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カサゴ  作者: どくだみ
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消えない唇の感触

 功一とこずえはその日、厚木のぼうさいの丘公園に来ていた。ぼうさいの丘公園は厚木の郊外にある公園で休日などは子供連れなどで賑わう。功一とこずえは子どもたちが浸かって遊ぶ流水に足を浸けながら、涼を取っていた。

 あのカサゴ釣り以来、こずえは頻繁に功一の実家にも出入りするようになっていた。

 功一は功一で、こずえの実家への挨拶は済ましていた。こずえの実家は厚木の恩名というところにある。このぼうさいの丘公園からも程近い。功一は挨拶に行く際、アダルトビデオに出演した娘を精神病院に入院させたくらいの親と聞いて、一、二発殴られるくらいの覚悟はしていた。だが、意外にもこずえの父、喜久雄は「やっと、まともに家に連れてこられるような男を見つけたか」と言って、快く功一を迎え入れてくれた。それ以来、功一もこずえの実家へは時折顔を出していた。どうやらこずえの両親も功一を信頼してくれているようだった。それは功一が娘と同じ病気を患っていることよりも、どうも公務員であることの信頼が大きかったようだ。公務員であることの辛さを噛み締めていた功一であるが、この時ばかりは自分の立場に感謝した。

 八月の厚木の緑は美しく、流水の楚々とした雰囲気と相俟って、何ものにも変えられぬ風情がある。綿飴のような雲が千切れて飛んでいく空はどこまでも抜けており、陽の光が樹々に生命感を与えていた。

 そんな麗らかな午後のひとときを、こずえの脚は清らかな水と戯れて遊んでいた。

「こんなところが実家のすぐ側にあるなんて羨ましいな」

「あら、功一のアパートからも近いんじゃないの?」

「まあね。でも来たことなかったよ」

「功一の実家の近くにも運動公園があるじゃない。広くて大きいの」

 功一はこずえとこんな会話ができる幸福が有難かった。ただ、刻一刻と復職の時期が近づいている。こずえを心の支えにしようと思うが、ここのところどうも気持ちが前に進まない。復職という現実が重く功一の心に圧し掛かり、その重圧で押しつぶされそうになるのだ。功一はここのところ、眠りが浅くなっているような気がしていた。

「俺さぁ、今月の下旬には職場復帰しなきゃならないんだけど、気が重いんだよね」

 功一が青い空を恨めしそうに見上げて唸った。

「復帰が辛いの?」

「でも、ここを越えなければ、何をやってもダメな気がするよ」

 功一がため息を漏らす。功一の背中をこずえがポンと叩いた。

「もっと軽くいこうよ、そうライトに。いざとなれば、先生に診断書とか書いてもらって、休暇の延長を頼んでみたら?」

「うーん、その手もあるんだけどなぁ。ますます立場が悪くなりそうで……」

「ふふふ、私なんか捨てるもの無くなっちゃったから、気楽なもんよ。私はね、功一さえいてくれればいいの。他には何もいらない」

「男の職場にはしがらみがいろいろとあるんだよ」

 急にこずえが真顔になって、功一に迫った。

「仕事と私のどっちかを選べって言われたらどうする?」

「そりゃあ……、こずえだよ」

 功一はやや後ろに仰け反って答えた。するとこずえは「嬉しい」と言って、腕を絡めてきた。


 その日は功一の診察日だった。

「ああ、休暇延長の診断書なら書きますよ」

 主治医はあっさりと言った。功一にしてみれば、随分と呆気ない言葉だった。主治医は眼鏡を指で押し上げながら、カルテに何か書いている。

「やっぱり、まだ良くなっていないんでしょうか?」

 功一は不安を隠せずに尋ねた。功一は昨夜もほとんど寝られなかったのだ。

「入院した時よりずっと良くなっていると思いますよ。ただ、あなたのうつ病は重度でしたからね。脳の機能が回復には相当な時間がかかると思ってください。まあ、重度のうつ病の方でも日常生活を送れるくらいに回復する方は結構いますよ。ただ、復職のハードルはやっぱり高いですね。いざ、職場に向かっても足が震えて戻ってくるケースも多いです。まあ、焦らないことです。一歩一歩やっていきましょう」

