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カサゴ  作者: どくだみ
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釣りの哲学

 功一は厚木市内のアパートで一人暮らしをしていたが、主治医の勧めもあり、一旦は秦野市の実家に身を寄せることにした。今は弟の信二も家を出ており、実家は両親の二人暮しである。功一の実家は秦野市の曽屋というところにある。国道246号線の近くで、駅からは少し離れた閑静な住宅街だ。

 功一はアパートを片付け、必要最小限の荷物を持って自家用車で実家に向かった。自家用車と言っても小豆色の軽自動車である。秦野に向かう途中、国道246号線は渋滞していた。ちょうど伊勢原を過ぎた辺りから渋滞が始まり、秦野に入る手前まで車は時速十キロ程度でしか走行しなかった。それでも新善波トンネルを抜けると、真正面に大きな富士山が功一の目の中に入ってきた。それは夏の雲を従えながら雄大に映え、見る者を圧倒するだけの迫力があった。

(富士山はやっぱり日本を代表する山だな……)

 功一はそんなことを思ったりもした。

 新善波トンネルを抜けると、渋滞もいくらか緩和され、下り坂に入る。実家はもうすぐだった。

 そのまま国道を走れば実家に着くのだが、小腹の空いた功一は、ちょっと寄り道をして小田急線を挟んで反対側にある「三憩園」というラーメン屋に寄った。「三憩園」は湯河原の老舗「味の大西」の味を継承する店で、功一はここのラーメンが好みだった。

 カンスイの入っていない麺はすぐ茹で上がる。注文して間もなく、功一の目の前に美味しそうな湯気を上げたラーメンが運ばれてきた。功一は胡椒を軽く振ると、すぐさま麺を啜った。そして、「美味い」と唸ったものである。入院時、何故か味噌汁などの汁物が出なかった。無論、ラーメンなど久しぶりだ。だからこそ、ラーメンを心行くまで堪能したかった功一である。麺を啜りながら功一は、いずれここのラーメンをこずえと二人で食べたいと思っていた。

 満腹で「三憩園」を後にした功一は、満たされた気分で実家を目指した。


 実家では両親が功一の帰りを待っていた。小豆色の軽自動車が敷地内に滑り込むと、両親が駆け寄ってきた。

「お帰り」

 母の律子が心配そうな顔で、覗き込む。

「ごめんよ、父さん、母さん、心配掛けて。しばらくの間、厄介になります」

「馬鹿か、ここはお前の家だぞ。誰に気を遣うんだ。まあ、ゆっくりしていきなさい」

 父の鉄夫が笑った。それを見て、功一は荷物を後部座席から降ろし始めた。

 実家は昔と変わりなかった。昔、功一が使っていた部屋には勉強机や教科書、百科事典などがそのまま置かれていた。功一はしみじみとかつて使っていた机を眺めた。

「功一、父さんが呼んでいるわよ」

 律子のその声で、功一は居間へと足を運んだ。

 居間では鉄夫がビールを片手に待ち構えていた。息子との再会を祝して乾杯をしようという心積もりだ。

「父さん、俺は今、病気なんだよ」

「酒、ダメなのか?」

「基本的にはね。まあ、一杯くらいなら……」

「そうか、じゃあ飲め」

 功一が恭しくグラスを差し出した。金色の泡が注がれる。功一は先ほどラーメンを食べていたから、空腹ではなかった。それでも久々に眺める黄金の液体は美味そうに感じた。グラスがカチンと鳴る。二人の男の喉が鳴った。

