本堂優
警察の捜査から身内は外される。
僕は最近その言葉を転がしたり掲げたりして裏側が透けて見えないか考えている。
・・・
七月は終わった。とある二十六歳に骨折を残して。
とある少女の心に癒えぬ傷を残して。
とある青年の命を散らして。
けれど失われたものばかりではなかった。
引きこもりの男は妹のために少し前進している。
それをうれしく思いながら、私は八月を迎えた。
「ひどい目にあった」
「ひどい目にあいましたね」
一週間ぶりの休日、本堂慶介を訪れてみると彼は順調な回復を見せており、四肢の全てを覆っていた包帯のうち二つが取れていたし、長く話せるようにもなっていた。
怪我をした場面に実は私は遭遇していた。
十日前、私たちはある動物の霊園にいた。私たちが関わった事件で死んだ犬の弔いを二人でしていたのだ。そこからの帰り道で本堂慶介は崖から転落して左腕と右足をひねり、左足の骨にひびを入れ、右腕を骨折した。怪我事態は運ばれた病院で治ると診断されたが転落したときに頭を打っていたのか二日間意識が戻らず、随分やきもきしたものだ。
「どうして手すりを錆びたままにしておくんだろうね、九条君」
「どうして大の大人がさびた手すりに身を預けるんですかね」
まあ、けれどそれに関しては彼に全ての責任があるといえる訳ではないのは分かっている。彼の運命が今回は彼に「事故」という事件を呼び寄せたのだ。
本堂慶介について知る者は一様に彼についてこういうだろう。
・・・週一の迷探偵と。
軽めだった左腕と右足の怪我はだいたい治ったようだが当然のことながら、骨折やひびがそんなにも簡単に治るわけではないので、本堂慶介の左足と右腕の包帯はまだ巻かれたままだ。
「ほんとうに危ないったらないよ」
「それについては大丈夫です。霊園側が今改善していますから」
「それはよかった」
本当にうれしそうに、穏やかな顔でまったく邪気なく、彼は笑った。
ずっと寝ているためか、いつもふわふな髪はいっそう癖毛だ。
「まったくあんまり心配をかけないでください」
「悪かったよ」
「無事だったからよかったですけど」
本当に心からよかった。
私はそれから彼に何か話そうと口を開きかけて、困った。私は何か話せるほど彼のことを何か知っている訳ではないのだ。事件が私たちに関わりを持たせただけで事件がなければ特に話題もないことに、私はまったく気が付いていなかった。
だからノックの音はある意味救いだった。
「はい」
返事をすると入ってきたのは本堂慶介の兄、本堂優だった。純白のスーツを白鳥のように凛々しく泰然と着込んで立っている。
「あ、お兄さん」
「君のお兄さんになった覚えはない」
しまった。ブラコンを刺激してしまった。
「なんて様だ。情けない」
「ふん。ほっといてくれないか」
本堂慶介は二十六にしてこどものようにそっぽを向いた。こちらはブラコンはブラコンでも方向性の違うブラザーコンプレックスを患っている。
「なんだ。心配して来てやったのに。弟がいのない奴だ。ほれほれ、機嫌を直ちてくださーい」
本堂兄が本堂慶介の頭を撫でる。やはりもふもふだ。羨ましい。私も触ってみたい。
にしても、見ていて飽きない兄弟だ。
