が回ってくる前に、なんとかそれらの細部に目を瞑ろうとした。

 しばらくすると、水島の姿が見えた。僕はペンを止めて、しきりに両手を揉み合わせたりした。水島がスタートの最終確認をしだすと、僕は急に寒気に襲われて身を震わせた。メモ帳を横に置いて、前のめりになりながら、両手を口の前で合わせた。

「水島……」

 ポツリと呟くと、僕は一度目を閉じて、開いた。まもなく、水島と、他の選手たちが、スタートの構えをとった。僕は生唾を飲み込みながら、その瞬間を待った。

 やがて、不意にスタートのピストルが鳴った。

 水島の出だしはまずまずだった。タイミングも外しちゃあいない。ピッチも良いし、ストロークもある。けれど他の選手は、水島を置き去りにした。

 ああっと息を漏らした。僕は諦めてしまったのだ。水島の夢が、たった百メートル先にあるはずの夢が、遠のいていったのではないかと、誰かが先に、その夢を掴んでしまうのではないかと、それが決まった瞬間なのだと、思い込んでしまった。

 勝負とは時に非情である。体格やセンス、自分にはどうにもできないものに支配されている。あたかも、誰かが意図的に仕組んだかのように。それを、水島も理解していた。


「わたしは、たぶん……叶わない方の人だと思うけど」


 雨に濡れる水島。涙を流す水島。あの姿が、僕の記憶にへばりついている。

 叶わないとか、悲しいこと言うなよ……。

 泣き始める前の子供のように震えながら、そのうえ怒り始めでもしたように、食いしばった歯の隙間から、大きく息を吸い込んで、気づけば、僕は立ち上がっていた。

「行け! 水島!」

 無責任と思われても構わなかった。第三者面に変わりもない。ただの自己満足でもいい。だけど、彼女は後悔をしたくないと僕に語った。だから僕は、こうすべきだと思った。

 水島に僕の声が届きでもしたように、中盤から終盤にかけて、水島のペースは上がった。前を行く選手を一人抜き、もう一人抜いた。そして水島は、四番目にゴールラインを走り抜けた。

 僕はその場に突っ立ったままでいた。水島にとって、それがどういう結果なのかは分からなかったが、電光掲示板に映ったタイムを眺める水島の顔が気持ちいいくらいに晴れやかなのを見るに、彼女なりに満足のいく結果だったらしい。僕はほっと胸を撫でおろして、まるで一仕事を済ませでもしたように、遠くの入道雲を、晴れやかな気持ちで見上げながら、運動場の隣に聳えている山の上から射している日の光を、掌で遮ったりした。暖かな光が、丸い橙色に透けているのを認めると、ずっと黙っていた陸上部の女子マネージャーが、ついと口を開いた。

「良い応援でした」

 聞くと急に恥ずかしくなって、僕は目立たないよう座った。

「それは、どうも」

 しばらくして水島が帰ってきて、手には自販機で買ったらしいサイダーの缶が持たれていた。

「いやあ。疲れたー」

 水島はおもむろに僕の隣に座ると、女子マネージャーからタオルを受け取った。僕は二人が掛け合いをする間、邪魔にならぬよう身を逸らしながら、水島の表情に目をやった。笑ってはいるが、はっきりとしなかった。どうやら、満足のいっていないことが分かった。

 タオルで汗を拭き終えると、そのタオルを首にかけたまま、緩慢な手つきで缶を開けると、いきなりそれに口をつけた。わざとかは定かではないが、水島は大きく喉を鳴らしそれを飲んだ。

「ふう。……あのさ、城戸くん」

「うん」

「応援とか、似合わないね」

「そうだね」

 僕は簡潔な返事を続け、あとに沈黙がやってきた。次第にそれに耐えられなくなって、僕は口を開こうと水島の方へ視線を向けたが、先に彼女が声を出した。

「ありがとうございます」

 腑に落ちないとでも云った風に、彼女は棒読みで感謝を述べた。僕の一声で結果が変わったのなら、それこそ水島の努力を否定することになる。だから僕は、やはり口を噤んだまま、じっとしていることにした。

 まもなく水島の姉がトラックに現れた。僕は先ほどよりは落ち着いた心地になっていて、そのため、姉の姿を子細に見つめることはしなかった。僕の隣では、水島が双眼鏡を構えたりしていたが、これもまた彼女らしいと片付けることにした。

 水島がごくごく小さな応援を発しているのに気付いた。まるで流れ星にお願い事をするかのように。何者かに助力を求めでもするように。水島は、僕が聞き取れるか聞き取れないか、その程度の小さな声で、重ね重ね祈っていた。

「お姉ちゃん、頑張って」

 一度だけ届いた彼女の声を微笑ましく思いながら僕が落ち着き払っていると、またしても不意に、ピストルの音がした。

 僕は反射的にそちらに目をやった。照り付ける日差しがトラックを輝かせ、僕らの目を眩ませる。目を凝らす。すると、水島の姉の勇姿が際立って大きく見えた。僕はつい見惚れてしまった。美しく、力強い走り。水島が目標にするわけが、いともたやすく飲み込めた。

 水島の姉は、僕が我に返ると同時に、一番でゴールした。

「見てみて城戸くん! あれ、わたしのおねえちゃんだよ!」

 水島は僕の隣ではしゃぎながら、僕の肩に手を置き、姉の方を指さした。水島の姉は、他の選手たちと笑顔で握手をしている。僕はそれに倣ったのか、あるいはもっと他の、いまこの時に抱くべき感情ではないものが、不意に沸き立って、それを落ち着かせようとでもするかのように、水島の手を取り、握手を交わした。

「良い姉だ。水島のお姉さんは」

「うん、うん!」

 水島の曇りがなくなったように感じながら、ざわついた心が、彼女の頬にできたえくぼや、日差しのためかやや赤くなった顔を眺めるうちに、とうとう確信めいたものになった。


 僕は千尋に、なにもしてやれていない。ダメな兄である……。




 大会が終わり、僕を伴った陸上の面々は、帰宅の途に就いた。

「美里? どうかしたの?」

 JRの駅に入ろうとすると、水島は入り口で立ち止まった。そして晴れやかな顔で切り出した。

「歩いて帰る!」

 子供が駄々をこねるのとは違い、水島のそれは決意に満ちて、中身があるように思えた。

水島の姉も、まるでそう言い出すのを分かっていたみたいに、すんなりと首を縦に振った。

「いいわ。そのかわり、城戸くんと一緒に」

「え?」

 思わぬ条件に面食らっていると、水島の姉は僕の背中を押した。

 不服ではあったが、たまにはいいだろうと割り切って、水島と並んで歩いた。水島は大会の余韻に浸りながら、また姉の自慢話を始めた。僕は噛みしめるように聞いていた。そうしているうちに、僕らは川沿いの道まで帰ってきた。空はすっかり、その胸に抱えた様々な雲を茜色に染め上げていた。

 水島は草の茂った斜面に腰をおろした。僕はそれに倣う。

「ああ、夏が終わったー」

 僕は無粋なことは言うまいとして、賛同の意を表した。

「やっぱり、叶いそうにないや」

 笑顔で、諦めを湛えた彼女の言葉が、すっと心に沁みた。そして、僕の取材が、終わりに近づいているのを認めると、それを締めくくるように、僕は口を開いた。

「走ることは、楽しい?」

 水島は斜面に倒れこんで、叫ぶように、喜ぶように、自分の夏を締めくくった。


「楽しい! 走るのは大好きだから、楽しい!」


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