第13話《固い決意》
部長の思いは、僕の奥底に根強いものを残した。そればかりか、結果として僕に、部活を辞めるという申し出を取り下げさえさせた。自分でも都合がいいのは分かっている。相変わらず優柔不断なのだと再認識せざるを得ないのも、また事実だ。けれども彼女があの後に落ち着きを取り戻して、断続的な呼吸の中で語った思いを聞けば、元来、芯の折れやすい僕などは、節を曲げるしかなかった。
彼女は僕と同じ理由で作家を志した。きっかけは母親であり、目標もまた一致していた。僕が彼女に親近感を覚えるのには、それだけで十分だったけれど、あまつさえ彼女の心情は、いちいち僕のそれと似ていた。
窓際のアンティークな空間でテーブルを挟んで座り、そのテーブルの真ん中で、彼女は僕の手を両手で握って離そうとはしなかった。まるで僕の機微を盗み取ろうとでもするように、彼女はしきりに僕の指先を触る。少しばかり固くなった僕の指先に、彼女の指が当たる。それはこの短い期間に、原稿用紙に向かってひたすらペンを走らせていた証だった。彼女はそこが気に入ったらしく、うっとりと息を漏らしながら、再び口を開いた。
「書きたいもの、まだ書けてないのよね?」
彼女の視線は僕らの手元にあった。僕は何も口にしないまま、指先を少しばかり彼女の指に絡ませた。彼女は微笑を浮かべた。
「なら、書かなきゃ。生みの親として、一人の詩人として、紡いであげなきゃ。そうでないと……悲しいじゃない」
まるでセラピストのような口調で、彼女はようやく顔を上げた。まっすぐに、僕と目を合わせる。目の周りは、まだ赤かったが、彼女の笑い方は晴れやかだった。そうして僕の手の甲を撫で始め、僕は曖昧な微笑をした。けれども、なにも、口にはしなかった。
翌日のことである。昼食を食べ終えて、僕が一息つこうとしていると、松坂が僕の肩を叩いた。
「城戸、ちょっと付き合えるか」
松坂はやけに明るい顔をしていた。手にはどこから持ってきたのか、グローブが二つと、野球ボールが一つ持たれていた。僕はなんとなく誘いの意図が知れた気がして、徐に頷いた。
僕らはグラウンドの隅に場所を取って、キャッチボールを始めた。僕ら二人の世界は、いつもこうして、目立たない、それでいて邪魔にもならない場所で広がっていく。
「俺さ。部活辞めることにした」
松坂はいつも唐突だった。自分がするならまだしも、他人にされると、少々面食らってしまう。
「やっぱり、野球がしたいの?」
彼は静かに笑いながら、僕にボールを投げ返した。
「ああ、なんか、逃げている気がして、嫌になった」
松坂の投げたボールは些か強かった。僕が辛うじてそれをキャッチすると、グローブは気持ちよく音を立てた。
「なんで、野球をやめていたのさ」
「ん? ああそうか、お前は知らなかったっけ」
松坂の表情は一見して変わらなかった。僕はボールを投げ返した。
「四か月前、弟が死んだ」
「え?」
言って、取り繕うように謝罪を並べると、松坂は構わないといった風をして、ボールを投げた。
「俺はさ、弟の憧れだった。野球をしている兄ちゃんが好きだって言われるのが、なにより好きだった。そんな弟がいなくなって、なんだか、やる気がなくなっていた。燃え尽きた気がしていた。だけどさ、違うって思っちまうのさ。こうやって、自分の気持ちに嘘をつくのは」
松坂は淡々と語った。当たり前のことのようで、容易ではないことに気づいたのだと。僕は呼び止めない。水を差すようで嫌だから。僕が彼なら、きっと、背中を押してほしいはずだから。
僕は出来る限りの力を込めた。何を込めたか、きっとすぐに忘れてしまうけれど、この時だけは、あらゆる強調した思いを連ねた。僕の放ったボールは、すっと松坂のグローブに収まった。すると松坂は、ぱっと弾けた笑みを浮かべた。
その日の放課後、グラウンドの片隅で、水島の部活を眺めていた。野球部の起こした土煙が風に乗ってきて、石垣にもたれている僕の方へやってきたが、そんなことは気にせずに観察を続けた。大会が近いらしく、水島の顔は険しかった。今の彼女は、おおよそ僕の知るものではない。一人の無名アスリートで、その道を歩むものだ。特訓も一貫して下半身の強化になっている。校舎周りを走ったり、スクワットをしたり、その場で力尽きるまで激しく足踏みしたりと、激しさを極めていた。水島はやがて砂場に大の字に寝転がった。
「美里。休んでいる暇ないよ」
水島に駆け寄って、姉がそう言うと、水島はやにわに立ち上がった。
「はい!」
元気よく返事をして、水島は再び校舎周りを走りに行った。その背中をじっくり眺めていると、不意に声をかけられた。
「あなたが城戸くん?」
それは水島の姉だった。
「はい、そうです」
「あの子の取材しているのよね?」
「はい。邪魔にならない程度に」
「そのことなのだけど、どうして美里だったの?」
「え?」
「えっとね。取材をするって言うなら、陸上部全体を見ようって、普通ならなると思うのだけど、あなたが取材しているのは美里だけ。どういう理由なのか、少し気になって」
水島の姉は、落ち着いた口調で言った。どうやら、本当に興味が湧いただけのことらしい。僕は会見を開いた当人のように言葉を選び始めて、少々唸り声を上げたりした。
「大した理由じゃないのですが、率直に言うと……」
ふと石垣の上に目をやると、ちょうど水島が通りかかった。ついこの間まで、あの沈みかけた夕日でシルエットに見えた彼女が、はっきり見える。漠とした自信が満ちた。
「僕が知らないものを、彼女は知っていると思った。それだけです」
作家なら、そのうえ無名であるのなら、それを知りたいと思う。理解できないことであれ、知る努力がしたい。