「ふーっ、やっぱり久々のビールは美味いね」

 功一が口に付いた泡を吹きながら言った。

「父さんなんか、ここのところ雨続きだから仕事がなくてな。昼間から、この美味い麦茶を飲ませてもらってる」

「父さん、もうそろそろ働かなくてもいいんじゃない?」

「年金だけじゃ食えないんだよ。身体が動くうちは働かにゃ」

「父さん、一つ聞いてもいいかい?」

「ん、何だ?」

「どうして俺があの病院、行くの反対しなかったんだい?」

 すると鉄夫は「ふーっ」とため息をついてグラスを置いた。

「本当は行ってもらいたくなかったさ、あんなところに……。でも仕方ない、仕方ないじゃないか」

 そこへ律子がお新香と冷奴を持ってきた。鉄夫が功一のグラスにビールを注ぎ、自分のグラスにも手酌で注ぐ。

「お父さんね、血圧の薬を貰いに行った時、病院の待合の雑誌で、たまたまうつ病の記事を読んだんですって」

 律子が心配そうにエプロンの端を握った。

「ああ、コンピューター関係や公務員でもうつ病が増えているってな。放っておくと、どんどん悪化して、治りも悪いそうじゃないか。だったら精神病院でもどこへでも行って、きっちり治した方がお前のためだと思ってな。でもまさか、入院するとまでは思っていなかったぞ」

「そうか。ご心配をお掛けしました」

 功一は改まり、両親に向かって深々と頭を下げた。

「馬鹿、子どもを心配するのが親の仕事じゃないか。そりゃ、子どもが幾つになっても同じことよ」

 この時、功一はふとこずえの両親のことを思った。正直、今までこずえを厄介払いするために入院させたのだと思っていた。しかし、アダルトビデオに出演し、うつ病になりリストカットまでしたわが娘を守るために入院させたのだとしたら、それは至極当然の考えではないかと。


 功一が実家に身を寄せてから一週間が過ぎようとしていた。この間、これと言ってすることもなく、功一はただぼんやりと過ごしていたのである。日中、テレビを観たり、晴れていれば、散歩をし、近くの秦野運動公園や戸川公園でのんびりしたりするのが日課だった。それに秦野も郊外になれば時間の流れは緩やかで、開放的なところが心地よかった。しかしながら、それだけの日課では二十八歳の男が身を持て余すのは当然と言ってよかろう。次第に功一の口からはため息が漏れるようになってきた。

 金曜日の夕方、鉄夫が仕事から帰ってきて、功一に言った。

「どうだ、明後日、久々に釣りにでも行かないか?」

「釣り?」

「折角なら、船に乗って行こうじゃないか。金沢八景からカサゴの船が出るんだ」

「カサゴかぁ。骨っぽいけど刺身にしても、煮付けにしても美味いね」

「よし、決まり、決まり。早速、船宿に電話を入れとくわ」

 そう言うと鉄夫は作業着の上着から携帯電話を取り出すと、そそくさと弄り始めた。

 功一は物置へ行くと、仕舞い込んだ自分の釣竿とリールを引っ張り出してきた。それらは積年の埃に埋もれており、リールなどはオイルとグリスを注さなければ使い物になりそうにない。それでも功一は嬉しかった。鉄夫が釣りに誘ってくれたこと、そして、今こうして釣具を弄る時間が出来たことが。

 功一は夕食もそっちのけでリールのメンテナンスに没頭していた。鉄夫は「父さんの道具を貸してやる」と言ってくれたが、やはり自分の道具で釣りたいものだ。リールは単に埃を被っていただけでなく、部分部分によっては錆付きもあり、入念なオイルとグリスの注入が必要だった。

 そんな時、功一の携帯電話が鳴った。携帯電話のディスプレー表示を見て功一は驚く。それはこずえからの電話だった。

「もしもし、こずえ?」

「もしもし、退院しちゃった」

「え、こんなに早く?」

 功一が目を丸くする。こずえが入院してまだ一ヶ月経っていないだろう。

「ちょっと、患者同士でトラブルがあってね、強制退院させられて今帰ってきたところ。まあ、良かったかも、功一のいない病院なんてつまんないし」

「今、どこにいるの?」

「厚木の実家よ。ねえ、これから会わない?」

「これからかい?」

 功一は時計を見る。時計の針は十九時を指そうとしていた。

 功一は律子に「ちょっと出掛けてくる」と言い、上着を羽織った。「ちょっと、功一」という律子の言葉は、彼の耳に届いたかどうかはわからない。漆黒の闇に溶け込む小豆色の軽自動車は、すぐさま滑り出した。

 

 その日の二十時半、小豆色の軽自動車は小田原市内にある、ハートランドクラブハウスというレストランの駐車場に停まっていた。このレストランはウッドデッキがあり、眼下に小田原厚木道路を行き交う車のテールランプを眺め、遥か向こうにはライトアップされた小田原城を望むことができる。

