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第10話《反抗》

 七月にしては珍しく、強い雨が降った。雨が降れば、当然、部活はできない。

「美里。大会も近いから、今日は走っちゃ駄目よ」

 お姉ちゃんが寝起きのわたしに向かって、優しく釘を刺す。わたしはパジャマの袖を掴みながら、力なく言葉を飲み込んだ。

 分かっている、それくらい。

 声にならない反発が、わたしの中でゆっくりと覚醒しはじめている。今度は今まで以上に重症だった。お姉ちゃんに怒りを覚えた事などなかったはずなのに、この間、授業中に走るフォームだとか、スタートの姿勢とか、そういった細部に熱心に向かい合っていた時、不意に倦怠感が襲ってきた。なぜ走っているのだろうか。なぜお姉ちゃんを超えたいって思い始めたのか。考えるべきでないことが、唐突にわたしを支配しようとする。


「おはよう、城戸くん」

 教室に入ると、真っ先に城戸くんの背中が目に入る。いつもなら、城戸くんも返事をして、そこから他愛ない話に発展したりするけれど、今日は返事もなくて、城戸くんはなにかものすごい勢いでペンを走らせている。わたしはなんだか気になって、けれども城戸くんの邪魔はしないように近くにいたマッつんを捕まえることにした。

「ねえねっ、城戸くんが何やっているか分かる?」

 挨拶とばかりにマッつんの頬を摘まみながらわたしが尋ねると、マッつんもわたしの頬を摘まむ、というより若干抓り気味。

「あがががががっ」

 大げさに痛がる(それなりには痛い)わたしに、マッつんは落ち着いた調子で口を開く。

「書きたいものが見つかったらしい。誰かは訊かなかったけど、読ませたいやつもいるらしい」

「ほへー。というか離せ―!」

 マッつんがようやく指を離してくれる。頬にジンジンきています。

 わたしは頬をさすりながら、城戸くんの方に目を向ける。集中、必死、熱心。その3つが似合う雰囲気でした。しかし、わたしは後ろの席ですから、近寄るのは必然。

「邪魔するなよ」

 釘を刺される。本日2本目。

 わたしは静かに席につく。すると、なぜだか圧倒されて、思わず唾を飲み込んだ。急に、現実に戻ったような心持になった。自分が直面している現実。お姉ちゃんを超えられないかもしれない事実。城戸くんの姿勢が、目の前のことに、それだけ夢中になっている彼の姿が、急にまぶしく見えた。

 ああ……わたしは何をしているのか……。

 わたしは机に突っ伏した。脱力。窓の外で景色をかき乱している雨。あれが降ってなかったら、走りに出ていた。こんな思い、しなくて済んだかもしれないのに。

「おはよう、水島」

 城戸くんはようやくペンを止めて、わたしに気づいた。溜飲が下がるというのだろうか、わたしはなんとはなしに、自分のさっきまで悩んでいた事柄が、まるで荷を下ろしていくかのように、徐々に落ち着きだしているのを感じた。

「おはよう、城戸くん」

 わたしと城戸くんは、しばらくは何も言わないまま、時折、目を合わせて愛想笑いをしたりした。城戸くんは何も言ってはくれない。励ましはない。叱咤もない。けれど、何か喋らせたかった。