「止めてください。なんなんですか、その赤ちゃん言葉! 二十九のおっさんが……いたっ。いひゃい。いひゃい。く、くじょーふんっきひぃもわぁってなひでたすけ、助けたまふえ。い、いた」
ほっぺをつねられながら、本堂慶介は抗議の声を上げた。それに対して私は笑いを堪えながら、心のなかで手を横に振る。
無理です。その人よく分からないくらい偉すぎる人なんで公務員的に手出しできません。
それに兄弟のいない私には二人のやり取りはとても楽しそうに見える。大人になっても仲がいいなんて、とても羨ましい。
「いいひゃげんに……」
しろよ、と本堂慶介は言うつもりだったのだろうか。その途中に本堂兄はぱっと手を話した。
「時間か 」
「はい 」
返事をする声に後ろを見れば、いつのまにか病室の入口にスーツ姿の男が畏まって待っていた。
「という訳で、私は帰るとする。九条文美とか言ったな。刑事ならもう少し気配に敏感でいろ」
本堂兄の迎えに気付かなかった身としては返す言葉もない。
「慶介。これ、やる。見舞いの品なんだからなっ」
ツンデレっぽい口調になって急にデレた本堂兄は持っていた紙袋から猫耳を素早く取り出すとベッドから動けない本堂慶介の頭に装着した。
「では、また来る」
最後にキリッとした表情に戻った彼は片手を大きく振って帰って行った。
「ふふふ。ははは」
「いつまで腹を抱えているつもりだね 、九条君」
「もう一度はめませんか? お兄さんがせっかく持ってきた猫耳ですよ」
「こら、九条君」
ふざけて持ち上げると本気で嫌がったので私はすごすごと引き下がった。
「まったく兄さんもろくな物を持ってこないな」
そう本堂慶介は言ったが、私は内心感心していた。彼は十分もいなかったのに、ちゃっかり本堂慶介を覆っていた憂いを取り除いていった。それに猫耳のチョイスもよく分かっている。
似合わなかったら考えものだけれど、似合っているので何の問題もない。きっと!
「可愛かったのになー」
「もう、忘れてくれたまえ」
「でも、持っててくださいよ。せっかくのお兄さんからのプレゼントなんですから」
「なんで後生大事に猫耳を保存する羽目になってるんだ」
しかし諦めたように猫耳を紙袋に戻して、ベッドのそばに置く。
再び手持ちぶさたになった私はふと思い付いた。
「何か食べますか? 私、紅茶を持ってきたんです」
「ありがとう、それじゃあ……その」
「何ですか?」
「りんごを剥いてもらえるかな」
「りんごですね」
私は冷蔵庫を覗く。誰かが果物篭を買ってきたようで、中は果物だらけだった。その中からりんごを取り出した私はするすると皮を剥いていく。果物ナイフは冷蔵庫に一緒に入っていた。果物篭を持ってきた人が一緒に買ったのだろうか。
「上手いものだね」
りんごの皮くらいで大袈裟な。
「あの、リクエストなんだけどね。うさぎを作ってくれないか?」
ぴたりと私の手は止まった。
うさぎ。……うさぎ?
「……九条君」
出来上がった品を見て本堂慶介は絶句している。
彼の持っている皿の上には半分に切ったりんごが十六等分の一の大きさを更に半分に切った物を二つ耳の代わりに突き刺している。少し後方にはやはり小さい欠片が刺さっていた。
「九条君……これはなんだね」
私は目を反らしながら答える。
「うさぎ……です」
「こ、これが……ぷぷ」
わ、笑ったな!
