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十年間、姉の陰で生きてきました

作者: 小林翼

石造りの修道院の一室で、エリアは今日も祈りを捧げていた。窓から差し込む朝の光が、彼女の栗色の髪を柔らかく照らしている。質素な修道服に身を包んだ彼女の姿は、どこまでも清楚で慎ましやかだった。


双子の姉であるセリーヌとは、容姿こそ似ているものの、その境遇はあまりにも違っていた。セリーヌは王都の社交界で「聖女様」として華やかに振る舞い、貴族たちの賛辞を浴びている。一方のエリアは、十歳の頃から修道院に預けられ、誰にも顧みられることなく静かに暮らしてきた。


それでもエリアは恨みを抱くことはなかった。ただ毎日、神に祈りを捧げ、修道院を訪れる病人や怪我人を癒すことに喜びを見出していた。彼女の手から放たれる聖なる光は、どんな重傷も癒す力を持っていた。しかしその事実を知る者は、修道院の中でもごくわずかだった。


ある嵐の夜のことだった。修道院の門が激しく叩かれる音に、エリアは祈りの部屋から飛び出した。他のシスターたちも慌てて玄関へと向かう。重い扉を開けると、そこには血まみれの男が倒れ込んできた。


「竜騎士団の方です!早く!」


若いシスターの叫び声に、エリアは走り寄った。男は立派な竜騎士の鎧を身に着けていたが、その胸部には深い裂傷があり、おびただしい血が流れ出ていた。普通の治療では到底間に合わない傷だった。


エリアは迷わず両手を傷口の上にかざした。彼女の掌から温かな金色の光が溢れ出し、男の体を包み込む。周囲のシスターたちが息を呑む中、傷口がみるみる塞がっていく。骨が繋がり、引き裂かれた筋肉が修復され、失われた血さえも体内に戻っていくようだった。


十分ほどの治療の後、エリアは力尽きたように床に座り込んだ。額には汗が浮かび、激しく肩で息をしている。それでも彼女の表情は穏やかだった。


「……助かったのですね」


男の傷は完全に癒えていた。血まみれの鎧の下の肌は、まるで何事もなかったかのように滑らかだった。シスターたちは驚愕の表情で、エリアと男を交互に見つめている。


数時間後、男は意識を取り戻した。彼の名はディラン・アッシュフォード。王国最強と謳われる竜騎士団の団長だった。


ディランが目を開けたとき、最初に見えたのは質素な天井と、その傍らで心配そうに見守る少女の顔だった。栗色の髪、澄んだ青い瞳、そして何より彼女から感じる純粋な聖なる力。


「あなたが……私を?」


エリアは小さく頷いた。


「お怪我が酷かったので。でも、もう大丈夫です」

「私の名はディラン・アッシュフォード。竜騎士団長を務めている」

「存じております。エリアと申します」


ディランは自分の胸に手を当てた。あれほどの重傷だったはずなのに、痛みも違和感も全くない。それどころか、体中に力が漲っている。


「信じられん……これほどの治癒術は……」


彼は長年の戦闘経験から、治癒魔法についても詳しかった。宮廷魔術師でさえ、ここまでの傷を癒すには数日はかかる。それを一晩で、しかも完璧に治すとは。


「あなたは……聖女なのか?」


エリアは困ったように微笑んだ。


「いいえ。聖女は私の姉です。私はただの修道女ですから」

「姉?」


ディランの脳裏に、王都で見た「聖女セリーヌ」の姿が浮かんだ。確かに容姿は似ている。だが、あの女性から感じた力と、目の前の少女から感じる力は、比較にならないほど違った。


王都のセリーヌは、貴族たちの前で時折簡単な治癒術を披露していた。軽い擦り傷を治す程度のものだったが、それでも人々は「聖女の奇跡」と称賛していた。しかしディランは違和感を覚えていた。あれは聖なる力というよりも、普通の治癒魔法に近いものだったからだ。


「姉のセリーヌは王都で聖女として活動しています。私は幼い頃からここで暮らしているんです」


エリアの言葉には何の怨嗟も含まれていなかった。ただ事実を淡々と述べているだけだった。その健気さが、ディランの胸を締め付けた。


ディランは数日間、修道院で静養することになった。その間、彼はエリアの日常を観察した。朝は祈りから始まり、修道院の雑務をこなし、訪れる病人を癒し、また祈る。その繰り返しだった。


