第一章 暁淵
午前四時、港の空気は未だ夜の名残を帯びていた。
潮の匂いは冷たく、甲板の鉄板は朝露に濡れ、しんと音もなく光っている。
母船「YOKOHAMA」の上、灯火に集う虫のように、僅かな人影が静かに動いていた。
三機の無人探査機を喪失した今、残されたのは人間の意志と肉体だけだった。
空には薄雲が垂れ込み、東の水平線だけが微かに白んでいる。
見送りの研究員たちは無言で手元の端末を睨みつけ、報道カメラのフラッシュすらどこか遠い現実の残響に思われた。
YOKOHAMAが低く吠え、出港する。
その音はどこか寂しげに、朝の港に木霊した。
艦橋で最後のブリーフィングが行われる。
会議室よりさらに狭いこの部屋には、電子地図とモニターの冷たい光だけが満ちていた。
「目的地は日本海溝。この座標——」
スクリーンに浮かぶ地図は、深い青の中に小さな赤い点を灯している。
副長が淡々と指し示すたび部屋の誰もが、ここが還れぬ場所になるのではないか、と胸の奥で予感していた。
「潜航は三名。パイロット高槻、ナビゲーター三田、地質調査および観測担当が篠田博士。」
高槻洋平は静かに頷く。
制服の襟はきちんと閉じられ、筋肉質な体格は椅子の影からでもわかった。その黒い瞳は一度も揺らがず、真っ直ぐにモニターを射抜いている。
十余年の経験——その背後には深海での事故の記憶が刻まれていることを、誰もが知っていた。
彼が口を開くたび、部屋の空気は一段と引き締まる。
「……全操作は私が行う。万が一に備えて、全自動緊急浮上機構も二重化してある。だが、あの領域で何が起きるか、予測はできない。三田、ナビゲーションは任せた。異常があれば即座に報告を。」
「了解です」
三田彩音の声は低く、どこか澄んでいた。
髪をひとつに束ね、作業着のポケットには工具が詰まっている。指先は常に動き、地図端末のスクロールや座標入力の癖すら、独自のリズムを刻んでいる。
感覚で地形を読む。それが彼女の資質であり、高槻が最も信頼する理由でもあった。
「……観測担当、篠田博士。」
名前を呼ばれ、私はゆっくりと顔を上げる。
視界の端で蛍光灯が瞬き、メガネ越しにスクリーンを見つめた。
——観測することが、すべて
私の役割は、深海の虚無に目を凝らすこと。
記録し、観測し、ただ見つめること。
黙って見つめ続けることだけが、私に課された使命だった。
「現地到着は二十時を予定している。そして翌朝、深海に出発だ。」
高槻は手首の時計に一瞬だけ目を落とし、無言で頷いた。
三田は、無意識にポケットの工具を指先で弄んでいる。
誰もが自分だけの小さな儀式で、不安を押し殺していた。
——םוהת ינפ לע ךשחו——
夜は、音もなく長かった。
YOKOHAMAの船室は薄暗く、空調の吹き出し口から時折冷たい風が流れてくる。
論文のページを捲りながら、海の底を思い描く。そこに海の音はなかった。聞こえるのは遠くで波を割る船体の軋みと、断続的な機械の低い唸りだけ——静寂の底から浮かび上がる音だった。
けれど時間が経つほどに、その外界の音さえも遠ざかっていく。
寝台に身を沈めると、シーツの冷たい感触が背中を包む。
天井には小さな染みがあり、微かな揺れとともに影が揺れていた。
エンジンの音が一定のリズムで響き、どこか遠い世界で心臓が鼓動しているようだった。
枕元には小さなLEDランプが灯っている。明滅する光をじっと見つめながら、指先でペンダントをなぞる。マイクロSDカードを仕込んだ銀製のペンダント。その中には大切な思い出と、好きな画家が描いた一枚の月の絵が入っている。
銀のペンダントが指先で微かに鳴った。その小さな金属音だけが、私を現実に繋ぎ留めていた。
私の研究がもし、何か取り返しのつかない扉を開けてしまったのだとしたら——そんな自責が胸の奥で静かに疼く。
目を閉じても眠りは訪れなかった。
やがて聴こえるのは、シーツの皺がきしむ音と自分の呼吸、心臓の律動だけになる。
静寂は夜の底で膨らみ、身体の奥から生まれた小さな音だけが、ゆっくりと広がっていく。
——明日、この指先はまだ現実を触れていられるだろうか
そんな予感が、眠れぬ夜の暗がりの中、胸の奥で静かに脈打っていた。
寝返りを打つたシーツの皺が、やけに大きな音に聞こえる。
隣室で誰かが微かに寝返りを打つ音。おそらく三田か高槻だろう。それだけがこの夜の船にとって、唯一の人間の存在を知らせる微かな合図だった。
眠れぬまま、私は遠く波の音を数えていた。
天井の染みも闇に溶けていく。視界が曖昧になるほど、僅かな音だけが強く意識される。
朝は、まだ遠い。
夜だけが、静かに、膨らんでいく。
……やがて波音も、機械の唸りも、夢のように遠ざかっていった。
最後に残ったのは深く沈む静寂と、自分の鼓動だけだった。