「これでも頑張ったんですよ! ほら、これしっぽ!」
「わははははは!」
「…………うぅ。仕方ないじゃないですか、私うさぎの切り方なんて知らないんですから」
「いや、ごめん。予想のはるか右上を飛んだものを作るから」
私はすっかり恥ずかしくなって、縮こまった。その耳に本堂慶介の不思議がる声が聞こえてくる。
「じゃあ、あれは誰だったのかな?」
「え?」
「僕が寝ているうちに来た誰かが、果物篭を持ってきてくれたみたいなんだ。その誰かがりんごを一つうさぎにして枕元に置いておいてくれたようでね、僕はそれが君だと思っていたんだが」
「それ、いつのことですか?」
「つい昨日の話さ。午後二時位だったかな」
あー……。
「池澤さんが……昨日の午後見舞いに行ったけどあなたが寝てたって……」
奇妙な沈黙が降りてくる。
本当にあの人は本堂慶介のためなら、らしくないことだってやるらしい。
私はおかしくなったのだが、ふいに本堂慶介を見て唖然となった。彼は厳しい顔つきになっていた。
「どうしたん……」
ですか、が遮られた。
「失礼します」
強ばった厳しそうな女性の声が室内に響き渡った。顎のラインで髪を切り揃えたきつい目付きの女性だった。しかしなかなか整った顔をしている。
「あなたが本堂慶介さんですね」
私は不穏な空気を感じて本堂慶介の前に立った。
「あなたは?」
「これは申し遅れました。私は雛型警察署の安藤友香です」
なんとなく予想はしていたが、刑事だった。
彼が事件に巻き込まれる日は三日前に過ぎていたから、そろそろ何かの事件の話しが彼に来る頃だと思っていた。それを把握していないのは、ここが日々型警察署の管轄外だからだ。
「これはどうも、刑事さん」
本堂慶介は丁寧に応じたが。
「白々しいですね」
安藤刑事は冷ややかに言った。
「どういう意味でしょう」
「言葉の通りです。本堂慶介。過去に九百件を越える事件に関わっており、どの事件でも重要参考人止まり。よくもまあ、今まで逮捕されませんでしたね、こんなに事件を起こしておいて」
「彼は犯人じゃありません!」
「あー。失礼だけれど、あなたはー彼の恋人?」
「刑事です! 日々型警察署、刑事部第一課強行犯係九条文美です」
「同業者か。で、彼は事件の重要参考人っていうところ?」
「いえ……。見ての通り怪我人ですので、お見舞いに」
「見舞い。ふーん」
つかつかと安藤刑事は私の方にやって来て、無遠慮に私と本堂慶介を見た。
そして口元を嫌な感じに緩める。
「そうやって警察をたらしこんで罪を逃れてるっていう訳だ」
「あなた! 何を言い出すんですか!」
「九条文美、九条文美、九条文美。私、あなたのこと知ってるわ。拳銃で犯人を撃った女性刑事だ。へえ、本庁から日々型に下ってたんだ」
「今、関係のない話しですよね」
「そうね。あなたがいるとそういう関係ない話しになってしまうわ。私は事件の調査で来たっていうのに」
ずい、と安藤刑事は私に顔を近付けた。
「警察官等けん銃使用及び取扱規範。刑事は拳銃を適宜適切に使用すること。なーんてほんの飾りよ。警察は守っちゃくれない。そんなの私たちにとっては常識よね。なのに、何で発砲しちゃったかなあ」
「……そうするべき時だったからです。後悔はしてません」
私は怯まずにらみ返した。
そうしなければ、私が守った人が――本堂慶介が罪悪感を増やしてしまう。
しばらく沈黙が続いた。
その沈黙を破ったのは私が守ろうとした人自身だった。
「九条君、君はもう帰りたまえ」
「え?」
「ここは君の警察署の管轄外だろう」
そう言われれば、そうなのだが。
「今日は警察官として来たわけじゃありませんから」
「だったら余計に帰るべきなのはわかるだろう? 彼女のほうは仕事らしい」
「……わかり、ました」
拒絶されているのだと、分からずにはいられなかった。仕事以外で私たちに何か会う特別な事情は確かに存在しないのだ。本堂慶介の無事ももうわかっている。
勝ち誇るような雛型警察署の刑事の顔に嫌な気にならない訳ではなかったが、ここは一旦引こう。
「今日は帰ります」
「ああ」
本堂慶介はそっけなく言った。何を考えているのか分からない顔でいるが、それでもこの態度の豹変には彼なりのなにかがあるのだと、私は信じている。
「一人であんまり考え込まないでください」
それだけ言って扉を閉めた。
「九条、すぐに戻れ」
マナーモードにしていた電話を開くとすぐに着信が鳴った。相手は日々型警察署の私の上司野江木だった。
「何事ですか」
「携帯では言えないがやばい」
確かに野江木の声はいつもより張り詰めている。
「どうやら、はい訓練ご苦労さんともいかんらしい。休日のとこ、悪いな」
「いえ。すぐに戻ります」
「飯まだなら、簡単に食ってこいな」
「了解しました。一二三○(ひとふたさんまる)には戻ります」
「おう」
電話はすぐに切れた。