白の世界
私はおそらく親不孝な息子だったろう。
親の愛情にも、親の期待にも、親の想いにも、報いる事もせず、親孝行の一つもしなかった。
失って初めて私にとっての「当たり前」が恵まれたものだったのだと。
これは両親との別れのお話。
真っ白なその世界の中は、音もなく、匂いもなく、時の流れすら感じられず、ただそこに私が「在る」だけだった。
受験シーズンも終盤、いつからそう思っていたかは定かでは無いが、人から相談事を受けるようになってから、将来やりたい事ができていた。
それは臨床心理士の資格を取得すること。カウンセラーになって悩みを抱えてる人の支えになりたいと思うようになっていた。
興味を持ち始めた頃は色々な本を読み漁っていた。ユング、フロイトから始り、哲学書や心理学書、心理と付いてるだけで心理占いの本なんかも読んでみた。
そんなある日、1冊の本に出会った。それはとある有名大学の教授が書いた心理学書だった。何度も読み返す程に当時の私は感銘を受け、次第にこの教授の講義を受けたいという思いが生まれていた。
しかしタイミングが遅かった。願書を出した後の話なので、その大学へ行くためには浪人するほか無かった。
入試の当日。センター試験の出来は良かった。普通に解答欄を埋めていけば、地元の大学へ合格することは難しくはない。
どこかで浪人すれば夢を追えるという考えが過ったのだろう。私は白紙の答案用紙を提出した。
両親に一年だけ浪人をさせて欲しいと伝えた。予備校は行く必要はないから、一年だけ猶予を下さいと。
両親の返答はNoだった。と言うのも、兄が二浪の末に進学を諦めた過去があり、私も同じ道を辿るのではないかと案じての事だと思う。
正直、兄が羨ましく思えた。私は一度もチャンスを貰えないのに、チャンスを与えて貰ってそれを活かせなかった兄をどこか恨んでいた。
就職など考えてもいなかったので、とりあえずアルバイトを探す事にした。両親には内緒で勉強も続けていた。昼は図書館で勉強、夜はアルバイト。
親友の通う予備校で模試だけ受けさせてもらっていた。偏差値はある程度まではすぐに伸びた、がしかし志望する大学には届かない。伸び悩み勉強をするのが嫌になってきていた。
バイト先の友人にたまには息抜きも必要だと遊びに誘われて、最初のうちは息抜きのつもりで遊びにいくようになっていった。次第に息抜きの頻度が増えていき、やがて昼夜逆転の生活になり、勉強から離れていった、逃げていった。
夏の終わりの事だ、昼過ぎまで寝ていた私の部屋に兄が入ってきた。
『毎日遊び歩いて、こんな時間まで寝て良い身分だなお前は。』
私は兄とは良好な関係では元々無かったが、特に言い返したり、やり返したりはしたことが無かった。何故かこの日はそうならなかった。
『お前が受験失敗したせいで、俺は浪人も出来ないんだよ。お前に何が分かるんだよ。』
言い終わると私は手を出していた。当然兄は殴り返してきて、殴り合いになった。気付いた母が慌てて止めに入ってきたが、暫く兄弟喧嘩は続いた。
その日の夜、父が事情を聞いて私の部屋にきた。
『大学行きたかったのか?』
『もういい。』
『なんで兄貴に手を出したんだ?』
『嫌いだからだよ。あいつと住むのはもう無理だから金貯まったら家出るよ。』
『そうか。分かった。』
私が兄に反抗する事など今まで一度も無かった。それがどういう意味を持つか、父も理解していたのだろう。
それから二ヶ月が過ぎたある日。この日は今でも鮮明に覚えている。いつもしないことが重なった日だった。
いつもより少し早く起きて、朝食を食べていると兄が降りてきた。
『お前今日は暇なのか?』
『バイト休みだけど。』
『新しくできたショッピングモールに行かないか?飯でも奢ってやるから。』
『は?なんで?』
『深い意味はない、嫌ならいい。』
『別にいいよ。』
後日兄から聞いた話では、母がずっと気にしていて、仲直りをして欲しいと言われていたそうだ。
兄と二人で出かける事など一度も無かったし、二ヶ月も顔も合わせて無かったのに、あまりに急に誘われて戸惑った。でも何故か断る気にもならなかった。
ショッピングモールを散策して、私の希望したとんかつ屋でお昼を食べ、スタバでコーヒーを買って帰ろうとしていた時。
そのショッピングモールにはいつも行列の絶えないチーズケーキ屋があった。その日はあまり人が並んでおらず直ぐに買えそうだった。
『あそこいつもすげぇ並んでるんだよ。』
『何?食べたいのか?』
『食べてみたいけど、俺より親父とお袋が喜ぶんじゃない?』
『そうか、買って帰るか。』
母は元々、父も煙草を止めてから甘いものに目がなかった。チーズケーキを買って帰路についた、昼の天気が嘘のように冷たい秋雨が降っていた。
家に帰ると父が寝ていた。私は父を起こしてお土産のチーズケーキを差し出した。兄と出かけて買ってきたと伝えると、嬉しそうに旨い、旨いと言って食べていた。
