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第12話《葛藤と本音》

 家に帰ると、千尋に些か不審がられた。傘を持っていたのに、どうしてそんなにまで濡れているのかと問い詰められたが、トラックに水をひっかけられたのだと即興で嘘を見繕った。千尋は当然、納得はしなかった。

 僕は逃げるようにお風呂場に行って、衣服をすべて洗濯機に放り込む。シャワーをそれなりに浴びて冷えを取り除く。浴室を出ると、千尋が用意した寝間着に着替えた。すると、なんだか濃厚な匂いが漂っているのに気づいた。それは落ち着く匂いだった。

「まさか濡れて帰ってくるとは思わなかったけど、今のアニキにはちょうどいいのかも」

 僕がリビングで椅子に座ると、千尋は待ち構えていたように行動を始めて、まもなく僕の前に今日の献立を並べた。

「ああ、確かにちょうどいいかもしれない」

 温かい匂いを燻らせるのは、シチューだった。

 千尋は僕を観察するためか、テーブルを挟んだ向かい側に座った。

 僕は手を合わせて、早速、シチューに手をつけた。僕がそうして、人参やらジャガイモやらを噛み砕いている間、千尋は絶え間なく僕を威圧するかのような顔を崩そうとはしなかった。僕の表情でも読み取ろうとしているのだろう。

「美味しいよ」

「でしょー」

 千尋はやっと顔を崩して笑った。

 そんな妹の顔を眺めながら、ついと千尋の夢について考え出した。

 千尋の夢は料理人である。これも悲しいことに、母が原因だった。


「あら、千尋は包丁の使い方が上手いのね」

 ある冬の日。千尋が小学校の家庭科で包丁の使い方を習ったと嬉しそうに語ったのをきっかけに、その日の夜は、母と千尋が一緒に台所に立った。千尋は小さい台の上に乗って、覚えたての包丁さばきを披露する。僕と母は、そんな千尋を挟んで、手元ばかりを凝視していた。人参を乱切りにしていく千尋。褒められたのが嬉しかったのか、千尋は調子に乗って母がいつもしているように、鼻歌を奏でた。そしてとうとう、人差し指に刃が当たった。

 千尋は途端に泣き出した。母と僕は慌てた。一番慌てたのは、リビングでテレビを観ていた父だった。ソファーに腰かけていた父は驚いた様子をして、台所に駆け寄ってきた。事態を飲み込んだ父は、咄嗟に冷静になり、戸棚から救急箱を取り出して、絆創膏を1つ取り出した。

「ほら、手を出して」

 父は千尋に包丁を使わせたことを咎めたりはしなかった。至って優しい口調で、泣きじゃくる千尋の手を取ると、血の出ている指へ絆創膏をつけた。

「いい子だ。痛かっただろう」

 父は千尋の頭を撫でる。千尋は指の絆創膏を見つめながら、徐々に泣き止んでいった。

「ねえねえ、千尋」

 母が千尋の隣にしゃがみ込んで、絆創膏のついた手をそっと両手で包みながら、これまた優しい口調で呟いてみせた。

「傷が治ったら、また料理してみない? 千尋ならきっと、いい料理人になれるわ」

 母の囁きを、僕は黙って聞いていた。千尋はというと、服の袖で涙を拭い、次第に笑顔になって、

「うん! また料理する!」

 無邪気に顔を歪ませて、千尋は答える。


 千尋が料理人を夢にした顛末。悪かったとは思わない。けれど、よかったとも思えなかった。今、こうして二人だけになって、父と母もいない、そのうえ目立った会話もない現実を認めてしまうと、つい、千尋が料理人など目指さなければ、会話があったのだろうかとか、そんなことを考えてしまうからだ。おそらく、どうであれ会話はないのだけれど。

「ねえ……アニキ」

 僕はシチューを掬ったスプーンを口に含む寸前で止めた。

「なに?」

「あたしさ……料理人に、なれるのかな」

 拳を作りながら、いくぶん強張った声を発した。

 僕は表情を崩さぬよう努めながら、内心、頭を悩ませた。

 千尋は俯いている。僕は千尋のそんな姿を認めて、ふと千尋の手を見た。絆創膏の張り付けられた手が、微かに震えていた。急に胃もたれでも起こしたように苦しくなった。同じ環境で、同じ理由で夢を見つけて追い始めたはずの千尋が、遠い存在に思えた。千尋は僕とは違い、一生懸命なのだ。