「ごめんね、こんな時間に突然呼び出して」

「ううん、でもビックリしたよ」

「どうしても今夜、功一に会いたかったの」

 そんな会話がレストランのテラスで交わされていた。金曜日の夜だというのに、ウッドデッキのテラスにいる客は功一とこずえだけだ。こずえは退院してすぐに化粧を施したのだろう。その美しさが際立っている。服装もまたミニスカートに戻っていた。

「相当、病院で嫌なことがあったな?」

「うん、まあね。私にはあの病院、合わないみたい」

 それ以上のことを功一は敢えて聞かなかった。おそらくは女性患者同士の確執がこじれ、トラブルになったのだろうが、こずえが喋らない以上、聞く必要のない話だ。事実、こずえは強制退院させられているのだから、良い気持ちはしないであろうと功一は思う。

「功一にね、どうしても言いたかったことがあるの」

「何だい?」

「正式にね、私と付き合って欲しいの……」

「もちろん。俺もそのつもりさ」

「元AV女優でもいい?」

「そんなの関係ないよ。好きになった人がタイプだから」

「こんな気持ちになったの初めて。今まで何となく付き合って、別れての繰り返しだったから、新鮮かも」

「俺にとってはこういうのが当たり前なんだよ」

 功一が笑った。しかし、その口調は少しも嫌味ではない。こずえが立ち上がり、眼下の小田原厚木道路を眺めた。功一が寄り添う。

「一つだけ注文してもいいかな?」

 功一がいささか真剣な表情で言った。

「なあに?」

「そのうち、こずえのご両親に会わせてくれないか?」

「嬉しい。うちの両親に会ってくれるの?」

 こずえが功一に抱きついてきた。化粧の香りが功一の鼻をくすぐる。

「今まで付き合った人って、親に合わせられない人ばっかりだったから……」

「俺のことはご両親によく言っておいてくれよ」

「はいはい」

 こずえがおどけて敬礼の仕草をする。そして、すぐに腕を功一に絡ませてきた。遠くに浮ぶ小田原城を二人でぼんやりと眺めた。

「ねえ、このまま二人でどこか行こうか?」

 こずえが甘えた声色でせがむ。

「ダメ。今日は帰らなきゃ。退院したその日に親を心配させちゃいけないよ。俺の印象も悪くなるだろう?」

「それもそうね。じゃあ、明日の昼間は会える?」

「いいよ」

「でも、もう少しこのまま……」

 功一はそっとこずえの肩を抱き寄せた。


 功一が実家に戻ったのは二十四時を回ってからだった。心配していた両親は功一の帰りを寝ずに待っていた。功一もこずえと別れた後、実家に連絡は入れておいたが、帰りが遅くなったことを両親に詫びた。

「お前、どういうことだ?」

 鉄夫は苛立ちを隠せずに、功一を問い詰めた。

「ごめん。彼女から突然連絡がきて……」

「彼女?」

 鉄夫も律子も目を丸くした。

 功一は入院中にこずえと知り合ったこと、彼女がアダルトビデオに出演していたこと、そして彼女と真剣に交際を始めようとしていることを両親に率直に話した。

「母さん、酒だ、酒!」

「まあ、また飲むんですか?」

「功一に彼女ができたっていうんだ。めでたいじゃないか」

「でもねぇ。母さんはちょっとアダルトビデオっていうのが引っ掛かるんだけどねぇ」

「いいじゃないか、若い者同士、好きにやらせれば。こいつは今まで女に縁がなかったんだぞ。いや、めでたい、めでたい」

 鉄夫は愉快そうに笑いながら、一升瓶を取り出して、湯飲みに注ぎ始めた。そして、それをグイと煽る。つまみなどいらぬ。息子の話がつまみなのだ。

「それにしても入院して彼女を見つけるとは、これこそ正しく怪我の功名だな」

 鉄夫は既に二杯目を注いでいる。

「ところで父さん、日曜日の釣り、こずえを誘ってもいいかな?」

「おお、そりゃ構わんが、彼女、気を遣わないか?」

「こずえも釣りに興味があるみたい。以前、ブラックバスを釣ったことがあるんだって。それに父さんや母さんにも会いたいって」

「そうか、そうか」

 鉄夫の目はもう眠たそうだ。律子は困ったような顔をしている。功一はこんな家族に支えられてつくづく幸せだと思った。そしてこの時、歯車はすべて順調に噛み合い、世界は功一とこずえを中心に回っているように思えた。

