第四章 燐渦
異変は最初、外部カメラの漣としてやってきた。
「……カメラの不調?」
三田が眉をひそめて映像を切り替える。画面にはただ暗い海底が続くはずだった。だが、ノイズの帯がゆらりと横切る。
深海の闇を裂く一筋のノイズ——
いや、それはノイズではなかった。
——"וארית שודק הוהי"——
「博士、カメラを向けて!」
慌ててカメラを動かす。
映像の中に青緑色の光が静かに流れ込んでくる。
液体に溶ける煙のような淡く柔らかな光。
「オーロラみたい……。でも、深海でこんな現象……」
私の声はかすれていた。
ひとつ、またひとつ。
それは帯となり、ねじれ、数を増やす。
やがて太い筋となった光の蛇たちが、静かに私たちを包囲した。
その光はまるで私たちの存在を数えるように、ひとつずつ、じっとこちらを見つめていた。
生物でも機械でもない。
世界そのものの目眩が、目の前に現れている。
「照明を……落としましょう」
高槻の声もまた海底の静寂に沈んだ。
三田が頷き、照明を最小限まで絞る。
光は闇の中でいっそう鮮やかに螺旋を描いた——まるで宇宙の果てに咲く見たこともない花のように。
「……音がする」
三田がヘッドホンを強く耳に押し当てる。その声は震えていた。
「いくつもの音が……何重にも……歌ってるみたい……」
彼女の声が揺れる。高槻がモニターを切り替え、音響波形を表示する。
それは機械のアラーム音とは異なる。
耳の奥を針でそっと突かれるような振動の束が、船体を撫でるように伝わってくる。
耳の奥に撫でる無数の微かな声。
連続波、金属の軋み、遠い歌声が船体の骨を共鳴させる。
רשק הזה םעה רמאי רשא לכל רשק ןורמאמל"——
וצירעת אלו וארית אלוארמ תאו
——"םכצירעמ אוהו םכארמ אוהו ושידקת ותוא הואבצ הוהי תא
誰のものとも知れぬ囁きが、私たちの胸を揺らす。
私は心の奥で、これは現実なのかと問い続けていた。
ペンダントを握る手から体温が静かに失われていく。
祈るように、胸の奥で名もなき言葉が響く——。
光。音。闇。
——わずかな希望。
光の蛇は船体を旋回しゆっくりと、ゆっくりと、
重力さえも変えながら深みへと誘う。
抗う術もなく、
光の蛇に導かれ、
——名もなき深みへ。
「操縦不能——スラスター反応なし! 緊急浮上!」
高槻の声が一段高くなる。
「自動浮上システム作動、……反応なし。——何だこれは……!」
「……どんどん……沈んでいく……」
「現在深度六千三百……警告音……限界深度、あと少しでオーバーです!」
三田が計器を睨む。警告音が虚しく響き、室内の空気が薄く重たくなる。
深度計の針が一気に赤い領域を貫いた。その時、船体を包む光の蛇は私たちの恐怖を数えるように、静かに漂っていた——。
計器は数字だけを冷たく刻み続ける。六千六百メートル、七千。
限界深度をとうに超えた船体が静かに悲鳴を上げる。
外板が唸りボルトが軋む。けれどその音さえも光に吸い込まれて消えていく。
外部カメラには、いまだに光の蛇が幾重にも交差し、私たちの周囲を封じ込めていた。
その時通信パネルが最後の警告音を発した。
『YOKOHAMA本船より緊急信号——』
モニターに僅かな文字が流れる。
『母船周辺で巨大な渦潮が発生。直ちに——』
母船YOKOHAMAの声も巨大な渦潮に呑み込まれていく。
探査船の計器は赤く明滅し、全ての警報が鳴り響く。まるで歌に共鳴するように。
船体がきしみ、重力の向きが再び変わる。もはや上も下も、左も右も、全てが消えた。
そして世界には、
光と歌と、沈黙だけが残った。
私たちは名もなき深淵へと、
ただ、光の蛇に導かれるまま沈み、
——やがて夢と現実のあわいにて、私たちは影となった。