「……なれるさ」

 無責任に呟いた。

 そうでなくては、悲しいじゃないか……。


 申し訳ない、申し訳ない。僕は自分が自惚れていたことに気づかされました。半端な気持ちで、また作家を目指してしまいました。夢を変えられないからと、これしかないからと、再び作家の道に足を踏み入れましたが、どうしようもなく、今、申し訳なく思っています。捨ててしまった夢を探し出して、この道をもう一度歩もうと決意しましたが、道の違う者は遠くで苦しんでいて、道を同じくとする人も、後ろから迫ってくる僕を見て、なんだか泣き出しそうなのです。どうしてでしょうか。僕は立ち止まりたくなりました。嫌ですから、そんな顔をされるのは、僕よりひたむきな人たちが苦しんでいるのに、僕だけが、僕だけが微笑みながら、その人たちを追い抜こうとしているなんて、嫌ですよ。なぜ、僕は笑っていられるのでしょうか。中途半端だからでしょうか。軽い気持ちだからでしょうか。自惚れていました。自惚れていました。心の中では、僕は誰より一生懸命だと思っていましたが、どうやら、僕は底辺のようです。立ち止まっていいですか。


 また、投げ出しても……良いでしょうか?


 それは、とても暑苦しい日だった。洗い立てのシャツから香っていた匂いは、やがてほのかに汗臭くなった。僕は足取りの重さを認めて、次第にそれを早めたりなんぞしたが、長くは続かなかった。

 僕は文芸部室の扉の前で立ち止まって、やけに改まってノックをした。すると返事があった。部長の声だ。僕はしきりに喉を上下させて扉を開いた。

「また松坂はサボったの?」

 部長は窓際の椅子で原稿用紙に目をやっていた。

「はい。そのようです」

 自分でも思いがけないほどに、僕の声は緊張している風だった。

「部長……あの……」

 僕は言葉が途切れるのを嫌って、なんとか紡ごうとした。

「どうかしたの?」

 一段と、大きく息を吸った。

「……部活、辞めたいです」

「……どうして?」

 少しばかり躊躇った後に、僕は喋りだした。

「申し訳ない……申し訳ないって、思った。中途半端な気持ちで、作家目指して……本気でなりたいって思っている訳じゃあない。ただ、これしかなかっただけで、ぽっかりと空いていた胸の穴を、埋められればそれでよかった。……まだ、埋まってはいないけれど。それ以上に、僕は……ぼくは……」

 歯を食いしばりながら、僕は固まりそうになる喉の隙間から、とうとう、思い切り、吐き出した。

「嫌で仕方がない。部長の横で、本気で作家を目指している部長の横で……苦しんでいる部長の横で、平気な顔して笑って、作家が夢だって語った自分が、すごく嫌だ! ……だから、だから……!」

 部長は原稿用紙をテーブルに放り出し、徐に立ち上がる。ゆっくりと、ゆっくりと、こちらに歩み寄る。やがて大きな音がした。部長が僕の頬を、強く叩いた音だった。蝉が静かになったような気がして、意識さえも、遠くなりそうだった。

「ふ……ざけ……」

 部長は僕の胸倉を掴んで、僕の体を扉へと押し付ける。僕は放心でもしているみたいに、頬の痛みを噛みしめながら、部長が言葉を捻り出すのを感じていた。

「ふざけるな! 私より上手く書けるくせに、私が書けないものを書けるくせに! 同情するな! 馬鹿にするな! ふざけるな、ふざけるな!」

 部長の怒りが拳に乗って、何度も僕の胸を叩く。俯き、僕はか細い息を紡ぐ。

「……私はさ、どうせ、なれないって分かっている。でも、あなたは違うでしょ……」

 次第に、拳の力が弱くなって、彼女は再び僕の胸倉を掴んだ。さながら縋り付くように、弱々しく、頼りなく。

「書いてよ……お願いだから……」

 嗄れた声が、僕の胸元で響いた。

「あなたが、城戸くんが書きたいもの……書いてよ……っ!」

 部長が大きく息を吸った。僕は気づいた時には部長から目を離せなくなっていた。

「見たいのよ……城戸くんが感じたこと、思ったこと、全部、全部。……私には、一生、手の届かない世界を……」

 腹の底から、心の底から、囁くように、部長は叫んだ。

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