 功一は部屋に戻ると、そそくさと携帯電話を弄りだした。


 そうは言っても、こずえは緊張していた。釣りの当日、功一が迎えに行った車中でのことである。

「ああ、何だかドキドキする」

「気さくな親父だし、心配する必要はないよ」

「昨夜は眠れなかったのよ」

 こずえが眠たそうな目をこずる。こずえとは朝五時に本厚木駅で待ち合わせをしたのだ。

 ハンドルを握る功一は半ば安堵していた。昨日のデートで話をしていたとはいえ、こずえがミニスカートで来ないか心配だったのだ。しっかりとパンツ姿で現れた時には、正直ホッとしたのだった。

 鉄夫は自分の車で先に船宿へ向かっていた。「若い者は若い者同士で……」などと言っていたが、それでも気を遣っているようだった。

 朝の東名高速道路は空いていた。海老名サービスエリアでおにぎりを買うが、こずえは緊張のためか、喉を通らないようだった。功一が「船酔いするから」と言うと、無理にお茶で流し込んだ。小豆色の軽自動車は保土ヶ谷バイパスを抜け、横浜横須賀道路へと進入し、朝比奈インターチェンジで降りる。テールランプはまばらだった。功一は鉄夫に書いてもらった地図の通りに車を進めた。

金沢八景はさすが船宿銀座である。ここかしこと船宿がひしめき合っている。そんな船宿群を横目で眺めながら帰帆橋を渡り、一つ目の信号を左折して「新健丸」という船宿に着いた。

「よう、父さん」

「早かったな」

 鉄夫はニヤニヤ笑いながら、竿をケースから取り出していた。功一とこずえは車から降りると、少し改まった面持ちになる。

「父さん、紹介するよ。今、お付き合いしている、野原こずえさん」

「始めまして、野原こずえです」

 こずえが深々と頭を下げた。

「いやー、どうも始めまして、功一の父の鉄夫です。今日は済みませんねぇ。息子が釣りなんかに誘っちゃって……。あの、いろいろ教えますんで大漁確実ですよ」

 鉄夫は帽子を脱ぎ、人懐っこそうな笑みを浮かべた。その微笑にこずえの肩の力が抜けていくのがわかった。

「今日はよろしくお願いします」

 こずえは深々と頭を下げた。

「いい子じゃないか」

 鉄夫が功一にそっと耳打ちをした。

「おはようございます。荷物はカートに載せてください」

 船宿の若女将が声を掛けた。続いて船長がやってくる。

「今日はどの辺に行きます?」

 鉄夫が船長に尋ねた。角刈りだが丸顔の温厚そうな船長だ。

「今日は観音崎沖だね。昼から午後にかけて下げ潮が利くから狙い目だと思いますよ」

 船長は道具をカートに載せながら、屈託のない笑顔で答えた。

「父さん、最近はこの船によく乗るのかい?」

 功一が鉄夫の顔を覗き込んだ。

「ああ、この新健丸は親切だぞ。馴染みの船でなければ、お前やこずえさんを乗せるわけにいかないからな」

「父さんは最近、金沢八景に来ているの?」

「東名高速を使うと東京湾は案外と近くてな。この歳になると遠征はもうかったるくって……」

 鉄夫が照れたように笑った。

「今日はご家族で?」

 船長が荷物を積み込みながら、愛想よく笑った。

「ええ、息子とそのコレなんですよ」

 鉄夫が小指を立てた。船長は「ははぁ」という顔をし、微笑んでいる。功一もこずえも顔を見合わせた後、船長に一礼をした。船長は「昼過ぎには下げ潮が利くから、いい釣りできるよ」と気さくに声を掛けて船に乗り込み、餌の準備に取り掛かっている。すると、程なくしてエンジンの音が轟く。