「ねえねえ」

 わたしはうっとりしだしたように城戸くんを見つめながら、少しばかり意地悪を考えている。

「なに?」

 城戸くんは優しく、わたしを見ている。

「わたしにさ、超えられるかな。お姉ちゃん」

 てっきり、城戸くんは困るものだと思い込んでいた。でも実際は違って、城戸くんは優しく笑んだままだった。

「僕が思うに、水島はもう超えていると思うよ」

「え?」

 わたしは体を起こして聞き直した。しっかりと、聞き漏らしはしなかった。でも、意味を汲み取れなかった。

「水島はいつも、走ることばかり考えている。授業を疎かにしてしまうほどに」

 多少ぎくりと身じろぎしながら、城戸くんの話に耳を傾ける。なぜだか城戸くんには、すべて見透かされているような気がしてしまう。

「わたしだって勉強の1つや2つくらい」

「嘘つけ」

 ぎくり。

「ううむ。じゃあどこがお姉ちゃんに勝っていると思うのさ」

「それは自分で気づけるさ」

 城戸くんに意地悪をされました。腹の立つ話です。

 わたしは仕返しをしたくなって、ついと思い出したように、些か強引に、話を切り替えた。

「ところでさ、城戸くんがそれを読ませたい人って、誰?」

 城戸くんの机の上に広げられた原稿用紙。それなりの厚さがある。彼の努力の結晶。読ませたい人に向けた思いの束。きっと、わたしはその相手が、少しだけ羨ましかったのだと思う。

「かさねだよ」

 聞き覚えのある名前。それは城戸くんの幼馴染の名前だった。

「ああ、やっぱり」

「やっぱりって?」

「いや、だってさ……う、うん」

 わたしは咳払いをして、これ以上は黙っておくことにした。

 今は知らないけど、中学の時は、彼氏彼女って関係でもないのに、やけに二人の距離が近かった。それで周りが気づかないはずはない。

 わたしはにこにこして、ついには鼻歌を奏で始める。

「何言おうとしたの?」

「内緒」

 城戸くんに意地悪をしました。彼がほんのわずかに不満を浮かべるのを見て、わたしは満足しました。


 大会まではあと一週間のところまで来ていた。部屋でカレンダーを確認しながら、わたしはやる気がそわそわしたものに覆われていくのを感じる。誰に向けるでもなく不満をひねり出して唸る。しかし溜息は吐かないでおいた。意固地に、往生際悪く、素直になれず、息をのむ。

「ふぇっふぇっふぇっ」

 とりあえず声を出す。頭の上に煙が燻ってでもいるかのように。

 気晴らしに腕立て伏せを始めてみる。五回くらいしてやめて、わたしはそのまま床でだらしなく転がる。横目に窓を見やれば、やはり外は雨である。やるべきことはある。けれど、やりたいことじゃない。そう胸の中で呟いて、とうとう自分の迷走ぶりに気がつく。食べてはダメと言われたお菓子に手をつける子供のように、好奇心から心霊スポットに赴いてしまう若者のように、わたしの中で、彼らのような好奇心が今、甘い誘惑のように響いてくる。

「……走りたい」

 死ぬわけじゃない。怒られるけど、たぶんそれだけ。

 わたしはジャージの上にカッパを着て、いそいそと、玄関に降りて行って、靴に履き替え、ドアノブに手をかけた。そこで、お姉ちゃんに見つかった。

「まさか、走りに行くつもり?」

 わたしはカッパのフードで視界を覆っていて、お姉ちゃんの表情は見えなかった。でも、口調は怒っていた。

「良いじゃないの、走ったって……」

 悪いのは分かっていた。馬鹿だってことも、愚かだってことも。全部わかっていた。

「駄目よ! こんな日に走っちゃ!」

 お姉ちゃんの語気が強くなる。

 こんな日……こんな日……。

 わたしはなぜだかイライラして、どす黒いものが胸の内に蔓延る感覚に襲われる。呼吸が荒くなって、自分の耳に鮮明に届いてくるそれは、異質だった。

「……ら、ないよ。…………には」

 今にも、口から鉄球が出てきそうなくらい息苦しくて、暑苦しい。

「美里?」

「分からないよ、お姉ちゃんには……。才能があるお姉ちゃんには、ずっとわたしの前にいるお姉ちゃんには! こんな日でも貴重だ! わたしがお姉ちゃんを超えるには……こんな日だって走らなきゃいけない。……だからっ」

 わたしは頭がぼんやりとしだしているのを感じながら、けれども、紡ぐのを止められなかった。口にせずにはいられなかった。

「だから、走ったっていいじゃないか!」

 わたしは玄関から飛び出した。自分勝手に、身勝手に、行く当てもないままに。

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