いつもならこんな事は絶対に言わないのだけど、何故かこの日は…そういう日だったのだろう。
『雨降ってるからお袋迎えに行ってこいよ。』
母は自転車でパートに行っていた。昼間は晴れていたのでおそらく傘を持って行ってはいない、そう思った。父は渋々母を迎えに行った。
私はこの日に戻れるなら何を失っても構わない。同じ結果になるのだろうとしても、それでもこの日をもう一度やり直したい。
父は帰って来なかった。二時間位たった頃だろう、電話が鳴った。普段兄は電話には出ない、この日に限って兄が電話に出た。
私は部屋で漫画を読んでいた、電話がなって暫くすると兄が部屋にやって来て、
『今から病院に行ってくる。お前は電話番していろ。』
『病院?なんで?』
『親父達がこんなに遅くておかしいと思わないか?』
『え?事故ったの?』
『とりあえず行ってくる。』
詳しい話を聞かされないまま、私は言われた通り電話番をすることに。一時間位たって電話が鳴った、上の姉からだった。
『あんた家に居るの?』
『いるけど、親父事故ったの?』
『お兄ちゃんから何も聞いてないの?』
『何も聞いてないよ。』
涙ながら、嗚咽混じりで話す姉。あぁ親父達に何かあったのだと、私が理解するには十分だった。
『お父さん即死だって。お母さんも助かるか解らない。』
『嘘だろ?』
『今から旦那が迎えに行くから、家に居てね。』
唐突過ぎて、現実味がなくて、理解が追い付かない。数時間前にはそこに居たのだから。
病院に着くと二人の姉が泣き崩れていた。横で旦那さんが背中を擦ってあげていた。
兄は抜け殻のように立っていた。私を見つけると煙草をくれと言ってきた。煙草嫌いのくせに。
看護師さんに状況を説明してもらっていると、治療にあたっていた医師が出てきた。きっと母は私が到着するのを待っていたのだろう。
『お母様が先程息を引き取りました。』
母と最後に話したのは、いつ、どんな事だったろう。そんな事も思い出せない位、私の「当たり前」は突然崩れ去った。
家に帰り葬儀屋と葬式の段取りをしていると、両親が家に帰ってきた。外傷はあまりなく、眠っているように感じた。ただ、肌に触れた時に感じる冷たさが現実を突き付けてきた。
葬式場へ移動するまで仮眠を取っておくように言われたが、とても眠れる気がしなかったので少し夜風にあたってくると言って家を出た。
家の近くにある橋の上で両親の事を思い浮かべていた。
無愛想で、口より先に手が出る。
お酒が好きで毎日晩酌をしていた。
よく釣りに行った。
そんな父の事を。
いつも明るくて、ずっと笑っていた。
いつも私の我儘を聞いてくれた。
誰よりも愛情を与えてくれた。
そんな母を。
いつしか降りしきる雨の音が聞こえなくなって
肌を刺すような寒さも感じなくなって
金木犀の匂いもしなくなって
目の前の景色から色が消えていって
やがて何もかもが止まってしまった
真っ白な世界の中で「彼」は其処に在るだけだった。
両親の死を受け入れられず、涙も出なかった。夢だと思った、思いたかった。
明日になれば、母が朝起こしに来るのだと。会話も無く父と朝食を食べるのだと。そんな日常が続いていくのだと。
朝方の事だった、私の携帯が鳴っていた。電話に出る気分では無かったので、電源を切ろうと携帯を手に取った。親友からだった。
『ニュース見たんだけど、あの事故はお前の親なの?』
『そうだよ。親父は即死、お袋も病院で亡くなったよ。』
『大丈夫か?今から行こうか?』
『大丈夫、今から葬式場行かないとだし。それに予備校だろ?』
『予備校はどうでもいいよ。落ち着いたら連絡してくれ。葬式も行くから。』
『わかった。後で連絡する。』
『待ってるからな。しっかりしろよ!』
『あのさ…』
『ん?どうした?』
『親が死んじゃったよ…』
私は親が亡くなってから始めて涙を流した。号泣だったろう。私が両親の事を想って泣いたのは後にも先にもこの時だけである。
誰よりも信頼している親友に、自分の口から親の死を言ったことで、その事が急に現実味を帯びた。
それから火葬場まではあっという間のことだった。
火葬場で姉二人が、『一緒に逝けて良かったのかもね。』と話していた。実際に母が一命を取り留めたとしても、それが幸せだったかはわからないが、今は一緒に逝って良かったと思う。
火葬場の煙突から立ち上る煙を見ながら、私はこんな事を思っていた。
「生まれ変わっても、また貴方達の息子になりたい。産んでくれてありがとう。」と。
晴れ渡った秋空に二人は仲良く消えていった。
誰しも一度くらいはやり直したいと思う過去が有るのではないか。
何故あの時に、兄は私を誘ったのか、チーズケーキを買ったのか、迎えに行かせたのか。
選ぶことの無かった道の先を、未だに探しているのかもしれない。
次回は新生活~を予定してます。