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第二章 幽環

 夜明けきらぬ甲板は、凛とした冷気に包まれていた。

 船の灯りが青白く海面を照らし、濡れた金属の床が密やかに光る。

 私はフリースの裾を握りしめ、吐く息をそっと空へと溶かす。


 数歩離れた場所で高槻が、黙って海を見つめている。

 その背中の輪郭だけで、彼がほとんど眠れなかったことを悟った。


「寒いですね」

 声をかけると高槻はほんの僅かに顎を上げるが、視線は海から逸らさない。


「この時間が一番静かだ。……深海に潜る前の静けさは、陸の夜明けとはまるで違う。初めて潜航した夜を、思い出すよ」

 その声は低く、どこか遠い記憶をなぞるようだった。

 手すりを掴む指にはかつて同僚を失った事故の古い傷跡が、白く浮かんでいる。


「怖くなかったんですか?」

 私の問いに、高槻は微かに口元を緩める。

「怖かったさ。でも、怖いからこそやれるんだ。今も、たぶん」

 それだけ言うと再び、海の闇へと視線を戻す。


 甲板の隅では三田が、工具箱に指を走らせていた。

 朝の冷気に彼女の息だけが、白く浮かぶ。

「眠れなかった?」

 工具が指の間でカチリと鳴る。

「……センサー、気になる。全部正常だけど、落ち着かない」

 視線を合わせず、ただ手元を見つめる三田。

「お守り?」

 胸元でロザリオが微かに揺れる。

「科学者だって、祈りたくなる時はあるよ」

 その声には幼い不安と、意地が同居していた。

 子どもの頃に海で見た、得体の知れない闇を今も忘れられない。それでも科学者としての理性と、胸元のロザリオにすがる迷いの間で揺れていた。

 言い終えて、三田は工具箱を何度も整理する。その動きは照れ隠しにも、不安を押し殺す仕草にも見えた。



 艦橋を抜け、甲板へ出る。

 SHINKAI-6501は整備員たちにより、最終点検が進められていた。

 白い外殻は夜明けの青を映し、どこか鳥の骨のように細く、しかし確かな堅牢さを湛えている。


 点検が終わり、乗り込む直前。

 三人はごく短い沈黙のなかで視線を交わした。


「じゃ、行ってくる」

 三田が小さく手を上げる。

 高槻は腕時計を確かめ、三田は胸ポケットに手を当て、私はペンダントをそっと握りしめる。


「また、夕焼けを見に戻りましょう」

 私がそう言うと三田がにやりと笑い、高槻もわずかに頷いた。


 ハッチが開かれる。

 乗り込む前、三人それぞれが一瞬だけ空を仰ぐ。


「気をつけて」と整備員が呟く。

 ハッチの重い音が閉じると、外界の気配は全て遮断される。

 薄暗いコクピットに三人が並び、機器の起動音と互いの呼吸音だけが響いていた。



 機体はごぼりと音を立て静かに、しかし確かに降下を始める。

 モニターに映る数字がゆっくりと大きくなっていく。

 深度千メートルを越えたあたりで、船体の外側に海水が強く打ちつける音が微かに響いた。


 やがて、完全な暗闇。



——הולאגי תומלצו ךשח——



 窓の外には何も見えない。ただ機器の灯りが、艶やかな金属の反射を揺らすだけ。


「生体反応ゼロ、だな」

 高槻が呟く。

 センサーは沈黙し、魚も微生物すらも、何ひとつ映し出さない。

 その言葉が湿り気を帯びた沈黙となって、コクピットを満たした。


「本当に……何もいないの?」

 三田がディスプレイを覗き込む。

「魚影も微生物も……」

「……嫌な感じだな……」

 深海に生き物が一切いないなど、科学的にはあり得ない——だが生体センサーはただ、ゼロを示していた。


「静かすぎる……」

 三田がぼそりと呟く。

 私は計測装置の数値を見つめながら、深海の虚無を思った。

 音もなくただ沈み続ける。世界から切り離された孤独が、胸の奥に沁み込む。まるで心の奥まで、海水に満たされていくようだった。



 深度五千六百メートル。

「前方、海底に何か……!」

 三田の声に、私は視線を上げる。

 外部カメラを調整する。映像には巨大な円形模様が、ぼんやりと浮かび上がっていた。


「……見間違いじゃないよね?」

 三田が呟く。

「いや、間違いなく映ってる。……地形としてもこんな円は……」

「人工物じゃない……よね?」

「……もし人工物なら俺たち今頃TV取材だろ」

「……冗談になってません」

「冗談だよ」

 誰も笑わない。カメラの映像から目を離す者はいなかった。

 沈黙がコクピットを覆い、機器の微かな音だけが時間の流れを刻む。それ以外には三人分の呼吸音だけが、ゆっくりと闇に溶けていった。


 暗い灰色の泥に刻まれた、直径二百メートルをゆうに超える完全な円。

 人工物とも自然現象とも断じ難い、その完璧な曲線。幾何学的な精密さと、禍々しい違和感がそこに同時にあった。

 私は息を呑む。


「……これが、あなたが見つけた地形異常……?」

「いえ……こんなの、あり得ません……」

 画面を拡大する。線は深く、滑らかで、無限の意志すら感じさせた。


「スキャン異常なし。熱源反応ゼロ。磁場変動……なし、のはずだけど……これは一体……?」

 三田が首を傾げる。

 高槻が慎重に機体を前進させ、私はただ目の前の円を観測し続ける。——人間の理屈を超えた何かが、海底の闇に刻まれていた。


 その瞬間だった。


「……流れが、おかしい」

 高槻が短く叫ぶ。

「数値、跳ねてる。こんな数値……」

 壁の計器が一斉にアラームを発し、数値が跳ね上がる。甲高い警告音が深海の静寂を切り裂いた。


「しっかり掴まれ!」

「……船体、傾いてる、制御が……」

「……上下の感覚が……」


 私は目眩を覚えた。鼓動がはち切れそうに響く。呼吸が浅くなり喉の奥に金属の味が広がる。

 重力の方向が歪む。コクピットの床が斜めになり、全身がシートに押しつけられる。

 外界の海水が狂ったように船体を叩き、SHINKAI-6501は制御を失って回転を始める。


 世界が裏返るような感覚。重力も時間も、全てが溶けていく——。


「自動浮上装置、作動!制御不能、緊急浮上する!」


 高槻の声が響く。

 三田が座席のフレームを強く掴む姿が、視界の端にちらついた。

 私はただぐるぐると回る視界の中、必死でシートにしがみつくことしかできなかった。


 上も下も失われた闇の中——

私たちは無力なまま、暗黒の海底から引き剥がされていった——。

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