表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/6

第五章 黯葬

「そんな……」


 ——ありえない。言葉は声にならなかった。

 日本海溝の深度は八千メートル。しかし、計器が示す値は八千を超えていた。

 数値と現実の境界が崩れる。

 もはや何が真実なのか判然としない。


 ——私たちが海底だと信じていたものは、の場には存在しなかった。

 雲のような何かを突き抜け無へと突き進んでいく。


 操縦系統は完全に沈黙し、警報音も間延びしていく。

 深度計の数値は八千二百を超え、やがて停止した。

 それでも全身が感じていた。

 なおも世界の中心へ進み続けている、と。


 床下からの圧力だけが増し続け、骨の髄まで圧し潰されそうだった。


 浮上の衝撃はついに訪れなかった。


 コンソールには「NIERNU」——意味をなさない文字列が無機質に点滅している。

「なんなんだ……この表示……」

 高槻の手が操縦桿から滑り落ちる。もはや成す術はないと、その背中が物語っていた。


 外部カメラの映像は淡く揺れながら、ゆっくりと焦点を下げていく。

 そこに在ったのは——

底知れぬ闇。

 まるで宇宙の星雲が、海底に一滴の墨となって沈んでいるかのような、不定形の口。


 それはブラックホールのような、

私たちの理屈も、時間も、光も、全てを呑み込む絶対的な口だった。

 音も熱も、艦内の気圧さえも吸い取られていく。

 重力さえも引きずり込むその穴は、ただそこに存在している。


 あの光の蛇は自然現象などではない。誰かの到達を待って、導いていたのかもしれない。

 胸元のペンダントだけが、虚ろな現実と私の身体を結ぶ唯一の証として、ひどく冷たく震えていた。



——圧壊音。



 SHINKAI-6501の骨組みが時間ごと押し潰されていく。

 金属の断末魔が船内に鈍く遅れて響く。

 高槻が息を呑み、三田はロザリオを強く握り、額を伏せる。私は目を逸らすこともできない。


 文明が死んでいく音。

 人間の限界など遥かに超えた深度。

 その全てを呑み込もうとする闇が静かに、確実に、私たちを見つめ返していた。


——האראו ילא ובוש——


 目が合った、と思った。


 私たちは、黯に觸れたのだと。

 視界がゆっくりと暗く沈んでいく。


 その時——

なにかがふるりと身を捩り、世界を震わせた。

 それは名もなき振動。


 その余波だけが時の層を超えて広がっていく。

 やがて、波の音。

 そして、静寂。



 それは一分後のことだった。



 本土と母船YOKOHAMAとの通信は、何度試みてもついに回復しなかった。

 母船の端末は断続的にログを送り続けていたが、その全ては届かないままだった。



——巨大なうねりが、私たちの外部を呑み込む音。

——地殻そのものが、悲鳴を上げる音。

——太古から眠る何かが、再び目を覚ます音。



 その日は——

日本海溝大震災が発生した日だった。


 しかし「日本海溝地震」という言葉がこれほどまでに、小さく感じられたことはなかった。



 そしてYOKOHAMAが沈没する直前——

本土に向けて送信できたのは、SHINKAI-6501の最後のログただ一つだけ。


——הינש השיגפ——


 あの円、あの光、あの闇——

全ては私たちを待っていたのだろう。



 意識はそこで断ち切られた。



 けれど私は——、

この世界の闇の中で、

ときおり波の音として、その記憶が耳に蘇る。


——今も、あの深海の音と光、黯の夢を見る




——————

『又沈濯於海底、因以生神、號曰底津少童命、次底筒男命。』

——日本書紀 巻第一 神代上




JAMSTEC SHINKAI-6501 Dive Log

Mission ID: DS-6501-20250731

Date/Time: 2025-07-31 03:28 UTC

Location: Nankai Trough Anomaly Zone (38.25°N, 143.35°E)

Crew: Takatsuki, Mita, Shinoda


[03:28:12 UTC] External Camera Observation [TR Model X3 Feed]:

Aurora-like luminous phenomenon confirmed at 5,891 m depth (designated "Serpents of Light").

Multiple green-blue luminous bands observed drifting across field of view.


Acoustic sensors (Type: TR HFS-9, Range: 2,000–8,000 Hz) recorded continuous high-frequency harmonic signals concurrent with the visual event.

Crewmember Mita reported perception of unidentified external acoustic event, described as "singing."


Post-mission signal analysis: waveform pattern consistent with ancient Hebrew phonetic structure.


"הינש השיגפ"

(Translation: "Sanctify the LORD and fear Him.")


[03:31:47 UTC] Vehicle Status Update:

Anomalous bottom current detected. Measured flow velocity exceeds 16.8 knots; submersible is being forcibly drawn toward the seafloor.

Primary control system exhibiting latency; manual steering inputs unresponsive.

Depth gauge (Model: PD DL-65) indicates rapid, uncontrolled descent (from 7,144 m to 8,286 m within minutes).


[03:32:03 UTC] Mother Ship YOKOHAMA Communications [Encrypted Channel 3]:

"Massive vortex detected. Estimated diameter approximately 2 kilometers. Central barometric pressure abnormally low."

Signal-to-noise ratio degraded (SNR 15 dB → 6 dB at 03:32:10 UTC); telemetry intermittently lost.

[03:32:14 UTC] — All communications terminated.

Final transmission: Intermittent static, severe packet loss.


[03:33:19 UTC] External Camera 03 [TR Model X3] Feed:

Visual: Indeterminate-diameter, dark circular formation detected on seafloor.

Central region displays "aperture" morphology; appearance analogous to event horizon of a black hole.

Vehicle vibration: Accelerating hull vibrations and audible creaking consistent with increasing hydrostatic pressure.

Automated system issued [ALERT CODE: SI-02](Severity: CRITICAL) Structural Integrity Breach Warning.


[72:43:30 UTC] Terminal Log [RV DataMark 1600]:

System Error: Recording device timestamp anomaly detected.

Final transmission received from submersible:


"פְּגִישָׁה שְׁנִיָּה"

(Translation: "Second Encounter" / "Reunion")


[85:43:30 UTC] Log Terminated:

Vehicle signal lost.

Mother ship YOKOHAMA confirmed sunk at the same time.

Notes: Final external sensor recording captured an unidentified tremor ("something" moved).

No further telemetry, acoustic, or visual data acquired after this timestamp.


Event Summary: Catastrophic structural failure and total loss of vehicle and mothership during deep-sea anomaly investigation.


One minute later, the Nankai Trough Megaquake occurred.


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