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第9話《憧れ》

 翌日のことである。僕は朝練の最中であった水島を捕まえて、取材をさせてほしいという旨を伝えた。水島は訳が分からないと云った風で、肩を動かしながら呼吸を整え、汗に濡れた顔をタオルで拭いたりしていた。僕は詳しくは語らなかったけれど、鹿爪らしい顔をして、文芸部の活動の一環とだけ告げた。すると水島は笑いながら、それならば仕方ないと、頷いて見せた。

 それから水島の観察が始まった。まだ朝練の途中だと言って立ち去って行った彼女の後姿を遠目に見る。背の高い鉄棒にぶら下がり懸垂をしてみたり、砂場の脇で腰を落としてスクワットをしてみたりする水島の表情は、なんだか辛そうに映ったが、一連の流れを済ませ、部長らしき生徒の号令で朝練が終わると、水島は一変して笑顔になった。水飲み場で蛇口を捻り、頭を水にくぐらせ、重い息を一つ吐いた。けれども僕を見つけると、自信を滲ませてこちらに親指を立ててみたりしている。

「いかがでしたかね」

 いきなりの申し出だったとはいえ、僕の目が向いているという意識はあったらしく、投げられたボールを銜えて戻ってきた小動物のように、称賛を待っていた。

 僕は黙って親指を立てる。それだけで、水島は満足したらしかった。

「なにかインタビューとかしないの?」

 水島は変わらずにこにこしていた。ただ水島の部活を見てみたいと思っただけに過ぎなかった僕は、頭を掻きながら唸って、いかにもどれから聞いたものかと悩んでいる風をした。やがて、水島と同じくジャージに身を包んだ女生徒がこちらにやってきて、僕より先に水島に声をかけた。

「美里。早くシャワー浴びに行かないと授業遅れるよ」

「あ、待ってよ、お姉ちゃん!」

 水島がお姉ちゃんと呼ぶ女生徒は、水島よりも些か線が細く、髪を一つに結んでいた。姿勢は正しく、しなやかな立ち姿。彼女を見つめる水島の顔は、ようやく母鳥を見つけた雛のように安心しきっていて、眼窩の中で黒く輝く瞳は、憧れを湛えてでもいるかのように、純粋な美しさをしていた。

「城戸くん、また後でね」

 水島はぼうっと立っていた僕に手を振り、姉の後に付いていく。



 その日の最後の授業中、水島はとうとう我慢できなくなったらしく、皆が静粛に耳を澄ませているのに、ぶつぶつと独り言を垂れ流し始めた。幸いにも、水島の席は教室の一番後ろで、教卓からは離れていたから、教師からのお叱りはなかったが、水島の前の席に座る僕は、なんとも耐え難いものを感じていた。

「ここで、こう……、いや、こうかね」

 水島の思考は紆余曲折を極めていた。まるで緩やかなジェットコースターのような試行錯誤は、おそらくは部活の事を考えてのものなのだろう。

「こうして、こう。ふうむ、ここをこう」

 独り言は授業終わりまで続いた。僕は早速、後ろを振り向いた。

「ううん。ああ、ううーん」

 ようやく考え疲れたと云った風に、水島は机に突っ伏していた。教室の扇風機に吹かれた髪の毛が、力なく踊って、その下にあるルーズリーフに描かれたイラストを恥ずかしそうに主張していた。

「もう授業終わったよ」

 僕がそう告げたところで、水島はピクリともせず、まるで熱気にやられた犬が地べたに寝転がっているようにじっとしていた。僕のイメージする水島なら、すぐに教室から駆け出しそうなものなのだが。

「はあ」

 ルーズリーフに向かって、水島が息をついた。子供のように膨らませた頬は綺麗に日焼けしていた。

「どうしたの?」

 僕がそう尋ねると、水島は待っていたとでも云った風に、やにわに体を起こして、両手で机を派手に叩いた。

「実はですね!」

 彼女の調子に合わせることはしなかった。僕は平常通りに頷いて、先へと促した。

「お姉ちゃんを超えるにはどうすればよいかと悩んでいまして」

 そんなことかと、思わず口に出しそうになって、僕はそれを飲み込んだ。取材はまだ終わっちゃいない。水島もそう思っているから、僕に打ち明けたのだろう。

「水島のお姉さん、すごい人なの?」

 無知を恥じることなく尋ねると、水島はまたしても目を輝かせ始めた。

「すごいのだよ、うちのお姉ちゃんは。どれほどかというとね、家事はできるし、勉強も得意だし、女子陸上部の部長だし、県大会でベスト8入りしちゃうし――」

 水島のお姉さん自慢は途切れなかった。僕は至って冷静に、微笑ましく思いながら確信めいたものを感じていた。彼女が姉に向ける視線に込められた思いは、間違いなく憧れなのだ。

「それに比べたら、わたしはさあ……」

 水島は急に口ごもりだして、僕にも聞こえないほどの声で、なにやら吐き出していた。その気持ちを、完全には理解できやしないけれど、なんとなく、察することは出来た。

「努力家だね、ほんとに」

 他人事ではある。しかし、今の彼女にそう言うべきではなかった。彼女は思いつめた表情をして唸り始め、また、机に突っ伏した。たった今、僕がその純粋な精神を傷つけたとでもいうかのように。

「追いつきたいなあ。……お姉ちゃんに」

 重苦しい雰囲気は、蝉がもたらす激しさとは比べられなかった。長年、彼女はそう思い続けてきたに違いない。おそらくは物心がついた時から、姉の背中が遠いと認めてしまったその時から。

「なんだか意外だよ」

「え?」

 水島は顔を上げた。

「走るのが好きだから、あれだけ努力しているのだと思っていた。だけど、違うのだね」

 僕はふと、自分と水島を重ねた。僕は小説を書くことが好きなわけではなかったし、ただ母に読ませたいという感情だけで小説を書いていた。やがて感情を失ってしまったあとでも、なぜだか僕は、書くことに捕らわれている。ペンを取らずにはいられずにいる。その感情に、かさねが、名前を与えてくれた。それは単純に好きだからだと。知らず知らずのうちに感情が移り住んだのだ。

 僕は、きっと水島もそうなのだと思った。だから、どうか気付いてほしかった。その感情に、その衝動に、その心に。

「好き、だよ。走るのは。……でも」

 水島は言葉を紡げないでいた。あの生き生きとした彼女の走り姿からは、想像もできないほどに、疲れ果てた風をしていた。


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