 主治医は淡々と、説得するように言った。

「最近、睡眠は?」

「あまり眠れません。眠りが浅くて、朝方によく目が覚めるんです」

「それは良くないですね……」

 主治医が渋い顔をした。そして「眠剤を調整」などと独り言を呟いている。

「ところで神崎さんはご趣味を持っていらっしゃるんでしたっけ?」

「はい、趣味というか、最近釣りに行ったんです。面白かったですね」

「ほう、釣り、釣りね。釣りはリハビリにいいですよ」

「そうなんですか?」

「私の受け持つ患者さんで、毎日釣りに行ってうつが良くなった方が何人かいます」

 その話には功一も驚きを隠せなかった。

「あのー……、恋愛はどうでしょうか?」

「は?」

「今、お付き合いしている人がいるんですけど、彼女もうつ病で……」

 今まで功一は主治医にはこずえと付き合っていることを打ち明けてはいなかった。恋愛には相応のエネルギーが必要だ。それが果たしてうつ病とどのような関係にあるのか知っておきたかった。

「うーん……。お付き合いを始めたのは最近ですか?」

「はい。退院してからです」

「新しいことはなるべく避けた方がいいんだけどなぁ。それに、相手もうつ病か……。まあ、しょうがないねぇ」

 主治医は頭をボリボリと掻きながら、視線を逸らした。

「まあ、野暮なことは言いません。神崎さんも大人なんだし……。兎も角、診断書は書いておきますよ」

 主治医はつまらなさそうに、机と向き合った。そんな主治医に功一は誠意を込めた一礼をした。


 結局、主治医には診断書を書いてもらい、就前の薬が追加になった。

 功一は受診した足で、厚木市内にあるアパートへと向かった。功一のアパートは厚木の旭町というところにある。久々に帰ったアパートでの雨戸を開け、埃を追い払う。掃除をしている時に、バッグから書類が落ちた。職場の回覧文書だ。功一が資源ごみに出すはずだった書類である。その紙切れに押された上司の捺印を見た瞬間、功一の心臓が「ドクン!」と大きく脈打った。そして、乱れた脈は動悸となり、きつく功一の胸を締め上げる。

(く、苦しい……!)

気が付くと、他愛もない広報の回覧文書は掌から滲み出た脂汗で、じっとりと濡れていた。功一は慌ててその書類をバッグに仕舞うと、おもむろに煙草を取り出し、ベランダへ出た。そして、火を点けて大きく煙を吸い込む。

(こりゃ、まだダメだな……)

 動悸はまだ収まらなかった。功一は煙草を吸い終えると、グラスに水を並々と注ぎ、セルシンという頓服の安定剤を口に放り込んだ。そして、一気に水で流し込む。功一が頓服薬に頼るのは退院してからというもの、これが初めてであった。

頓服薬を飲んだ功一はベッドに身を投げた。心臓の鼓動だけが脳の中枢に響き渡り、反芻する。脂汗は全身から滲み出ており、シャツが身体に張り付くのがわかった。功一の脳裏にカサゴがまた岩陰に潜り込むイメージが重なった。

 頓服薬はおよそ三十分でその効果を発揮する。功一はそれまでの間、締め付けられるような動悸と、滴る発汗の不快感に耐えなければならなかった。そして、心の奥底から突き上げてくるような不安感。何かに頼らなければ乗り切れそうにもなかった。

「ああ、こずえ、こずえ……」

 功一は無性にこずえが恋しくなった。すぐさま携帯電話を弄った。


 その日の夕方、功一とこずえの姿を「おかめ」の一画に見ることができる。「おかめ」は本厚木駅から合同庁舎の方へ向かったところにある老舗のホルモン焼き屋で、ここのホルモン焼きが功一の好みだった。厚木はホルモン、特にシロコロが有名な町でもある。一人暮らしをしていて、時々はここのホルモン焼きを食べに来ていた功一だった。

