プロローグ
部屋は薄暗い。
遠くでドアが閉まる音が響く。会議机に並ぶ影たちは互いに、決して視線を交わさない。
机の中央に置かれた論文だけが、白く沈黙している。
空調の風が書類を微かに揺らすたび、この場所が現実かどうかさえ曖昧になる。
誰もが手元の資料に目を落としているが、実際に読み込む者は一人もいない。——この場にいる誰もが、すでに見えない何かに触れてしまったのではないか、そんな予感が沈黙の底で誰にも見えないまま、じっと蠢いていた。
死刑執行を待つ囚人のように声を潜めていた。
「KAI-7型無人探査機……通信は、異常な低周波を記録したのを最後に、完全に途絶しました。回収は断念せざるを得ません」
書記官が機械的に読み上げる。
モニターの端に浮かぶ波形グラフとKAI-7のログを、誰もが無言で見つめている——まるで死者の心電図のように、既に途切れた線だった。
「URA-8はコアバッテリーが自己焼損。原因は内部ショートのようですが、航行データにはノイズが混じり、何かが擦ったような痕跡が残っています」
重い沈黙が広がる。
ログによれば、僅か数秒で記録モジュールの温度が二百三十度まで上昇していた——まるで溶岩の中に投げ込まれたように。
最年長の主任研究者が口を開く。
「ABI-11もか……視野反転現象、映像がひっくり返るなんて聞いたことがない。これは偶発的なトラブルじゃない」
「いずれも、篠田博士の論文が示した異常領域と一致する座標で発生しています」
事実だけを淡々と告げる声が、会議室の冷たい空気を僅かに震わせた。
「政府の要請だ。なんとしてもJAMSTECの威信は守らねば」
「しかし、これ以上の無人探査では成果は得られません。既に三機全てが回収不能となっています……」
「現場でリアルタイムに判断できる研究者が必要だ。……篠田博士の観測モデルが、現実にどこまで通用するか、ここで証明してもらうしかない」
誰もが、会議机の中央に置かれた一冊の論文に視線を落とす。
『Geological Hypothesis on the Non-Volcanic Origin of Ultra-Deep-Sea Hydrothermal Deposits in Subduction Zones』
——その新たな地質モデルは、今回の異常なレアアース分布と重なっていた。
『……本論文では、非火山性沈み込み帯における深海鉱床の成因を、従来説とは異なる新たな仮説で説明する……』
静寂の中紙の感触だけが、この部屋を現実に繋ぎ留めているようだった。もし実証されれば、世界のレアアース地政学が塗り替えられる、とさえ言われていた。
誰もが論文の表紙を一瞥し、沈黙する。まるで開いてはいけない扉を前にしているかのようだった。
「有人潜航しか、方法はないのか」
その重い問いかけに誰も反論できなかった。
失われた三機のログが物語るのは深海の理不尽さと、ここから先が未知の領域であるという事実だった。
「SHINKAI-6501を投入しよう」
主任の声が、静かに響いた。
「ですが、あれはまだ実験段階ですよ!?」
「仕方ないだろう。他にあの場所にたどり着く方法はない」
主任は何かを呑み込むように、細い指を組んでいた。
若手技官は上司の顔色を窺いながら、こめかみに汗を滲ませている。——深海に向かうのは機械だけでよかったはずだと、誰もが心の中で繰り返していた。
「パイロットは高槻、ナビゲーターは三田。
そして地質調査、観測担当として篠田博士。
……この三名で、深海調査を実施する」
決定はあまりにも静かで、誰も逆らうことができなかった。
蛍光灯の球がわずかに揺れ、その微かな振動が長く静寂の中に漂う。
会議室の空気はもはやほの暗い海底のように沈み、誰もが自分の息づかいだけを頼りにしていた。
——עמש ןיא האר ןיא——
[LOG FILE - DEEP SEA INCIDENT REPORT]
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# KAI-7 Mission Log: #KAI7_0608_145223
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Start Depth: 6,200m | Status: COMM OK
05:52:11.147 UTC - SONAR: Peak amplitude detected <35Hz (threshold exceeded)
05:52:14.392 UTC - DP Control: Response delay detected, switching to backup buffer
05:52:19.811 UTC - Attitude: 12° port side tilt → auto-stabilization triggered
05:52:21.125 UTC - VIDEO: Signal wave interference detected (3-frame persistence)
05:52:23.008 UTC - COMM LOST: No signal from ROV
NOTE: Incident under review. Final data transmission incomplete.
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# URA-8 Mission Log: #URA8_0615_133401
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Mode: Autonomous A-2 | Target: Magnetic & Terrain Scan
03:34:15.058 UTC - NAV: Stable heading, buffer usage 21%
03:34:21.229 UTC - MAG SENSOR: +1977μT (4.2x baseline)
03:34:23.674 UTC - SYS TEMP: Logging module temp anomaly (2°C → 238°C)
03:34:24.141 UTC - COMM ERROR: Continuous noise interference, uncorrectable
03:34:27.912 UTC - FAILSAFE: Auto-surfacing engaged
03:38:02.005 UTC - Post-recovery: Internal battery module event.
NOTE: Data log partially corrupted. Cause of thermal event undetermined.
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# ABI-11 Mission Log: #ABI11_0621_181019
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Depth: 7,242m | Temp: 1.6°C | Current: 0.3kt
15:10:12.281 UTC - VIDEO: Normal feed (seafloor slab geometry confirmed)
15:10:16.904 UTC - VIDEO: Reflection anomaly at lower frame edge (no description available)
15:10:17.455 UTC - CAM ERR: Frame inversion detected (auto-correct not triggered)
15:10:18.302 UTC - SONAR: Echo return anomaly ("Time=0" flagged)
15:10:19.804 UTC - TENSION: Cable strain spike detected → full severance
NOTE: Final video frame unavailable. Incident analysis ongoing.
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Generated by: KAIKOU Ops Terminal 3
Format: JAMSTEC/DSI-compliant log snapshot