適合者 ─ Ⅰ
目の前で起こっている惨状は、本当に現実のものだろうか。
もしかすると、永遠はまだ飛行機の中で寝ていて、ここは夢の中なのかもしれない。
そんな淡い期待を嘲笑うかのように、呆然と座り込む永遠の頬に赤い液体が飛んできた。
鉄の臭いがするその液体は、次々と引きちぎられていく乗客たちから飛び散った血液だ。
生き残っている者たちは皆、少しでも後ろに逃げようと走っている。
しかし、異形の口元が大きく裂けると、そこから飛び出した舌が、まるで爪楊枝でも刺すかのように乗客を易々と貫いていった。
絶望と苦痛の入り混じった断末魔に、永遠の指先が冷えていく。
震える身体を押さえつけ、永遠は段々と縮まる異形との距離に怯えていた。
「よく聞いて、永遠。僕なら永遠を助けてあげられる。永遠が僕を、中に入れてさえくれればね」
逃げることはおろか、立つこともできない永遠の耳に、シンの声が聞こえてくる。
「……そもそも、シンは外にいるじゃないですか。中に入れるなんて、いったいどうすれば……!」
「大丈夫。永遠の了承があれば、入ること自体は難しくないんだ」
「それは、どういう──」
全身に鳥肌が立った。
異形の目が、永遠の方へと向けられている。
言葉はない。
確証もない。
けれど今、異形は確かに永遠を次の獲物として認識した。
「選んで、永遠。このまま死ぬか、僕を受け入れて──人間を捨てるか」
シンの言葉が、脳内で渦巻いている。
永遠に残されていたのは、救いを求める選択肢だけだった。
「中に入れる! だからシン……っ、私を助けて!」
「契約成立だね」
異形が血の海を渡って進んでくる。
何とか立ち上がった永遠だが、足元がふらつき、バランスを崩してしまう。
通路側へと倒れ込んでいく永遠の手を、誰かの手がしっかりと握った。
「……シン?」
いつの間にか、シンが機内に立っている。
身体を引き上げられたことで、永遠はシンと向かい合う形になった。
すぐ近くまで迫っていた異形は、シンの姿を見るなり何故か動きを止めている。
「あ、ありがとう……。でも、どうやって中に?」
「どういたしまして。契約者の元へなら、どこにでも行くことができるからね」
「契約者……?」
最初に言葉を交わした時、シンは永遠のことを“適合者”と呼んでいた。
契約者と適合者。
それが何を意味するのか問いかけるよりも早く、静止していた異形が再び動き出した。
異形は永遠の横を通り過ぎ、さらに後部の乗客に向かって進んでいく。
先ほどとは明らかに違う反応に、永遠が驚きの声をこぼした。
「どうして……」
「優先順位が変わったんだ。ちょうどいいから、今のうちに済ませておこうか」
そう言って微笑んだシンが、永遠へと手を伸ばしてくる。
突然、喉から何かが迫り上がってきた。
「ごほっ……!」
永遠の口から赤い液体がぼたぼたと垂れ、機内の床を染めていく。
「なに……が……」
視線を下げた永遠は、胸元にあるシンの腕を目にした。
腕の先は身体の中に埋まっており、まるで心臓を握られているかのような、妙な感覚が広がっている。
「ど、して……? シン……」
困惑する永遠の視界が、徐々に暗くなっていく。
「言ったでしょ? 中に入れてって」
シンの赤い目が鮮やかな光を放ち、絶世の美貌を妖しく彩っている。
もう片方の手で永遠の口元を拭うシンが見えたのを最後に、永遠の意識は暗闇へと落ちていった。
◆ ◆ ◆ ◆
「わー! まだ死にたくない、シンの馬鹿ーーー!」
叫び声と共に開いた瞼。
座席に横たわっていた永遠は、見覚えのある光景に、ぽかんと口を開いている。
「あれ? 私、どうなって……」
身体に痛みはない。
それどころか、ものすごく軽いように感じる。
不思議な気持ちのまま、永遠はひとまず辺りを確認しようと、身体に力を込めた。
ポタポタと降ってくる生温かい液体と、そこから漂う鉄の臭い。
座席の背もたれよりもさらに上から、永遠を覗き込んでくるその姿は──先ほどまで機内の人々を屠っていた異形のものだった。
咄嗟に体勢を立て直し、異形の下から抜け出す。
険しい表情で視線を向けた永遠だが、ふと違和感に気づいたらしい。
「どうして襲ってこないの……?」
異形は永遠を獲物として狙っていた。
しかし、今は不自然なほど大人しく、静かに永遠を見つめてくるだけなのだ。
『とりあえず、そいつは始末しておこうか』
突然聞こえた声に、永遠の思考が停止する。
「へ?」
周りを見渡すも、辺りは一面血の海で、生存者らしき人は見当たらない。
聞き覚えのある声は、耳元で囁くようにも、頭の中で響くようにも感じられた。
「もしかして、シン……?」
『そうだよ』
恐る恐る問いかけた永遠に、声の主は肯定を返している。
「えっ、どういうこと? というか、シンは今どこにいるの!?」
声は聞こえるのに、シンの姿がどこにもないのだ。
慌てふためく永遠の身体に、何かがじわじわと浮かび上がってきた。
身体の至る所に現れたそれは、紋様のような形をしている。
鮮やかな赤は発光しており、紋様は血流のように動きながら形を変えていた。
『僕はここだよ、永遠』
シンの声が聞こえたと同時に、左腕の紋様が手首の方へと伸びていく。
手の甲にまで広がった紋様の一部は、しゅるりと皮膚から剥がれ、宙に浮かび上がっている。
「これ……どうなってるの?」
『それについては、あとで説明するよ。まずはそいつの始末を優先しようか』
紋様が示した先には、静止した異形の姿がある。
シンの意図を問うよりも早く、突然──機内が大きく揺れ動いた。
床を浸す血液が片側へと流れ、水平だった飛行機が傾いていく。
「えっ、なに!?」
『墜落まで、あまり時間がないのかもね』
「つ、つつ墜落!?」
『うん。墜落』
平然とした声で話すシンに、永遠は思わず泣きたくなった。
『早いところやってしまおう。脱出するなら、急いだ方が良さそうだしね』
半泣きで立ち尽くす永遠の手から、紋様の一部がするすると抜け出ていく。
紋様は刀の形に変わると、そのまま吸い付くように永遠の手に収まった。