「ごめんね、急に呼び出したりしちゃってさ」

「ううん、ここでしょ、功一が前に言っていたホルモン焼き屋って?」

「うん。特にシロコロが美味いんだ」

「それより大丈夫?」

 こずえが心配そうな顔をして、功一を覗き込む。功一の口元がフッと緩んだ。どうやら頓服薬は効いたようだ。功一の顔色はだいぶ良い。

「ああ、こずえの顔を見たら落ち着いたよ。実は先生に診断書を書いてもらってさ。休暇を延長することにしたんだ。とてもまだ復帰出来そうにないや」

 功一がやや自嘲的に笑う。こずえも釣られて苦笑した。

「お待ちどう様。シロコロにカシラ、ハツ、コブクロになります」

 そこへ、ホルモンが運ばれてきた。「おかめ」の肉は新鮮で、その色艶を見ているだけでも食欲がそそられる。

「あ、美味しそう。厚木のホルモンって有名だけど、私、まだ食べたことなかったのよ」

 早速、功一が七輪に肉を載せる。シロコロから脂が滴り、備長炭に垂れた。

「ホルモンはじっくり焼かないとね」

 二人はホッピーで乾杯し、肉が焼き上がるのを待った。こずえにとってホッピーも初めてだった。

「ホッピーってビールのような、それでいて違うような不思議な味ね」

「ホッピー自体にはアルコールが入っていないから、焼酎で割るんだよ。まあ、ノンアルコールビールを焼酎で割っているようなものだね」

 こずえは「ふーん」と頷きながら、ホッピーをチビチビ舐めている。功一はグイと煽った。

「でもさ、功一の休暇が延長されて良かったかも。一緒にいられる時間が増えたもんね」

 こずえが焼き上がったシロコロを愛しそうに摘んで言った。

「俺、これでも悩んだんだよ。今までは療養休暇、延長すると休職になるんだ」

「ふーん。どこが違うの?」

「給料とか人事面とかね。それに正直言って出世のことも考えたな。ドロップアウトするんじゃないかと思ってね。でもね、俺にはこずえがいる。それだけで幸せだと思ってさ」

「嬉しい……」

 ホッピーをチビッと舐めていたこずえがニンマリと笑った。

「ねえ、今度またカサゴ釣りに行こうよ。あの新健丸」

「それだよ。先生の話では釣りがうつ病に効くらしい」

「へえ、そうなんだ。でも何となくわかる気がするな」

「親父の話では新健丸はもうこの時期、カサゴの乗合船を出していないらしい。今、行くとするとイシモチかな。今年はだいぶ早くイシモチに切り替わったらしいよ。イシモチも面白いけど、こずえはカサゴがいい?」

「そうね。毎回船に乗っていたんじゃお金が掛かるしね。じゃあ、この近くの港でカサゴは釣れないの?」

 こずえが肉をひっくり返しながら、素朴な疑問をぶつけてきた。

「多分、大磯港とかで釣れるんじゃないかな。まあ、食べられるサイズが釣れる保証はないけどね」

「いいじゃん。どうせリハビリなんだから」

 こずえが焼けたシロコロを頬張った。その口元が何とも言えないエロスを湛えていた。

 功一はこずえと付き合い、こずえを既に抱いていた。こずえを抱く時、アダルトビデオを意識などしない功一である。ごくありふれた普通の交わりを行うだけだ。

功一は恐る恐る箸をコブクロに伸ばす。それは豚の子宮なのだが、まるでこずえの子宮を食すような錯覚に陥った。

(愛する人を食べてしまいたい……)

 そんな欲求が人間の本能の奥底には眠っているのかもしれないと思う功一だった。以前、外国で恋人を殺害し、食べてしまった青年がいたことを思い出した。その事件こそは嫌悪すべきことであるが、その青年の心境の一端は理解できると思ったのである。

 コブクロは功一の口の中で、エロティックな弾力をもって応えてくれた。

「美味しい……」

 こずえが笑みをこぼす。

「ああ、美味しいね……」


 功一の実家には水槽がある。その水槽の中に十センチ程のカサゴが泳いでいた。先日、功一とこずえで大磯港へ行き、釣ってきたカサゴだ。獲物がそれ一匹だけだったため、功一は水槽で飼うことにしたのだ。餌は釣具店で買ってきた、アオイソメという虫を与える。水槽の中に岩陰を作ってやると、カサゴはそこに隠れ、餌を食べる時にだけ、そこから出てくる。口いっぱいにアオイソメを頬張る姿が、何とも愛嬌があり、可愛らしくもあった。