 実際、「新健丸」は釣り雑誌などにもよく掲載される、人気の船宿だ。春から夏場にかけては主にカサゴを狙い、秋冬にはイシモチを狙わせてくれる。ホームページこそアップされていないが常連で賑わう宿で、初心者にも親切で丁寧なことで知られている。また、ここの船宿特製の仕掛けはちょっとした工夫が施されており、よく釣れるのだ。

「お父さん、一つご指導、よろしくお願いします」

 こずえが改まり、鉄夫に頭を下げた。

「いや参ったな、お父さんかぁ。あははは、わかりましたよ、まかせなさい」

 鉄夫が豪快に笑ったところで、若女将から声が掛かった。

「そろそろ、船が出ますよ!」


 船はゆっくりと桟橋を滑り出した。客は鉄夫と功一、そしてこずえの他に総勢十名程を乗せているだろうか。船長は若女将に「行ってくるよ」と元気良く手を振った。その仕草が爽やかだった。客を乗せた船は、八景島シーパラダイスの脇で一旦停泊し、スパンカーと呼ばれる帆を張った。それからフルスロットルで観音崎沖を目指す。金沢八景からは三十分程の船旅だ。

「船って気持ちいい」

 こずえが髪を風に預けながら呟いた。そして帽子を被りなおす。こずえはトモと呼ばれる船の船尾に陣取っていた。その前に功一、鉄夫と並ぶ。トモはほとんど揺れないし、波も被らない。レインウェアを着込んでいないこずえには丁度よい席だ。もっとも凪であるから波を被る心配もなかったのだが。

 こずえは船が切る風を全身で感じているようだ。時折、深呼吸をする。そして、瞳は遠くの景色を捉えていた。船のエンジンが立てる爆音も、吹き付ける塩辛い風も、そして大海原の懐も、すべてこずえの五感を刺激していた。

「あの近くに見えるのが猿島だよ」

 鉄夫が横須賀方面を指差さす。

「へえー。こんな船旅なんて初めて」

 こずえは釣り以上に船に揺られることに興味を示しているようだ。

「俺も昔はよく親父に付き合わされて釣りに行ったなぁ」

 功一がしみじみと言った。

「こんな楽しみを昔からしていたなんて贅沢よ」

 そんな会話をしていると船は減速し、その歩みを止めた。ちょうど観音崎灯台から少し沖へ行った辺りである。

「こずえさん、気持ち悪くはないかい?」

「全然、平気」

 こずえが得意そうに言った。功一もこずえも身を乗り出して海底を覗き込むが、さすがに水深があるため海底までは見えない。海は混ざりきらない青と緑を湛えながら、こまめに波を打ち返していた。

「すごい、吸い込まれそう」

 こずえが感嘆の声を漏らす。

「この下にお魚さんたちの竜宮場があるのかな?」

「やっぱこずえは女の子だね、ロマンチック」

 功一が笑った。その横で鉄夫は針に餌を付けている。餌はサバの切り身だ。

「はい、どうぞ」

 船長がそう言うと、まず鉄夫が仕掛けを下ろす。サバの切り身が水中でキラキラと煌くのがわかった。

「いいか、サバの切り身は皮の方から針に刺すんだぞ。それから、仕掛けを落としたら馴染むまで待って、岩と岩の間に落とすようにするんだ。それから……」

 功一もこずえも鉄夫の話を聞いていなかった。どうやら船が移動している間に仕掛けが絡んだらしい。解くのに四苦八苦している。それを見兼ねた船長が飛んできて、手際よく仕掛けを解き、丁寧に餌まで付けてくれた。

「今、お父さんが言ったように、岩と岩の間に落とすようにして。チョコチョコ動かしちゃダメだよ。アタリがあったら勝手に食い込んでくれるから。でも待ちすぎちゃダメ。根に潜られちゃうからね」

 根とは海中の岩のことで、カサゴは違和感を察知すると岩と岩の間に隠れる習性がある。そうすると、なかなかのことでは根から出てはこないのだ。アタリがあって十分食い込ませてから、根に潜られる前に釣り上げる。そこがカサゴ釣りの妙味なのだ。

