第1話《霞んだ町の病室で》
朝から雨が降っていた。傾けた傘で視界を遮りながら、僕は病院へと足を伸ばしている。不規則なリズムを刻みながら傘へと落ちる雨。伍坊駅から溢れ家路を急ぐ雑踏。そんな人々の生活を邪魔するように、僕は間を縫って進んでいく。
伍坊駅から南に向かうとやがてアーケード街に入る。そこにもやはり雑踏があった。
おもむろに傘を閉じる。これまで灰色に霞んで見えていたはずの視界が鮮明に映り、僕が普段、ついぞ気にも留めない人々の生活が如実に描き出されているのが、いやというほどにわかった。
そそくさとアーケード街を抜けて、大きな横断歩道で赤信号に捕まる。僕はふたたび傘を開く。誰かが誰かに倣うように、捕まった者が皆そうして傘を開く。僕も誰かの生活に生きている。無気力のまま、ため息を吐くことすら許されないままに。
僕はアーケード街から離れて、病院の姿を見つける。歩幅を少しばかり広げて急ぎ足に向かう。
診察の受付はとうに終わっている。夕暮れ時の病院は静かで、持て余された広い待合所には、数人が点在しているくらいであった。僕は慣れた足どりでエレベーターに乗り、五階を目指した。
ナースセンターで面会者名簿に「城戸曽良」と書き込んだ。
歩調を落ち着かせて、足音を立てぬよう努めながら、あらかじめ聞いていた病室を探す。
512号室。6人分のベッドが置かれた大部屋。間仕切りのカーテンが三ヶ所ほどしまっていた。その中で、僕は窓際でしまっているカーテンの中へ入る。ベッドの上の君は、横になって目を閉じていた。
僕は音を出さずに君の横に回った。雨が打ちつけられる窓を背にして、落ち着かない心をしずめながら単調な椅子に座る。あちらこちらを見やった。ベッド脇の名札に「柚月かさね」の文字がある。どうやら、本当に病人らしいということがわかった。
僕はとうとう待ちきれなくなって、わざと椅子を床に擦らせたり、咳払いなどした。僕が帰るまで君が目を覚まさずとも構わないけれど、無性にいまは君の声が聴きたかった。
「かさね」
身体をゆすりはしないまでも、柄にもなく君の安眠の邪魔をする。君は唸りこそすれ、目を開きはしない。寝返りをうつ君の髪が見事に乱れ、ベッドをはみ出したそれが僕の足元へと垂れる。
「かさね」
もう一度、呼ぶ。浅くなった眠りから君はようやく、やっと、目を覚ます。
「…………あぁ。曽良さん」
小鳥がさえずるようなか細い声で僕を安堵させる君。柔和な目をして微笑んで、それでも身体を起こそうとはしなかった。
「体調は?」
「もう少しお休みが必要みたいです」
「なんの病気?」
「腸炎ですよ」
「また大層な病気じゃないか……」
僕はその後も、君を質問攻めにする。病気が深刻かどうかとか、苦しくないかとか。
半年近く、君とはろくに話せていないのだから、話題はたくさんあるはずだった。しかし、僕はあらゆる引き出しを閉じたきり、開けずにいた。そうしなかったのは、君のやや大きい吐息や、微かにこちらへ身体を向ける仕草などが、なにやら言いたげにしているのを感じさせていたから。僕はそんな君の口を開かせまいと、次から次へ君に問う……。
そしてついに僕が考えあぐねている隙を見つけて、君は口を開いた。
「……曽良さん」
僕は押し黙った。
「まだ、本は書いているんですか?」
君は微笑んでいる。その胸の内に激しい思いをひた隠しにしながら、君は静かに微笑んでいる。背後で打ち付けられていた雨の音が、いっそう大きく響きだした。
分かっているつもりだった。君と顔をあわせれば、こうなることくらい。
向きあえる気でいた。
哀しい記憶と、置き去りにした夢と……。