 功一は既に休職期間に入っていた。職場には診断書を送付し、休職の辞令が出ていた。直属の上司とは電話で一回、やり取りをしただけで済んだ。今は先日までの葛藤が嘘のように、心穏やかだ。取り敢えずは復職という現実から逃げているのかもしれない。しかし、今の功一にとって、休職期間は岩陰に隠れるカサゴのようなものであり、身を守るために必要な時間だった。

 功一はカサゴを眺め続けた。カサゴは大きな口を一杯に開けて、アオイソメを頬張っている。一度では全部呑みきれず、口からアオイソメの尻尾が覗いていた。

(そういえば、こずえからメールの返信が来ないな……)

 今朝、功一はこずえにメールをしたが、未だに返信がない。これほど返信がなかったことは今までなかった。メールを打てば必ず直ぐに返信がきた。それに、携帯電話に電話をしても出ないのだ。

 功一は携帯電話を弄った。こずえの携帯電話に掛けるが、やはり繋がらない。仕方なく、こずえの実家に掛けることにした。

「もしもし、野原ですけど」

 電話に出たのはこずえの母、昌子だった。

「すみません、神崎です。こずえさん、いらっしゃいますか?」

「あら、あなたと一緒じゃなかったの?」

「ええ、すみません。じゃあ、また携帯電話の方へ掛けてみます」

 功一の心の中に焦りのような不安が過ぎった。これほどこずえと連絡が取れなかったことは初めてだった。だが、こずえは今どこにいるのかわからない。功一は車のキーを掴んだものの、どうしたものかと家の中をウロウロと歩き回り、まるで動物園の熊のようになってしまった。

そんな功一の様子を見て、母の律子が言った。

「何やっているのよ。落ち着かないわね」

「こずえと連絡が取れないんだ」

 功一が爪を噛む。

「あのねぇ、こずえさんは功一の所有物じゃないのよ。少しくらい連絡が取れないからって……。深刻に考えすぎよ。病気に良くないわよ」

 律子のその言葉に、功一は自分の水槽の前へと戻った。カサゴはもう、アオイソメを全部食べきっており、また岩陰に身を潜めていた。

 功一は母の言葉を受けて、自分とこずえとの関係について考え直していた。改めて考えてみると、功一は随分とこずえに依存していたと思う。仕事を休んでいる今、まるで自分の存在意義そのものであるかのような、依存の程度であった。

(こずえは俺に依存しているのだろうか?)

 ふと、そんな疑問が功一の中に生まれた。いつも明るく、功一を支えてくれるこずえは、自分に依存しているような状態だとは思えなかったのである。そう考えると、少しの間連絡が取れなくても、こずえにとっては大きな問題ではないのかもしれないと功一は思い、自分を納得させることにした。