ある日の午後、ディランは中庭でエリアが子供たちに囲まれているのを見た。近隣の村の子供たちが、怪我や病気の治療に訪れているのだという。


「エリア様、またお腹が痛いんです」


小さな男の子が泣きそうな顔で訴える。エリアは優しく微笑んで、その頭を撫でた。


「大丈夫よ。すぐに楽になるからね」


彼女の手が少年の腹部に触れると、柔らかな光が広がった。ほんの数秒後、少年の顔がぱっと明るくなる。


「痛くない!エリア様、ありがとう!」


次々と子供たちがエリアの元に集まってくる。彼女は一人一人に丁寧に向き合い、その痛みや苦しみを取り除いていく。その姿は、まさに聖女と呼ぶに相応しいものだった。


ディランは決意した。この事実を王に報告しなければならない。そして、王都で「聖女」を名乗るセリーヌの正体を暴かなければならない。


修道院を発つ前日、ディランはエリアと二人きりで話す機会を得た。夕暮れ時の中庭で、彼は真剣な表情で彼女を見つめた。


「エリア、あなたの姉上について教えてほしい」


エリアは少し驚いたような顔をしたが、すぐに穏やかな表情に戻った。


「姉は……美しくて、社交的で、多くの人に愛されています。私とは違って」

「あなたは自分に力があることを知っているのか?」

「はい。でも、それは神様からの贈り物ですから。私のものではありません」

「だが、あなたの姉上が王都で見せている力は、あなたのそれとは比べ物にならないほど弱い」


エリアは困ったように俯いた。


「姉は……昔から、私が何かをするたびに、それを自分の手柄として語っていました。最初は幼い頃の些細なことでした。でも、次第に大きなことになっていって……」

「あなたの治癒の業績も?」

「おそらく……。でも、私は構いません。姉が人々の役に立てるのなら、それで良いのです」


ディランは歯噛みした。この純粋すぎる少女は、自分がどれほど搾取されているのか理解していないのだ。


「エリア、これは詐欺だ。王国を欺く重大な犯罪だ」

「でも、姉を罰したくはありません」

「罰するためではない。真実を明らかにするためだ。そして……」


ディランは膝をついて、エリアの目を真っ直ぐ見つめた。


「あなたを、この狭い世界から解放するためだ」


エリアの瞳が大きく見開かれた。誰も、今まで誰も、彼女にそんなことを言った人はいなかった。


王都に戻ったディランは、すぐに国王に謁見を求めた。彼は信頼の厚い騎士であり、その報告は真剣に受け止められた。


「修道院に真の聖女がいる、と?」

「はい、陛下。彼女の力は私が今まで見たどの治癒術をも凌駕しています。竜の牙による致命傷を、一晩で完治させたのです」


国王は深く考え込んだ。セリーヌは王家の庇護を受け、多くの貴族たちから支持を集めている。しかし、彼女の能力については、確かに疑問の声もあった。


「調査が必要だな。だが、慎重に進めねばならん」


数日後、王都では盛大な晩餐会が開かれることになった。名目は「聖女セリーヌの功績を称える会」だったが、真の目的は別にあった。ディランの進言により、この場で聖女の力を試す機会が設けられたのだ。


セリーヌは華やかなドレスに身を包み、貴族たちの賛辞を浴びていた。彼女は美しく、優雅で、社交界の花だった。


「聖女様、本日は特別な催しを用意いたしました」


国王の言葉に、セリーヌは優雅に一礼した。


「光栄でございます、陛下」

「竜騎士の一人が、先日の戦闘で重傷を負ってな。宮廷魔術師でも治療に難儀している。そなたの力で癒してはもらえぬか?」


セリーヌの顔が一瞬強張った。しかしすぐに微笑みを取り繕う。


「もちろんでございます。お任せください」


運ばれてきた騎士は、確かに重傷だった。腕に深い裂傷があり、出血も激しい。セリーヌは騎士の傍らに跪き、両手をかざした。


淡い光が手から放たれる。傷口がわずかに塞がったように見えた。しかし、それは表面的なものに過ぎなかった。五分、十分と経っても、傷は完全には治らない。セリーヌの額には脂汗が浮かび始めた。


「申し訳ございません……今日は少し体調が……」


その時、ディランが進み出た。


「陛下、実は修道院から別の治療師を呼んでおります。比較のために、彼女にも試させてはいただけませんか?」


国王は頷いた。扉が開き、修道女の服を着た少女が入ってきた。エリアだった。


セリーヌの顔色が変わった。


「エリア……なぜあなたが……」


エリアは姉を見て、悲しそうに微笑んだ。


「お姉様」


彼女は騎士の元へと歩み寄り、手をかざした。瞬く間に金色の光が溢れ、傷口が完全に塞がっていく。会場にいた全員が、その圧倒的な力の差を目の当たりにした。


ものの数分で、騎士の傷は跡形もなく消えていた。騎士は驚愕の表情で自分の腕を見つめている。


静寂が会場を支配した。そして、ざわめきが広がり始めた。


「あれが……真の聖女の力……」

「セリーヌ様とは比べ物にならない……」

「一体どういうことだ?」


セリーヌは蒼白な顔で立ち尽くしていた。逃げることも、言い訳することもできない。


国王が重々しく口を開いた。


「セリーヌ・ロゼッティ。そなたに問う。そなたが今まで行ってきた『奇跡』とやらは、本当にそなた自身の力によるものだったのか?」


セリーヌは震える声で答えた。


「私は……私は……」

「お姉様」


エリアが静かに語りかけた。


「本当のことを話してください」


その優しい声が、セリーヌの最後の抵抗を崩した。彼女は床に崩れ落ち、泣き始めた。


「違います……違いました……全て、エリアの功績でした。私が子供の頃に治したと言っていた怪我も、貴族の娘の病気も、全てエリアが修道院で密かに治していたものです。私はそれを自分の手柄として……」