 功一もこずえも仕掛けを放った。新素材の糸は感度がすこぶる良い。オモリが岩と岩の隙間に入り込むのがわかるくらいだ。それは一種、ザリガニ釣りに相通ずる趣がある。

「何かきてる、きてる」

 こずえが叫んだ。見ればこずえの竿先がプルプルと震えている。

「そりゃ、ベラかトラギスだな」

 鉄夫がこずえの竿先を眺めながら言った。こずえはリールを巻いた。すると、十五センチ程のパールホワイトの魚が、大きなサバの切り身を咥えていた。

「残念、オハグロベラだったね」

 功一が苦笑した。だが、こずえは珍しいものでも見るかのように、パールホワイトの小魚を繁々と眺めている。

「オハグロベラって言うんだ。可愛くて綺麗。水槽で飼ったらいいかも」

 功一はオハグロベラを針から外してやった。

「持って帰らないだろう?」

「食べられないの?」

「まず食わないね。子どもの頃、よく親父に連れられて宇佐美の船に乗った時、よくベラとかネンブツダイが釣れてさ。それをカモメの餌にして遊んでいたっけ」

「えーっ、それ可哀想。このオハグロベラは海に返してあげようっと」

 こずえがオハグロベラを海に落とした。放ったのではなく、その白い指から滑り落としたという表現が正しい。オハグロベラは元気良く海底へと戻っていった。

「あまり一箇所で粘ってると地球を釣っちゃうぞ」

 鉄夫が竿をゆっくり上下に動かしながら言った。

「オモリが底に着いたら、十秒くらい馴染むのを待って、スーッとゆっくり持ち上げるんだ。そして五秒くらい待って、またゆっくり落とす。その繰り返しだ」

 鉄夫に言われた通りに、功一もこずえもやってみるが、なかなか魚からの返事はない。船長も「潮が動かないし、澄み過ぎてるよ」とぼやいている始末だ。

 それでもこずえは真剣になって、竿を動かし、神経を集中させているようだった。

「こずえさんは釣り人の姿勢をしているなぁ」

 鉄夫がこずえの釣る姿を見てしみじみと言った。

「釣り人の姿勢ですか?」

「釣り人っていうのは、知らず知らずのうちに前のめりの姿勢になっているもんなんだよ。こずえさんも前のめりになって竿を動かしてるよ」

 鉄夫がそう言った時だった。こずえの竿先がゴンゴンと叩かれ、海中に引きずり込まれそうになった。

「うわっ、何かきた!」

「早くリールを巻いて!」

 鉄夫が叫ぶ。

「重―い!」

 こずえがリールを巻く間にも、竿先はグイグイと水面に引っ張られている。

 赤黒い魚体が水面に覗いた。その大きさたるやかなりのものだ。

 船長が操舵室から駆け寄り、タモ網を持ってきて、手際よく魚をすくってくれた。赤黒い魚は船の甲板の上に無造作に放られた。

「やったね、カサゴじゃん。それもお刺身サイズ」

 功一が自分のことのように嬉しがっている。船長も「いやー、こういうのを釣らせたかった」と笑みをこぼした。

「いやー、トゲトゲ!」

 こずえはその大きな魚体と厳つい面持ちに圧倒されているのだろうか。おっかなびっくりで、なかなかカサゴに触れない。何しろ三十センチはあろうかという大物だ。功一はその口から針を外してやった。

「いやー、おめでとう。狙ってもなかなかこれだけの大きな型は釣れるものじゃないよ」

鉄夫が祝辞を述べる。こずえは照れたような笑いを隠しながら、ガッツポーズをしておどけてみせた。こずえはブラックバス釣りの経験がある。恐る恐るだがカサゴの下顎を持って、その魚体を高々と掲げた。それを功一が携帯電話のカメラで写真に撮る。