 その日の晩は携帯電話を枕元から少し離した場所に置き床に就いたものの、なかなか寝付けなかった。灰皿は山のようになっていた。

 二十三時に携帯電話が鳴った。ディスプレーを見るとこずえからの着信だった。

「もしもし、こずえ?」

 だが、返ってきた声は野暮ったい男の声だった。

「神崎功一っていうのはお前か?」

「誰だ、あんた?」

 その男の声に聞き覚えはなかった。功一の身体は半ば眠剤に支配されつつあったが、この時ばかりは頭の中が明瞭になっていくのがわかった。同時に心臓の鼓動が高鳴る。

「俺はこずえの彼氏だよ」

 電話口の向こうで「嘘よーっ!」と叫ぶこずえの声が聞こえた。功一は直感的にこずえが以前に付き合っていた男であることを理解した。

「馬鹿な。こずえと今、付き合っているのは俺だぜ」

「くくく、俺とこずえは深い仲で結ばれているのよ。お前が入り込む余地なんてないぜ」

 男は勝ち誇ったように笑った。功一は身体中の血液がすべて頭に上っていくのがわかった。

「それにこれ以上、こずえと関わると怪我するぜ」

 こずえの「やめてーっ!」という声が聞こえた。

「やれるもんなら、やってみな。それより早くこずえを開放してやれ。嫌がっているじゃないか」

「今日は久々にいい声色を聞かせてもらったぜ。これから毎日、お楽しみだぁ!」

 男は高笑いすると、一方的に電話を切った。功一の胸の中にどす黒い殺気と灼熱の嫉妬の念が対流していた。眠剤の効果は既になくなっていた。


 次に功一の携帯電話が鳴ったのは二十六時過ぎだった。無論、相手はこずえだった。

「ごめんね、こんな時間に……。さっきはごめんなさい」

「いいよ、ずっと連絡を待っていたんだ。一体どういうことなんだ?」

 功一は責めるふうでもなく、なるべく落ち着いて喋るよう心掛けたつもりだった。ここでこずえを責めても仕方のないことは分かりきったことだった。

「ごめんね、功一の声を聞きたかったの。ごめんね」

「あの男、誰なんだよ?」

「元カレ。別れたはずなんだけど、よりを戻そうって言って、強引に……」

「なんで会ったんだよ?」

 つい功一は語気を強めてしまった。すると、携帯電話の向こうの空気がすすり泣いていた。

「もう、あいつの誘いには乗るなよ」

 こずえは「うん」と気のない返事を返し、ただ「ごめんね」と繰り返す。

「はぁーっ……」

 功一は深いため息を漏らした。

「今日は遅いから、明日また話そう。明日会おうよ」

「うん……」

 こずえは力なく答えた。その声にはまるで生気がない。功一はこずえの身に、何かよほどのことが起こったのだろうと推測する。だが、こずえは語ろうとはしない。

「じゃあ、お昼前に迎えに行くね」

「ありがとう……」

「おやすみ」

「ええ、おやすみなさい」

 こずえの声は震えていた。いつも、功一が落ち込んでいる時には明るく励ましてくれるこずえだが、今日は「ごめんね」しか言わなかった。功一はやるせない仕草で電話を切った。こずえと連絡が取れたことは良かったが、どうも態度が気に掛かる。まるで魚の骨を喉に引っ掛けたような気持ちだ。

(俺はそんなに頼りないかなぁ……)

 そんなことを心で呟きながら、功一は煙草を取り出すと、おもむろに火を点けた。フーッと重いため息を吐き、既に山のようになった灰皿に、トンと灰を落とす。功一は半分も吸わないうちに、煙草をもみ消した。そして、横になる。

眠剤の影響で身体だけが異様にだるい。功一の瞳は虚ろだった。だが、眠れるわけではなかった。

 

 功一の携帯電話の着信音が鳴ったのは翌朝だった。身体は夕べの眠剤に支配されていた。眠りに落ちた後、急に効果を発揮したのだろう。異様に身体がだるかった。それでも腕を伸ばして携帯電話を握る。

「もしもし?」

「神崎君かね?」

 功一はその声に聞き覚えがあった。こずえの父の喜久雄だ。喜久雄の声は慌て、上ずっていた。

「大変だ、娘が、娘が……!」

「こずえさんが、どうしたんです?」

「手首を切って自殺しようとしたんだ!」

「自殺ですって?」

 功一の脳天に鋭い電気信号が一瞬のうちに駆け巡った。体内に残っていた眠剤が一気に抜け、脳の回路がけたたましく働き出すのがわかった。

「で、助かったんですか?」

「ああ、一命は取り留めたが、まだ意識が回復していない。気付いた時には、風呂場で……。もうちょっとで、手遅れになるところだった……」

「そ、そんな……」

 功一の胸が急に苦しくなり、真っ赤な焼けた鉄を投げ入れられたような痛みが走る。同時に、目にこみ上げてくる熱い涙。

 功一は昨日の電話の男の存在が、こずえの自殺の動機だと直感した。功一はこずえのために微塵の力にもなれなかった自分を恥じ、責めようとしていた。

「医者が言っていた。うつ病は回復する時期に自殺する危険があると……。娘の携帯電話を見たら、昨日、昔の男から電話やメールが入っていたんだ。とんでもない男だったんだ」

