第三章 夢孔
目を覚ますと白い天井が見えた。
ぼんやりとした光がカーテン越しに差し込み、身動ぎすれば薄いシーツの上で、自分の身体が異様に軽く感じられる。
YOKOHAMAの診療室——。
潮の匂いや機械の唸りは遠ざかり、代わりに乾いた消毒薬の香りが鼻を刺した。
記憶の底からあの瞬間の感覚が甦る。
重力の向きが狂い、視界が渦を巻き、心臓が焼けつくように脈打つ。世界が裏返った——。
「……起きましたか」
低い声に振り向くと高槻が壁にもたれていた。制服の袖を腕まくりし、瞳の奥にはいつもの静かな光を湛えている。
「だいぶ寝ていましたよ」
「……どれくらい」
「まる一日、です」
高槻はそう答えてカルテのような書類をめくる。
やがて三田が控えめな足音を響かせて入ってきた。目の下には薄い影、髪は後ろで乱暴に束ねられている。
「みんな、無事でよかった」
三田は安堵の息をつき、すぐ手元の端末を差し出す。
「これ昨日の映像記録。解析も全部かけた。でも……」
画面に映るのはただの泥と闇。センサーのログも正常で何も異常はなかった。
私は無意識にカメラ越しに見た、あの円を思い出していた。
「……映ってない?」
「どこにも……。何度も巻き戻して探したけど、あんな模様、どこにもない……」
淡々とした声に不安と苛立ちが滲む。
「私たち……、確かに見たよね?」
思わず声が高くなる。私の問いに、高槻と三田が同時に力強く頷いた。
その反応がかえって怖かった。
頭の奥であの滑らかな曲線の記憶が鮮烈によみがえる——人工でも自然でもない、禍々しい完全な円。
あれは現実だった。
「本当に、三人ともあの円を見ましたよね?」
私が念を押すと高槻は短く頷き、三田は少し怯えたような目で「間違いない」と呟いた。
「絶対に見た。……あんなに大きなもの、見間違えるはずがない」
三田は拳を握り机を小さく叩く。部屋の空気が一瞬引き攣れた。
「記録に残っていないのが、おかしいんだ」
三人が同じものを同じ瞬間に記憶し、同じ形で語れる。それが幻覚や記憶違いなどで片づけられないことだけは、誰もが直感していた。
診療室に沈黙が落ちる。
高槻がそっと画面を指差す。
「ここ。タイムスタンプが飛んでいます」
画面に映る「空白のログ」。
心臓がさっきより速く脈打つ。
そのログの隙間は、まるで現実に穿たれた穴のようだった。
「……記録装置は正常なのに、あの瞬間だけ、すべてが消えてる」
自分の声が遠く聞こえる。
部屋の静けさが冷たい海の底よりも深く感じられた。
「機器トラブルだったのかもしれない。記録上は、何もなかったことになっている」
「こんなこと……」
三田の声は震えていた。
「見たことが、なかったことにされるなんて」
高槻も長く黙っていたが、やがて静かに呟いた。
頭の中に再び円の幻が揺らめく。
沈黙の中でエアコンの音だけがやけに大きく響く。
「……明日もう一度潜ることになっています。篠田博士は体調を整えてください」
「明日……」
「昨日のこともあって辛いとは思いますが……」
「ううん……。私も知りたい。あれが何だったのか。もう一度、この目で確かめたい」
高槻と三田は顔を見合わせ、少しだけ笑った。
「期待してますよ。それでは、ゆっくり休んでください」
そう言って診療室を出ていく。
白い天井を見上げぼんやり考える。あれは一体何だったのか。鉱床の生成と何か関係があるのか。
あの記憶だけが私を今ここに縛りつけている。けれど誰にも証明できない。私だけが、深海の幻に取り残されてしまったのだろうか。
天井灯がひとつだけ瞬き、その明滅が不吉に感じられた。
翌朝、私は再びSHINKAI-6501のコクピットに座っていた。
船内の空気は初日よりも重く、誰もが自分の端末と目の前の計器以外を見ようとしなかった。
「同じ座標にアプローチします」
高槻の声が静かに響く。
「前回と同じく異常があれば即時浮上します」
三田は計測端末を睨み、私は窓の外を凝視した。
「予備の記録装置も用意しました。今度はちゃんと記録に残してやりましょう」
三田は言い聞かせるように微笑むが、その声には不安が滲んでいた。
私は無言で頷いた——何かが、また私たちの現実を侵そうとしている気がした。証拠が欲しいという期待が、コクピットの空気に重く沈んでいた。
やがて到達した海底——。
ただの泥。
完璧な円などどこにもない。
映像も、数値も、正常そのもの。表示された座標にも誤差はない。
そこにあったのは深海の泥が、わずかな潮の動きで形を曖昧にしているだけだった。
私は無言で画面を眺め続けた。
あの円が存在した証拠は、何ひとつ見つからなかった。
検証も再潜航も、冷たい事実だけを積み上げていく。
三田は「やっぱり何も映ってない」と繰り返し、私は「でも、ここにあったはずなのに……」と、ただ一人答え続けた。
高槻の沈黙だけが冷たい海水のように、私たちの周囲を満たしていた。
ふと、カメラの端に僅かな歪みが走る。
泥の表面に指でなぞったような円弧が、一瞬だけ浮かび上がった気がする。
けれどすぐに、海流に攪拌されて跡形もなく消えてしまった。
三田が「今、何か映った?」と声を潜めたが、映像にはもう何も残っていなかった。
幻は消え、証拠も消えた。ただ心の奥に残る形だけが、私の全てだった。
——שר ןיאו דבא םולח——
——この深海では現実と記録は必ずしも一致しないのかもしれない
——もし、今もこの海底で、誰にも記録できない現象が起き続けているとしたら
——私たちは、その影のほんの一端を目撃しただけなのかもしれない……
——私たちは一体何を信じればいいのだろう
現実に爪痕を残さなかったその幻が、かえって私たちの心だけを締めつけていた。
——どうか、いつかこの記憶だけは、誰かに届いてほしい
胸元のペンダントをぎゅっと握りしめる。