第14話《足取り》
盛夏の頃。夏休みの一日目。僕は何度となく、暑さを表現してきた。卓越した表現があったかは分からないが、稚拙な文でこれを言い表したことは覚えている。僕の引き出しには、もう言葉がない。けれど、これから彼女の勇姿を語るうえで、それは必要な表現だ。だから、飾り気もなく述べるしかあるまい。
誰もがうだるような、暑い日だった。
「すうはー……すーはー」
市内から離れた山の中に、陸上競技場はあった。ベンチには知らない学校の生徒達がそれぞれ固まって点在していて、その斜面を、鮮やかに塗りたくってでもいるようだった。僕らの学校もその一つで、僕の隣に座る水島は、肩をしきりに上に動かし、程なくして下げる。この動作をしばらく続けていた。
いろんな声があちこちから聞こえてきた。他愛のない会話も、蝉の声も、そして彼女には自分の心臓の声でさえ、うるさいほどに響いているのだろう。落ち着こうとする自分とは裏腹に、内にいる自分は騒ごうとする。深呼吸程度では、収まってくれないのだろう。彼女はその後も、やけに大きく息を吸い込んでは吐き出すことを、夢中で繰り返していた。僕はそんなことは、微塵も気にならないと云った風をして、けれども内心では、隣で落ち着きを取り戻せないでいる水島を、半ばじれったく思い、誰よりも先に喝をいれそうになっていた。しかし僕は押し黙って、もしも僕が彼女であったなら、作家としてではなく、一人のアスリートとしてここにいるのなら、やはり彼女のようになっていただろうかなどと、思いを巡らせていた。冷気などどこにもなく、逃げ場のない檻の中。暑さと雑音ばかりがのさばっている。その中で、彼女は今から自分の道を走ろうというのだ。この檻の中で、誰よりも先を走ろうとしているのだ。緊張するに違いない。
「今の気持ちは?」
僕はとうとう待ちきれなくなって、些か無神経に尋ねた。
「あ、意地悪ですか」
「うん。意地悪」
水島は頬を膨らませて、いくぶん不服そうな目で僕を睨めつけたが、程なくして萎んで、次に曖昧な微笑を浮かべて、どこだか遠くの、おそらくは僕らの上でぶくぶくとした、あの入道雲の辺りを眺めはじめた。掴みどころのないあの雲が、明瞭に映っているさまが、今の水島を、元気づけたのかもしれない。僕が、水島ならば、と、無根拠な勝利のビジョンを思い描いたのと同じように。
種目が行われるのは今から二時間後。それまでに、各自で体を温めておくようにと、陸上部の顧問が言った。すると、十数名いた陸上部員は、蜘蛛の子を散らすように、だれもいなくなった。水島も、姉に連れられてどこかに行ってしまった。残ったのは面識のない陸上部の女子マネージャーが一人だけだった。ここにこうして座している意味もないだろうと、僕は徐に立ち上がって、その場から立ち去った。
僕らが今しがた荷物を置いていった第一運動場から、少し離れた場所に第二運動場があって、そこは開放的なつくりになっていた。トラックを囲む青々とした芝生の上で、レジャーシートを広げている者もあった。僕はそれらの横に座り込んで、トラックのあちらこちらに点在している選手の中から、ようやく水島を見つけ出した。
彼女は姉と共にストレッチなどをして、トラックを一周し、それからまもなく僕を見つけて、こちらにやってきた。
「きゅうけい!」
水島は勢いよく僕の隣に腰を下ろした。姉もそれに倣った。
「今のお気持ちは?」
僕はマイクを向ける仕草をした。すると水島は少し照れたように指先で髪の毛をおもちゃにしだした。
「えっと……よく分からない」
続けて水島は、ふと先ほどまで自分が湛えていた緊張でも思い出したように、頭をかき乱した。僕はそんな水島を導こうとしてか、あるいは、いまだ迷っている水島の、道標でもなろうとしてか、自分でも無意識に、彼女の方へ手をやった。けれど、水島はそれをすり抜けて立ち上がった。
「……やっぱり走ってくる」
僕も、そして水島の姉でさえ、この時の彼女は止められなかった。
水島はストレッチをして、おもむろにトラックを走り出した。
あれは不安定な存在だと、はたと気づいた。
隣に目をやると、水島の姉は、ついつい重苦しくなる僕とは違って、あの水島の姿を、微笑ましそうに眺めていた。
「美里には時々、叶わないって思っちゃうの」
残念そうに、けれども笑って、姉は言う。僕は相槌も、なにもしなかった。ただただ、水島を見ていた。
「あんなに楽しんでいる。あんなにまっすぐ」
「でも、水島はあなたを目指している」
「ええ、姉だもの。分かりやすい目標でしょ? あの子には背中しか見せてあげないつもり」
意地悪な台詞が聞こえた。
「姉妹ですね。とてもいい」
立ち上がる水島の姉。その背中に、僕は羨ましさをぶつけた。
「ふふふ、そうでしょ?」
満足そうに笑いながら、彼女は走っていった。
しばらくして、陸上部は再度、第一運動場に集まった。とうとう大会が始まるらしかった。
僕は全くの部外者ながら、顧問が皆に向ける激励を、まるでこれから自分も勇姿を示しでもするかのように、いちいち頷きながら聞いていた。いつの間にか空気が張りつめた。息苦しい中、皆が一斉に返事をした。
「美里。行くよ」
「ああっと、今行く!」
水島はやたらと慌てて、姉の後に付いていった。まだ気持ちの整理がついていないようだった。
僕が作家として力を入れるべきは、どこなのだろうか。彼女の感情か、あるいは彼女を取り巻いている環境を描写することか。いや、大事なのは、彼女ではない。僕が、僕自身が、どう思ったかである。詩人はいまこそペンを取るべきなのだ。この数日間、彼女のことを少なくとも知った僕なら、書けるのだから。