 喜久雄が電話越しに泣いていた。唇を噛んでいるのがわかった。

 功一はハッとした。昨夜のこずえの電話は別れを言うための電話だったのだ。

功一も以前、主治医から聞いたことがある。うつ病は急性期には自殺するエネルギーがなく、回復期に自殺願望が残存していると、自殺するエネルギーがうつの状態を上回り、衝動的に自殺してしまうことがあるのだ。こずえの場合も昔の男に無理な要求を突きつけられでもしたのだろうか、将来を悲観し、衝動的に手首を切ったのだろうと功一は推測した。

「どうして僕に、僕に相談してくれなかったんだ!」

「君も娘の恋人だろう。何でしっかり支えてくれなかったんだ?」

 喜久雄のその言葉は、功一の心臓にそのまま鋭い槍となって突き刺さった。功一の呵責の念は頂点へと達しようとしていた。

「兎も角、娘は今、厚木市立病院に緊急入院しているんだ。できれば君も娘の側に付き添ってやって欲しい」

「わかりました……」

 電話を切った功一は、携帯電話を耳に当てたまま、しばらく呆けていた。涙は自然と、止め処もなく流れ出してくる。功一の身体の中にこれだけの水分がよくあるものだと思う。功一は涙を流れるままにまかせていた。ただ、こずえの付き添いを許可してくれた喜久雄には感謝しなければならなかった。

 功一が着替え、車のキーを掴んだのは、どのくらい経ってからだろうか。功一はこずえの元へ行かねばならなかった。

 霞んだ目に水槽が映った。カサゴのいる水槽だ。それを見て功一は「あっ」と叫んだ。カサゴは口いっぱいにアオイソメを頬張り、頓死寸前でもがいていたのである。

「馬鹿な奴だな……」

 功一はカサゴを掴むと、その口からアオイソメを引き抜いた。すると、カサゴは逃げるようにして、岩陰に隠れた。


 功一はすぐさま厚木市立病院へと飛んだ。国道246号線の渋滞がじりじりともどかしく感じられた。

 病室には喜久雄も昌子も来ていた。

 こずえは左手首に頑丈なコルセットと包帯を巻かれ、横たわっていた。腕には輸血のチューブの黒味がかった赤が突き刺さっている。

「こずえ、こずえ……」

 しかし、こずえは深い眠りに落ちているのだろうか。功一の声に反応しない。

 功一は安らかに呼吸を繰り返すこずえの口元を見て、少し安堵感を覚えた。

(助かってよかった……)

 よく見ると、こずえの目の脇には涙の乾いた跡がある。それを見て心が締め付けられる功一であった。

「うーん、功一……」

 こずえがうわ言を呟いた。そして、薄っすらと瞳を開ける。

「こずえ!」

 一同が叫んだ。

「ああっ、私、生きてるの?」

 こずえがまだ紫色の唇を振るわせた。

「生きてる。生きてるとも!」

 喜久雄がこずえの手をしっかりと握った。昌子も功一もこずえを覗き込む。

「功一、私……」

「何も言うな、こずえ……。話すことがすべてじゃない……」

 乱れたこずえの髪を功一は、そっと撫でてやる。髪はさらさらとしていた。それは生気に満ちた質感だった。確かにこずえは生きていた。

「患者さんの意識が戻りました」

 看護師のその声で、医師が駆けつけてきた。

「よかったですね。じゃあ、手筈どおり転院になりますので……」

「転院?」

 医師のその言葉に功一は目を丸くした。

「精神病院だよ。前のリストカットは傷も浅く、問題なかったが、今度はまた自殺の恐れがあるのでね。警察や保健所も介入して措置入院が決まったんだ」

 そう語る喜久雄の表情は強張っていた。

「措置入院……」

 その言葉が功一の背中に重く圧し掛かっていた。


 こずえは厚木市郊外にある精神病院に転院となった。精神保健福祉法第二十四条による措置入院である。無論、閉鎖病棟で、当面の間は保護室に入れられることになった。基本的に面会謝絶で、外部の刺激はシャットアウトされていた。功一は喜久雄が主治医との面接で得た情報に頼るしかなかった。届きそうで届かないところにこずえがいる。そんなもどかしさを功一は感じていた。

