桜色の記憶~Healing House~
お父さんも、お母さんも、仕事が忙しくて、家には滅多に帰って来ない。
だから、三人そろったのは、二年前のわたしの誕生日が最後。
わかっているんです。
お父さんも、お母さんも、私のために、仕事を頑張っているって言う事は。
けれど、わたしは……淋しくて……。
わたしが居なくなったら、探してくれるかな。
そんなバカな事を、ふと考えてしまう。
仕事を放り出して、探してくれるかな?
誘拐された、なんてことになったら……
一人で留守番するには広すぎる家を出て、わたしは公園に歩いた。
桜色の記憶~Healing House~
公園は、いつもわたしと同年代の子供たちが居て、賑やかだった。
でも、わたしはその子達と遊ぶ事は、なかった。
いつも、わたしはベンチに座っていて、ぼんやりと日が傾くのを待つだけだった。
平日なら学校があるけど、夏休みは、することがなかった。
毎日毎日、学校の宿題はコツコツ続ければいい。
遊ぶ予定も、何もないから、慌てる事もない……
はぁ、とため息をついて、いつものベンチに向かう。
ベンチが見えて、ぴたりと足が止まった。
緑色の塗装がはげて、ボロボロになっているベンチに腰掛ける男の人。
銀色の不思議な髪に赤い瞳、口を覆うマスク。前髪で左目を隠し、右目でちらりとわたしを見た。
けれど、興味がなさそうに視線をそらし、ベンチにもたれかかった。
おそるおそる近づいて、わたしはそのベンチに腰掛ける。
また、その人はわたしを見たけど、わたしは気付かないふりをした。
コレからどうしようかと、考えながら。
この人に、言ってみようか、今のわたしの気持ちを、と考えながら。
ちらりと視線を横に向けると、銀髪と真紅の瞳がとても綺麗だった。
すると、右目がくるりとわたしを見て、次に顔をこっちに向けた。
「なんだ。何か言いたいことでもあるのか」
その声はまるで、それは冬の夜のさざ波のようで、わたしの胸がぞわりと震えた。
その人のその言葉に、わたしは両手を組んで、俯きながら、言った。
「わたしを……誘拐してくれませんか?」
目を丸くしてわたしの顔を凝視し、そっと額に手を当ててきた。
慌ててその手を払うと、その人は怪訝そうに首をかしげた。
「聞き間違いか……『誘拐して』と聞こえたような気がしたんだが……」
「言いました……お願いです、わたしを誘拐してください」
すると、その人は私の目をじっとのぞき込んできた。赤い瞳に、わたしの顔が映り込む。
「……なるほど……両親が、仕事で忙しいから淋しくて、自分が誘拐されたらどうするか、知りたいワケか」
どきりと、した。なんでわかったの。思わずわたし叫んだ。
けれど、その人は、どうしてわかったのとわたしが言っても、無視して立ち上がった。
「それなら付いてくるか?いいものを見せてやるよ」
そう言って、公園の出口へと向かう。
わたしは、慌ててその後へ付いていった。
その人は、電話ボックスからどこかへと電話をして、その人はわたしの手を取った。
ほんのりあったかくて、優しい感じがした。
いつだろうか、最後に両親に手を引かれ歩いたのは。
いつ以来だったろうか……
引かれるままに付いていき、たどり着いたのは断崖となっている岬。
潮風に吹かれ、打ち付ける波は飛沫となって舞い上がる。
崖下の海は、とても深いのだろう、とても濃い青色をしていた。
ほんのり肌寒くそれでいて、伝う右手の温もりが、とても暖かかった。
「凄いと思わないか?」
突然、そう訊かれてわたしは戸惑った。
「海、広い海、そして深く、大きい海。生命は海から生まれ、そして陸へと上がり、空へと飛び立った」
わたしは、頭の上に疑問符を浮かべた。
すると、その人はクスリと微笑んだ。
「今の人間の技術は確かに進歩している、しかしその技術ですらもこの海の最奥まではたどり着いていない。この星の表面すら踏破していない」
「なにが……」
言いたいの、と聞こうとしたところで、その人はわたしに背中を向けて、岬の先へと歩いていった。
杭が打たれ、ロープで立ち入り禁止、と書かれているのも意に介せず。
「知りたいならば、確かめればいい。君の悩みも、この海の広さと深さに比べたら、些細な事なのだから」
そう言って振り返り、右手を差し出してきた。
わたしは、その手を取って、ロープを乗り越える。
「怖いか……?」
目の眩むような断崖に少し萎縮しながら、わたしはその人の腰にぎゅっと抱きついた。
「冷た……」
崖に当たった波飛沫が、がけの上まで飛んできた。
顔にひんやりと冷たいモノが当たる。
「怖く……ないの?」
わたしが聞くと、その人は笑った。
「海は生命の大元。それに俺にとっては家も同然、怖がる事などない……」
そう言うと、その人はわたしの体をその胸の中にぎゅっと抱きしめてくれた。
両親にすら、しばらくされてない、暖かな抱擁だった。
わたしは、その腕の中に抱きしめられながら、そっと瞳を閉じようとした。
すると、ポツリと呟いた。
「もう来たか、早いな」
「え?」
上目遣いで顔を見上げると、その人は岬の内側に顔を向けていた。
わたしも、同じように視線を向ける。
すると、沢山のパトカーと警官隊、それに……
「お……お父さん、お母さん……」
沢山の人、その中にいた両親の姿。
でも、どうして?警察と一緒にお父さん達が?