「これ、携帯電話の待ち受けにするんだ」

 功一も照れたように笑った。一度は自信を失くした者たちが、自信を取り戻したような一匹であった。


 その後、カサゴの食い気は好転せず、こずえの釣った一匹で船は観音崎沖から猿島沖へと移動することになる。しかし、ここでも状況は好転しなかった。

「船長さんはいい釣りできるって言ったのに、カサゴいなくなっちゃったのかな?」

 功一がぼやく。鉄夫とこずえは、ただただ竿を動かし、竿先に神経を集中させている。「いや、カサゴはいるさ。ただ、食い気を起こしてくれないだけさ」

 鉄夫がしかめっ面をして言った。

「カサゴって奴は結構臆病な魚でね。潮の流れが気に入らなかったり、危険を察知したりすると岩陰に隠れて出てこないんだ。そんなところも人間そっくりじゃないか」

 功一は思った。自分の姿もカサゴに似ていると。そもそも人は誰でも自分を守る自己防衛の本能がある。だが、功一はうつ病になってから、それが顕著になったような気がしてならない。そう、まるで岩陰に隠れるカサゴのように。そして、こずえと出会い潮が流れ出した時、ようやく岩陰から出てきたのである。

 断っておくが、うつ病は「気の持ちよう」の問題ではない。立派な脳の病気なのだ。脳の神経伝達物質の異常によって引き起こされる病気である。だから、いくら気をしっかり持とうとしても、脳が正常に機能しなければ改善はされない。

 少しすると潮が利きだしたのか、ポツポツではあるが鉄夫がカサゴを釣り始めた。功一の竿にもアタリがあった。ゴゴゴンという無骨なアタリは心地よくもある。功一はカサゴを遠慮なくゴボウ抜きにした。二十センチそこそこのカサゴだが、功一にとって本日初の獲物だ。功一はボウズ(一匹も釣れないこと)を免れたことと、こずえへの面目が立ったことで、内心ホッとしていた。こずえも功一が釣れたことを素直に喜んでくれたのが嬉しかった。

「潮も利き始めたし、観音崎沖に戻ってみましょう」

 船長の提案で船は再び観音崎沖に移動する。

 するとどうだろう、先ほどまで沈黙していたカサゴたちが嘘のように飛び出し、餌を咥えるではないか。鉄夫にも、功一にも、そしてこずえにもアタリがくる。常に誰かしらの竿が弧を描いている状態が続いた。

「カサゴのアタリって、見た目そのままね」

 こずえが笑いながら言った。カサゴは鋭い棘を持ち、面構えは厳つい魚である。漢字では「笠子」と書き、釣り上げられ鰓を張ったカサゴの姿が笠を被った姿に似ていることから由来する。その引きは面構えと同様、無骨なもので知られている。

「確かにゴツゴツした引きだよね」

 功一がサバの切り身を針に付けながら同調した。ちょうどこずえは釣り上げたカサゴを針から外そうとしていた。功一からプライヤーを使った針の外し方を教わり、お姫様釣りは卒業したようだ。

「カサゴって厳ついけど、よくみると愛嬌がある顔してるわね」

「美人のこずえに言われちゃ、カサゴも敵わないよな」

 それからというもの、船長はこまめに船を流し変え、その度に必ずカサゴが釣れた。

「釣りってやつは、つくづく人生に似ているなぁ」

 鉄夫がポツリと呟いた。

「えっ?」

 それを小耳に挟んだ功一が、鉄夫の顔を覗き込む。

「さっきみたいに全然釣れない時もあれば、バタバタと釣れる時もある。人生も同じよ。何をやってもダメな時もあれば、急にトントン拍子にうまくいくこともある」

「なるほどね」

 功一が頷く。

「奥が深い」

 親子の会話にこずえも絡んできた。

「まったくダメな時があるからこそ、人は頑張れるのさ。でなきゃ努力しないもんな。釣れなきゃ何で釣れないんだろうと必死に考えるだろう。でも焦っても良い結果は生まれない。それも人生と同じよ」

 そう語る鉄夫の横顔は夕日に染まりかけていた。

「今日はあまり釣れないんで時間を延長しましたが、後十五分で揚がっていきます」

 船長が操舵室から声を掛けた。

「そうだ、こずえさんも今日、夕飯を一緒に食べませんか?」

「え、いいんですか?」

「カサゴの刺身と煮付けで一杯やりましょう」

 鉄夫は円満の笑みを湛えている。

「それじゃあ、俺がこずえを車で送れないじゃないか」

 どうやら功一は酒を飲むことに抵抗を示しているようだ。

「電車で送ればいいじゃないか」

 功一とこずえが顔を見合わせた。二人でクスッと笑う。

「さて、もうちょっとオカズを釣るぞ」


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