 その日の午後も功一はこずえの様子を聞きに、こずえの実家を訪ねた。すると、家の前で二人の男が小競り合いをしてるではないか。

「沢木、いい加減に帰れ。こずえはここには居ないんだ!」

 喜久雄の罵声が飛んだ。沢木と呼ばれた男はアロハシャツにサングラスという、堅気とは思えない出で立ちでガムを噛んでいた。

「おら、こずえの奴を出せよ。居るのはわかってんだよ!」

「ここはお前の来る場所じゃない。娘はお前に殺されかけたんだ!」

 喜久雄が沢木の胸倉を掴んだ。だが沢木はそれを軽く払いのけると、悪態をつくように吠えた。

「うっせーな、じじい。俺は何もしちゃいねえよ。それとも何か、俺が何かしたっていう証拠でもあんのかよ!」

 功一にはその声と態度でわかった。沢木と呼ばれるアロハシャツの男が、あの夜、電話で功一に「俺はこずえの彼氏だよ」と嘯いた輩であることが。

 吠える沢木の横へ、一部始終を見ていた功一が歩み寄った。そして、ボソッと囁く。

「こずえは俺の女だ。お前はとっとと帰ってビデオでも観てろ。このクズ野郎……」

すると次の瞬間、沢木は真っ赤な顔をして怒り狂いだし、「この野郎!」と喚きながら、功一に殴りかかった。二発、三発とパンチが顔面にヒットすると、功一はよろけて倒れた。

「よさないか!」

 喜久雄が止めるのも聞かず、沢木は倒れ込んだ功一を蹴り飛ばし始めた。ドカッ、ドカッと鈍い音がする。

 功一は不思議と痛みをそれほど感じなかった。いや、以前にも似た痛みを感じたことがある。精神病院に入院していた頃、こずえを庇って初老の患者に肘鉄を食らわされた時だ。

(こずえが腕を切った時は、もっと痛かったはずだ)

 そんなことを功一は思ったりもした。その最中にも沢木は功一を蹴り続ける。

沢木が倒れた功一の胸倉を掴み、揺すり起こした。

「おら、まだ言うか?」

「ウジムシ、社会のゴミ」

 また功一がボソッと呟いた。すると、沢木の瞳は爬虫類のような冷徹な瞳になり、懐から一本のナイフを取り出した。それは午後の太陽の光を反射して妖しく光っていた。

「きゃーっ!」

 様子を見に出てきた昌子の悲鳴が響いたその時だった。

「これで勘弁してもらえませんかねぇ……」

 何と功一が小声で囁き、財布を沢木に差し出したのである。沢木は功一を一瞥すると、ナイフを収めることなく、財布を掻っ攫った。そして、中身を確認する。

「ふん、シケてやがんな」

 沢木はナイフを懐に仕舞うと、もう一度功一の顔面を殴り、踵を返した。

 そこへパトカーのサイレンの音が鳴り響いた。パトカーから警官が素早く駆け下りてくる。昌子が110番通報をしたのだ。

「その男です。その男が僕に暴行して強盗したんです!」

 功一が沢木を指差した。すると、たちまち沢木は警官に囲まれた。

「テメエ、ハメやがったな!」

 沢木が吠えた。だが、沢木は両腕を掴まれ、パトカーの方へ連行されていった。

 功一が脇腹を押さえた。あばらの二、三本は折れているだろうと功一は思った。

「あなたも病院に行って診断書をもらってください。そうしたら署の方でお話を窺いたいと思いますので」

 若い刑事が功一に歩み寄った。功一は口元に薄っすらと微笑みを浮かべた。


 功一は実家での生活を続けていたが、たまに厚木のアパートへ換気をしに帰ったりもしていた。沢木に襲われた傷がまだ痛むこともあった。肋骨はやはり二本、折れていた。結局、沢木は強盗傷害の現行犯で逮捕され、現在も厚木警察署に身柄を拘束されている。沢木はどうやら初犯ではないようで、刑事が「実刑間違いなし」と言っていた。功一も警察で事情を聴かれた時、「恐怖に駆られて財布を出した」「命の危険を感じた」などと言い、沢木の有利になる発言は一切しなかった。警察の調べでは、やはり沢木はこずえに復縁を迫っていたらしい。