そう思うと、見透かすようにその人が言った。
「『娘は預かった、返して欲しくば【ココ】に一億もってこい』って言ったんだよ、さっき君の両親の会社に」
さらりと言うその言葉に、わたしは驚いた。
なんでそんな事を、と思ったところで、自分が言った言葉を思い出した。
『誘拐してくれませんか』と、確かに言った。
「子供のことを大切に想わない親がいるものか。例え離れてもいつでも想っているものだろう」
その時わたしは、警察の声も、打ち寄せる波の音もも聞こえなくなった。
ただ、感情を抑えきれず、その人胸の中で大声で泣いてしまった。
そして、何も言わずその人は、優しく抱きしめ、頭を撫でてくれた。
お父さんとお母さんが、パトカーから降りてきた。
お父さんの右手にはボストンバックが握られて、それをロープのこちら側、岬の方へと置いた。
「こ……コレで満足か?む、娘を返してくれ……」
すると、その人は両手を広げて困ったよう『やれやれ』と言った感じのジェスチャーをした。
返すもなにも、わたしがその人の服を握りしめて泣いてしまっているのだ。
優しくわたしを引きはがすと、瞳の端の涙をぬぐってくれた。
わたしの肩をぽんぽんと叩いて、そっと背中を押し、両親のほうへ行くように促した。
そして、わたしの右手を取って、てのなかに桜色の鍵をぎゅっと握らされた。
おまもり、と声に出さず唇の動きだけでその人は言った。
足場の悪い崖の上を、ゆっくりと歩いてわたしは両親のところに近づくと、力一杯抱きしめられた。
痛い、と言ったけれど、両親は涙を流しながら、笑っていた。
そんな両親の姿に、わたしは、ようやくあの人の言葉を実感する事が出来た。
「子供のためを想っているのだろうが、それで子供を独りにさせるのでは意味がない。幸せである事とお金がある事とは別物だ」
ズボンのポケットに両手を入れて、海に背中を向け、私たちに向けてそう言った。
警官達が、その人に説得をするが、彼は馬耳東風でなおもこう言った。
「俺の事は気にするな、所詮人間には捕まらない。それじゃぁな、幸せになれよ」
それだけ言って、みんなが見ている前で崖から飛び降りた。
頭が上に向いた格好で、にこりと微笑んだまま。
パシャンと崖下から着水する音が聞こえて、その人とはそれが最後。
ほんの数時間の、不思議な出来事だった。
「なによそれー、ウソっぽーい」
案の定な友人の反応に、わたしは溜息をついた。
「そう言われると思った。けれどね、ホントの話。その男の人はホントにいて、わたしを優しく抱きしめてくれたの」
「ふ~ん、ま、別に良いけどね。それで、海に落ちた後どうなったの?」
その言葉に、わたしは首を振った。
私が狂言だと伝えたので、こっぴどく叱られはしたものの、犯罪者としての捜索はされなかった。
けど、海に飛び降りたからには捜索しないわけにはいかなかったらしい。
そして、後から聞いた話なのだが、跡形もなく消えてしまったらしい。
あそこの海は深い事は深いのだが、特に潮流が荒いというわけでもないのに、見つからなかったと。
今考えてみれば、とても不思議な出来事だった。
逃げ切れる自信があったから、あのような場所を指定したのだろうか。しかしそもそもあの人はバッグに一切手は触れなかった。
結局あの人は、何をしたかったのだろう。
おまもりとしてもらった桜色の鍵は、今でもアクセサリとしてカバンにつけていつも持ち歩いている。
あれ以来、両親とはよく会えるようになった。
忙しい時でも、10分だけでも時間をつくって話せたり。旅行する時間をつくってくれたり。誕生日は全員でお祝いしたり。
それもコレも、あの人のおかげ。考えてみると、お礼、言ってなかったな……。
あれから、もう三年。季節は春、桜並木の通学路、桜吹雪が舞う中で、わたしは思った。
もう一度、一度だけでいいから、どこかで会えないだろうか。
お礼だけ、一言だけ、言いたい。
――――ありがとう、って。