会場は騒然となった。貴族たちは怒りと困惑の表情で、セリーヌを見つめている。


「詐欺だ!」

「王家を欺いた!」

「許されざる行為だ!」


国王は厳しい表情でセリーヌを見下ろした。


「セリーヌ・ロゼッティ。そなたを聖女の地位から剥奪する。加えて、王家と国民を欺いた罪により、爵位も財産も全て没収する」


セリーヌは床に突っ伏して泣き続けた。彼女を庇護していた貴族たちも、次々と彼女から離れていく。栄華は一夜にして崩れ去った。


エリアは姉の傍らに跪き、その肩に手を置いた。


「お姉様、これからはご自分の力で生きてください。きっと、道は開けます」


その優しさが、セリーヌの心をさらに締め付けた。自分が散々虐げてきた妹が、最後まで自分を思いやってくれている。その事実が、どんな罰よりも重かった。


数週間後、エリアは王宮の一室を与えられ、正式に「聖女」として迎えられた。しかし彼女の生活は、修道院にいた頃とさほど変わらなかった。華美を嫌い、質素に暮らし、ただ人々を癒すことに専念した。


ディランは彼女の護衛を志願し、常に傍にいた。最初は守護者として、やがて一人の男性として、彼女を見つめるようになっていた。


ある日の午後、エリアが王宮の庭園で祈りを捧げていると、ディランが近づいてきた。


「エリア、少し話してもいいか?」

「もちろんです、ディラン様」

「ディランでいい。もう何度も言っているだろう?」


エリアはくすりと笑った。この数週間で、彼女の表情は以前よりずっと豊かになっていた。


「あなたは……後悔していないか?姉上のことで」


エリアは首を横に振った。


「後悔はしていません。姉は姉なりに、苦しんでいたのだと思います。私の力を妬み、でも頼らざるを得なかった。それはきっと、辛いことだったでしょう」

「あなたは優しすぎる」

「そうでしょうか。私はただ……誰かを憎むことができないだけです」


ディランは彼女の隣に座った。


「それが、あなたの強さなのかもしれないな」

「ディラン様こそ、私を救ってくださいました。あのまま修道院にいたら、私は一生、自分の人生を生きることはなかったでしょう」

「これからは、あなた自身の人生だ。誰かの影ではなく、エリアとして」


彼女は空を見上げた。青く澄んだ空が、どこまでも広がっている。


「はい。これからは……」


彼女は言葉を切って、ディランを見つめた。その瞳には、新しい決意と、そして淡い恋心が宿っていた。


「これからは、私自身の人生を歩みます。そして……もし許されるなら……」


彼女の頬がほんのり赤く染まる。ディランは優しく微笑んだ。


「私も、あなたと共に歩みたい。一人の騎士として、一人の男として」


彼は彼女の手を取った。その手は小さく、柔らかく、しかし確かな温もりがあった。


一方、セリーヌは全てを失い、王都から追放されて小さな村で暮らしていた。贅沢な生活から一転、自分の手で働かなければならない日々。しかし不思議なことに、彼女の心は次第に落ち着いていった。


虚飾を剥ぎ取られ、ただの一人の人間として生きる中で、セリーヌは初めて自分自身と向き合うことができた。妹への嫉妬、虚栄心、そして深い劣等感。それらと正面から向き合う日々は苦しかったが、同時に浄化されていくような感覚もあった。


ある日、村を訪れた行商人が重い荷物を運ぶのに苦労しているのを見て、セリーヌは自然と手を貸した。礼を言われたとき、彼女は初めて心からの満足を感じた。誰かの役に立つ喜びを、自分の力で得たのだ。


それは小さな一歩だった。でも、確かな一歩だった。


王宮では、エリアとディランの関係が深まっていた。二人は毎日のように言葉を交わし、共に時間を過ごした。エリアは人を癒し、ディランは国を守る。その使命は異なっていたが、二人の心は確かに寄り添っていた。


ある満月の夜、ディランはエリアを庭園に誘い出した。月光が二人を照らす中、彼は膝をついた。


「エリア、あなたを愛している。一人の男として、あなたを守り、支え、共に歩みたい」


エリアの目に涙が浮かんだ。それは喜びの涙だった。


「私も……私もあなたを愛しています、ディラン」


二人は抱き合い、誓いのキスを交わした。月が優しく二人を見守っている。


修道院に閉じ込められていた少女は、今や真の聖女として、そして愛する人の伴侶として、新しい人生を歩み始めていた。姉との確執、苦しい過去、全てを乗り越えて。


そして遠く離れた村で、かつて全てを持っていた女性は、何も持たないところから再出発していた。聖女の祝福は、今や真に相応しい者の元にあった。

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― 新着の感想 ―
極悪人の居ない優しいお話 とても良かったデス(*´ω`*) 妹を影に押し込め光を浴びた姉も そこまでの悪では無かったのが お話を穏やかに優しくしてますね 善人過ぎる妹聖女のような完璧な方は 少し苦手意…
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