 喜久雄の話では沢木はこずえの昔の男で、アダルトビデオの仕事で知り合い、秦野の精神病院に入院する直前まで付き合っていたらしい。喜久雄は沢木のことを「チンピラ」と吐き捨てるように言った。

喜久雄は功一のあの時の身体を張った敵討ちには感謝をしているようだったが、自分の両親からはこっぴどく叱られた。だが、功一の心の中には沢木を逮捕に結びつけたことで、幾ばくかの満足感が残っていた。それと相反するように、こずえに会えない虚しさが胸の中で反芻する。うつ病も実感として良くなっているのかは、功一にもわからなかった。復職してもしばらくは実家から通うことも考えている功一であったが、それはまだ遠い先のことのように思われた。

(たまには気分転換に映画のDVDでも観るかな……)

 功一は今日の昼間は換気のついでにアパートでDVD鑑賞をすることを決めた。功一は車のキーをポケットに無造作に突っ込むと、アパートを後にした。小豆色の軽自動車は少し離れた国道沿いのレンタルビデオ店へ向かって走り出した。

 大きな駐車場に車を停めて、功一は何気なく店に入った。

 その日、ほとんど無視することの多い、アダルトビデオのコーナーが功一の目に入った。無論、アダルトビデオなど観る気にはなれない功一であったが、こずえがアダルトビデオに出演していたことを思うと、そのコーナーに入らずにはいられなかった。

(こずえがいるかもしれない!)

 そう思うと、功一の胸は期待と不安で高鳴った。決して、こずえと見知らぬ男優の情事を観たいと思ったわけではなかった。こずえはアダルトビデオの仕事にプライドを持っていた。だから、DVDの中だけでもいいからこずえの存在意義を確認したかったのだ。

 作業は困難を極めた。アダルトコーナーに陳列されているDVDのパッケージを端から端まで、丹念に、じっくりと見極めていく。化粧とはさすが「化ける」と書くだけのことはある。大体の女性が美しい顔を作り上げ、「化け」ている。そして一様に物欲しそうな瞳を湛えているのだ。だからと言って、自分の恋人を見紛う程、功一は落ちぶれていない。しかしながら、功一はこずえの源氏名さえ知らなかった。

 功一は思った。のそのそと巣穴から抜け出し、レンタルビデオ店のアダルトコーナーで物色している自分は、岩陰から出てきて餌を漁るカサゴのようだと。アダルトビデオのパッケージを確認しながら、功一はこずえと釣った新健丸のカサゴを思い出していた。

 功一はすべての棚を確認した。しかし、こずえのDVDはついに見つからなかった。功一は自分の行っていた行動の可笑しさに、つい苦笑を漏らした。功一が携帯電話を弄った。待ち受け画面にはカサゴを高々と掲げるこずえがいる。功一は思わず目を細めた。

 功一が諦めてアダルトコーナーを出ようとした時、無造作に積み上げられているDVDの山を見つけた。アダルトビデオの世界は流行り廃りが早い。レンタル品としては価値のなくなったDVDを廉価で販売しているのだ。功一はそのDVDの山を掻き分けた。

 すると、DVDの山に埋もれたこずえは美しい化粧を施し、功一に微笑を投げかけながらそこにいた。

「こずえ!」

 功一には時間が止まったように感じた。ただ、ただ、立ち尽くしながら、そのパッケージで微笑むこずえを眺め続けた。

 もう随分と古いDVDなのだろうか、パッケージの写真は色褪せていた。こずえとの再会もつかの間、「1000円」と貼られた下品なピンク色のラベルに、功一はこずえが値踏みをされたような印象を受け、やり場のない怒りを覚えた。

「僕が……、助けてあげるよ」

 功一はそう呟くと、こずえのDVDをレジへと運んだ。

 功一がそのDVDを観るかどうかはわからない。この時、功一は精神病院で交わしたこずえとの接吻を思い出していた。その唇の感触だけが、功一の脳裏に焼きついていた。

 この時、ゆっくりではあるが、確実に時間は流れていた。功一とこずえはまだ、出口の見えない長いトンネルの中にいた。


(了)


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